浅香市作は、天保5年(1834)、100石取りの福岡藩士・浅香茂周の子として誕生しました。浅香の名前が福岡藩の出来事などを記す『黒田家譜』に登場するのは、万延元年(1860)8月のことです。この頃、福岡藩の月形洗蔵(つきがた・せんぞう)らは藩主の黒田長溥(くろだ・ながひろ)に参勤交代での江戸への出発を控えるなどの意見書を提出。拝謁を願い出て、藩政改革、勤皇の志を打ち出していただきたいと述べ、勤皇党の存在感を示していました。この背景には、万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」で大老井伊直弼(いい・なおすけ)が暗殺されたことにありました。
万延元年(1860)8月3日、浅香市作(菅正助)、中村円太(林太郎)、江上英之進(原田大内蔵)らは、藩主の親藩である鹿児島へと出奔しました。藩主黒田長溥の東上(参勤交代)阻止、薩摩と筑前の連携強化を薩摩藩主の島津忠義に伝えるためでした。この行動に藩主黒田長溥は非常に驚き、9月3日に浅香らが帰国すると、謹慎を申し付けました。そして、文久元年(1861)、浅香らは遠島処分となったのです。文久元年が十干十二支でいうところの辛酉(しんゆう)の年であったことから「辛酉の獄」と呼びます。この処分にともない、浅香は玄界島に遠島。文久3年(1863)6月に赦免となります。
その後、浅香は京都での情報収集を命じられて上京中でしたが、元治元年(1864)7月の「禁門の変(蛤御門の変)」に遭遇。大変な苦難の中、この騒動の顛末を伝えに帰国を果たしました。この働きぶりが評価され、その後、長州藩主への使者として派遣され、五卿の太宰府移転にも尽力しましたが、慶応元年(1865)乙丑の獄(いっちゅうのごく)では禁固を命じられました。筑前勤皇党の同気の輩と見られての事と思われます。
明治元年(1868)、罪を赦され藩の職務に復帰。同年には藩主と上京、帰藩後には勘定奉行を努めました。秋月藩に騒動が起きた際には、秋月藩に移り少参事となり、事態収拾に努めましたが、明治23年(1890)5月13日、57歳で病没。