浦辺登の読書館(書評)

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『漱石の師マードック先生』平川祐弘著、講談社学術文庫

夏目漱石の師としては、東京帝国大学予備門長であった杉浦重剛が知られている。文部省の指示で、登校時の学生は靴を履かなければならなかった。これも、明治の欧化政策の一つだが、これに若き日の漱石は反発心を抱いた。下駄ばきで、校舎の廊下をこれ見よがしに歩いた。そこに出くわしたのが、杉浦予備門長だった。

「夏目、オマエは下駄と靴の底との摩擦面積の比較をしとるのか・・・」
何喰わぬ顔で、漱石の校則違反を見逃した杉浦だった。以後、漱石は終生の師として杉浦を尊敬していた。

そんなエピソードを持つ漱石に、もう一人、師と呼ぶべき人がいた。ジェームス・マードックである。漱石は、このマードック先生からきついスコットランド訛りの英語や歴史を学んだが、休日には早朝から自宅を訪ね、教えを乞う間柄でもあった。

明治四十四年(一九一一)、漱石に文学博士号を授与するとの通知がきた。同じく、医学博士としては、あの野口英世の名前もあった。しかし、漱石は、この文学博士を辞退した。文学博士授与、辞退という一連の報道を新聞は伝えていたが、この頃、鹿児島七校で教鞭をとっていたマードックが漱石に手紙をよこした。

「今回の事(文学博士号辞退)は君がモラル・バックボーンを有している証拠になるから目出度(めでたい)」との文面だった。
この漱石とマードックの人間関係は、日本の西洋化が過熱する中において、文明とは何ぞやと考えさせてくれる貴重な一編である。

この漱石とマードックとの関係性に続き、本書の後編では、漱石と森鷗外との比較文学の検討だった。漢文の素養を叩き込まれた両者の小説文体の比較は、それぞれが留学した国の相違も見て取れる。大英帝国の首都ロンドンに留学した漱石。欧州の新興国であるドイツに留学した鷗外。漱石、鷗外が漢文という基礎固めをした上に、英語、ドイツ語の影響が、文学にどのような反映したのか。いずれも甲乙つけがたいが、日本の文明度の高さを窺い知る検証は面白いものだった。

「あとがき」を読むと、著者の論文に対し、西尾幹二、竹内好などの研究者からの批判があったことを関心をもって読んだ。
昨今、名誉を欲しがる輩が多い中、明治の男の心意気とでもいうべき姿を漱石、マードックに見い出し、心地よい読後感に浸ることができた。

                                                                                                                                                                                                  以上

『団塊ボーイの東京』(矢野寛治著、弦書房)

東京の武蔵野の一画に成蹊大学のキャンパスがある。著者の矢野寛治氏が通った大学だ。一度、作家の多田茂治氏と訪ねたことがある。『夢野久作と杉山一族』『夢野久作読本』という著作がある多田氏に連絡し、大学図書館で待ち合わせた。大学の創立記念事業として、夢野久作が腹違いの妹に送った書簡を翻刻し、その研究発表会があるということからだった。校舎は三菱財閥が関係した学園だけに、風雅を感じる。そこに宇宙船を想起させる図書館が出現した。豪華な空間に軽い嫉妬を覚えながら、久作の書簡をガラスケースから眺めた。

そのガラスケースの並びで目に留まったのが、有馬頼義の著作だった。映画「兵隊やくざ」の原作となる『貴三郎一代』の著者である。『遺書配達人』という名作は、渥美清主演の映画にもなったが、シリーズとなった勝新太郎の「兵隊やくざ」の方に世間の関心は集まる。少々、残念ではあるが、その有馬頼義が、なぜ、成蹊大学にと訝る。その答えは「有馬の殿さま」として本書の中にあった。1969年(昭和44)、当時、経済学部の学生であった矢野寛治氏だが、偶然、有馬の殿さまこと有馬頼義と野球部のグラウンドで遭遇した。なんとも、実にウラヤマシイ思い出である。

著者の東京での学生生活は、「個は孤」という団塊世代にしか経験できない時代だ。悲哀を込め、振り返りたくもない青春時代を、それこそ、フーテンの寅さんのセリフではないが、「恥ずかしき」日々の連続、悪戦苦闘が綴られている。その事々が、憧憬と哀れみがないまぜになり、やがて、共感となって沁み込んでくる。本書は、中洲次郎という矢野寛治氏のペンネームで「ぐらんざ」という雑誌に連載されたものだが、筆者自身、青春時代を描けと言われれば、やはりペンネームでしか書けない。しかし、ついに、矢野氏が本名で刊行したことに意義がある。

ノンフィクションとして記録される歴史も大事だが、文書化されず、口伝として、やがて消えていく「常民」の歴史は恣意的なものが加わっていない。それだけに、本書が内包する青春時代という歴史は貴重だ。日本の戦後史、誰もが頂点を目指した復興期の歴史と見ても良いだろう。全80話、250ページに及ぶエッセイは、まさに小宇宙。小説でしか書けない事も、年月を経ると「半生(反省)の記」として昇華する見本である。団塊の世代を自認される方々は、矢野寛治氏の青春時代に自身の青春をトレースしてみては良いのでは。

*作家の多田茂治氏は、令和二年五月三日病没された。享年九十二歳。合掌。

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『イスラム国と日本国』(三宅善信著 集広舎)令和2年6月16日

四方を海で囲まれた日本ほど恵まれた環境の国はない。他国と国境というものを有しないからだ。そのためか、国家とは何ですかと問われ、即答できる日本人は多くない。「領土、国民、主権」と学校教科書は教えるが、日常生活において緊張感を伴った国家意識を必要としないからだ。ゆえに、日本人とはと問われ、日本は単一民族だからと回答する閣僚がいる。しかし、それが普通の日本人の姿でもある。では、日本とは、日本人とは、何ぞや?である。

本書は、そんな日本の成りたちをイスラム国との歴史の比較から、現実を説いた内容である。全6章にわたって、国とは?という概念が語られるが、中でも秀逸なのが第6章の「二十一世紀における国家論」だ。日本から遠い中近東の国々ついて、テレビのニュースでしか知らないのが現状だ。日本人が関係した事件でも起きない限り、関心をもたない。日本経済に必須の石油資源の中近東でありながら、系統だって報じることができるメディアも少ない。

その根源の一つに、著者も問題提起しているが、イスラム教会による日本及び日本人に対する啓蒙、普及活動に積極的でないからだ。日本国民の1パーセントに満たない信者数でありながら、日本におけるキリスト教への理解は進んでいる。ゆえに、本書の第6章はイスラム国、イラン、イラク、シリアなどの地域紛争を解かりやすく解説していることに意味がある。

日本のように、郵便、新聞、テレビ、ラジオ、インターネットなどの情報機関が整備されていない国々では、SNSが重要な情報源となる。国境を有していれば、危機に際しての冷静な判断をくだす時間的余裕はない。一瞬の判断ミスが、自身や家族の生命を奪ってしまうからだ。目が覚めたら、他国の兵士が庭先に立っていた。などという経験を重ねてきた国々にとって情報と迅速な判断は肝要だからだ。

日本のマスコミは、日本が世界のグローバル・スタンダードに追いついていないと喝破する。このままであれば、日本は世界の孤児になると危機感を煽る。しかしながら、日本のマスコミはそのグローバル・スタンダードの真実を見極めていない。ゆえに、世界が、日本のグローバル・スタンダードに追いついていない事を、再認識させてくれる一書でもあった。果たして、日本のマスコミ、評論家が、本書を手にして、この真実に気づけるか否かはわからない。

蛇足ながら、大正14年(1925)1月、東京回教徒団が結成された。ロシアから追放され、日本に亡命してきた回教徒(イスラム教)の僧正たちが中心となったものだが、その集合写真中央には玄洋社の頭山満がいる。この一葉から、大東亜戦争前の日本の意識が広く世界に広がっていたことを感じとることができる。

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『占領と引揚げの肖像BEPPU』(下川正晴著、弦書房)令和2年6月14日

別府と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。何といっても、まずは、「温泉」だろう。さほど、別府の至る所、湯煙がもうもうと立ち上っている。大分自動車道のパーキングエリア、現在の立命館アジア太平洋大学のあたりから見下ろす別府湾の風景は、あらゆる人を開放的にする。

本書は、その別府の歴史、特に戦後史に特化して書かれたものだ。しかし、ここで注意しなければならないのは、地方都市の戦後史として軽く見ると、とんでもない大ヤケドに見舞われる。そのことは、全8章の項目を追うだけで、従来の戦後史が粗雑であったかが浮かび上がる。それぞれを列挙すると、「戦後史へのアプローチ」「モダニズム都市別府」「占領都市BEPPU」「朝鮮戦争とBEPPU」「戦災孤児・混血児の別府」「煉獄の引揚者」「阿南綾の戦後」「新生の別府女性史」だが、別府をわざわざアルファベットのBEPPUと記さなければならない史実に、本書の秘密がある。

なかでも、第2章72ページには驚いた。昭和三年(一九二八)から三年間、アメリカ海軍の情報将校が、別府に滞在していたのだ。まだ、日米が太平洋を挟んで激闘を繰り広げる十三年も前の事である。エドウィン・T・レイトンという人物だが、なんと、あのニミッツの補佐官を務めるのである。戦意高揚の歌に登場する「さあ来い、ニミッツ、マッカーサー」と揶揄した敵将の補佐官である。

そして、第6章180ページには、戦後の別府市長を務める脇鉄一の事績が紹介される。熊本五高、東京帝大、朝鮮総督府を経た人だ。さらに、近現代史では無名に近い存在かもしれないが、杉目昇という満洲での諜報活動で欠くことのできない人物の名前までもが登場する。

そして、第7章は、最後まで本土決戦を主張して止まなかった陸軍大臣阿南惟機の妻・綾が主人公である。

戦前、さしたる産業に恵まれない大分県は、地域振興のため海軍基地の誘致を試みた。宇佐海軍航空隊、大分海軍航空隊のみならず、保養施設、療養施設としての別府までもがあったのだ。別府のことを「泉都」とも呼ぶが、「軍都」と呼んでもよいかもしれない。温泉の湯煙に隠れて、アメリカ海軍の情報将校までもが潜むのが別府だったのだ。

復員船の第一船「高砂丸」が入港したのが別府だが、そこから展開する別府の戦後史を一地方史として見てはいけない事実に驚愕するだろう。巻末には大分県、別府、大分の戦後の事件簿が掲載されている。これを追うだけでも、資料的価値の高いものであることが証明されるだろう。
ちなみに、別府の米軍基地の復元図がある。後世に歴史を遺す新しい試みとして評価したい。
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*『忘却の引揚史』(下川正晴著、弦書房)との併読をお勧めします。

『武家の女性』(山川菊栄著、岩波文庫)令和2年6月7日

著者の山川菊栄(1890~1980)は女性解放の論客であり、伴侶は社会主義者の山川均(1880~1958)である。その菊栄が水戸藩下級武士の娘である実母の青山千世の聞き書きをまとめた内容だが、物語風に綴られた話は、昔話のようであり、肩が凝らない。

この物語は15に分かれているが、中でも「子(ね)年のお騒ぎ」は必読の章である。いわゆる水戸藩における内訌(内紛)である。水戸藩といえば水戸光圀が始めた『大日本史』編纂が続けられていたが、それは、全国の諸藩の模範でもあった。いわゆる水戸学と呼ばれる日本の歴史、政治体制についての集大成であったが、それが逆に時代の変遷において藩内に齟齬をきたした。このことは山田風太郎の『魔群の通過』や吉村昭の『天狗争乱』に詳しいが、「お騒ぎ」の水面下で、動きのとれない女性、老人、子供の姿は哀れとしかいえない。

心痛むのは、天狗党で決起した者の家族が牢に投じられた場面だ。不衛生な獄中で亡くなる者、食を絶って自殺する女性たちがいたことである。武家の家に生まれたばかりに、わずか三歳の幼児といえども男子ということで斬首となった。水戸藩の平時と有事の落差が大きいだけに、悲惨さがより一層、如実に浮かび上がる。先述の山田や吉村の作品といえども、こればかりは太刀打ちできない。

 明治維新の目的の一つに、封建的身分制度の打破があった。しかし、その全てが達成できたわけではない。その残滓が女性解放であり、その対応に著者の山川菊栄が行動した。遠い、幕末維新の話ではなく、現代においても男女共同参画が問題とされる。先駆者として山川菊栄を取り上げても良いのではと考える。

ちなみに、本書に中島歌子という女性が登場する。明治時代、文壇において樋口一葉、三宅花圃という女性たちの活躍は目覚ましいが、その樋口や三宅の和歌の師匠が中島である。「子年のお騒ぎ」で伴侶が処罰を受けたことから、累として獄窓にあった女性である。

尚、三宅花圃の伴侶はジャーナリストの三宅雪嶺だが、この雪嶺を岳父にもったのが朝日新聞記者から政界入りをした中野正剛(玄洋社員)である。

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『魔群の通過』山田風太郎 著、ちくま文庫 令和2年6月4日

本書は幕末の水戸藩を舞台にした天狗党の顛末を描いた物語である。この小説を読む前、吉村昭の『天狗争乱』を読了したが、同じ天狗党を扱った内容でありながら、読みやすさと印象は大きく異なる。

吉村昭の場合は膨大な文献資料から事件を忠実に描いている。山田風太郎の場合は事件の渦中から、少しばかり離れた位置に立って、物語風に描いている。人情の機微の絶妙さとしては、山田風太郎に軍配をあげたい。山田は資料を渉猟しながらも実際に天狗党たちが通過した断崖絶壁の道も歩いている。地の気、風の音、広大な風景は、やはり、現地を訪ねなければわからない。

武田耕雲斎、藤田小四郎を首領とする天狗党は、有無を言わせぬ武威によって恐れられた。その天狗党を迎え討ち、通過させた諸藩の中には、偽政者に都合のよい記録を遺している藩がある。このことを山田は見逃していない。文献資料に忠実に従う事も大切だが、その資料自体の信用度にまで踏み込まねば、実態はわからない。それを看破した山田の眼力に恐れ入った。

もともと、本書を手にしたのは玄洋社の杉山茂丸が遺した「過去帳(交友録)」に横浜富貴楼倉の名前があったからだ。杉山茂丸とは、玄洋社の総帥頭山満と半世紀に渡る盟友関係にあった人だ。その杉山の記録にあった倉の名前が「天下の糸平」こと田中平八の顕彰碑にあるという。碑が立つ東京都墨田区の木母寺を訪ねたが、顕彰碑に手跡を遺すのは、あの伊藤博文だった。倉の名前は、裏面の賛同者の一群のなかにあった。

田中は幕末から明治初期、横浜を中心に莫大な富を誇った生糸商人であり相場師である。水戸天狗党の決起にも参画したが、維新後は長州藩を後ろ盾に財を成した一人である。倉を介して、杉山茂丸も田中平八と親交があったのではと想像した。

山田はこの天狗党を描くことで主義主張、事件というよりも、人間というものの性を描きたかったのだろう。行間と行間、その後ろに垣間見える大きな問題提起に考え込んでしまった。読了後、小説とはなんぞや、しばし、再考したのだった。

蛇足ながら、明治42年(1909)、伊藤博文はハルビンで安重根に暗殺された。その伊藤の側にいて被弾したのが室田義文という水戸天狗党の人だった。もしかして、かつての恨みから室田を狙った銃弾が誤って伊藤に直撃したことから起きた暗殺事件だったのではと想像を巡らせた。さほど、骨肉相争った水戸藩だったのである。

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『天狗争乱』(吉村昭著、新潮文庫)令和2年6月1日

今から10年以上も前に読了した本書だが、読み返そうと思ったのは、権藤真卿こと古松簡二(1835~1882)の足跡を確認したかったからだ。古松簡二とは、明治四年に維新のやり直しを画策して捕縛された旧久留米藩(現在の福岡県久留米市)の人である。

古松は、福岡県八女郡溝口村(現在の筑後市溝口)の医師清水潜龍の次男として誕生した。才能を認められ、久留米藩の藩校明善堂の居留生となった。封建的身分制度が厳格な時代、一介の医師の息子が藩校に入ることができるのだから、どれほどの秀才であったかがうかがい知れる。以後、安井息軒の塾で学んだが、脱藩し、水戸天狗党の挙兵に身を投じた。

しかし、水戸藩の内訌(内紛)問題を優先する藤田小四郎(藤田東湖の子息)と意見を異にし、天狗党を離脱。その件を確認したく、本書の再読に取り掛かったのだった。「久留米藩を脱藩して天狗党にくわわっていた権堂(藤)真卿は・・・」という箇所がそれになる。

著者の吉村昭の関心もここで止まっているが、この権藤真卿こと古松簡二は、維新後、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通と大坂遷都問題で意見対立し帰郷。久留米藩の若き青年を訓育し、維新のやり直しを画策していた。そこに飛び込んできたのが、長州の大楽源太郎だった。大楽も長州では、木戸、山縣有朋らと奇兵隊の解散問題で対立し、反政府者として追われの身だった。そこで、旧知の仲間がいる久留米藩に逃げてきたのだった。

しかし、明治4年、古松らは反政府勢力として捕縛され、東京の獄に投じられた。獄中でも若者への教育、医師であったことから病者の治療にもあたった。劣悪な環境でも執筆活動に励んでいたが、コレラ患者の治療中、自身も罹患し獄中死した。

獄には、明治10年(1877)の西南戦争での賊軍兵士も投じられていたが、古松の教えを受けた者は多い。その一人に、福岡発祥の自由民権運動団体玄洋社の初代社長となった平岡浩太郎がいる。平岡は出獄に際し、古松の国学関連の著書を持ち出したという。

また、他の著書の多くは、鹿児島県出身者が持ち帰ったとも伝わる。

幕末史において、三條実美らが都落ちした文久3年(1863)の「八月十八日の政変」、元治元年(1864)の「禁門の変」は注目を集める。しかし、水戸天狗党の決起が東西挟み撃ちの義挙であったことは振り返られない。これは、後年、日本史を編纂した者の意図が働いたのかもしれないが、今では確認の術はない。ただ、残念としかいえない。

尚、本書にも平田篤胤の国学の影響を受けた人々が水戸天狗党に好意的であったと出ている。国学の観点から本書を読み解いても面白いのではと考える。
                                                      以上

『幕末の魁、維新の殿』(小野寺龍太著、弦書房)令和2年5月29日

本書は水戸藩を中心にした幕末維新史だが、読み進むうちに斎藤佐治右衛門という水戸藩士の名前に目がとまった。文久3年(1863)「八月十八日の政変」を経て三條実美公たちは太宰府天満宮延寿王院に移転してきたが、斎藤は藤岡彦次郎という変名で警護役浪士団の一員に加わっていた。その一団は土佐の土方久元、中岡慎太郎、久留米の真木外記などで編成されていたが、斎藤までもが落ちてきた真の意図はわからない。水戸藩を震源地とする一連の尊皇攘夷行動の連絡係として国元から派遣されたのかもしれない。

水戸藩といえば、水戸学の本家として全国の志士が遊学に訪れたところである。会沢正子斎の門を叩き、藤田東湖の知己を得る者が後を絶たず、ひとえに、名君徳川斉昭を支える英才に交わりたいとの思惑があったからである。さほど水戸藩は時代の魁であり、主要な政治事件の中心にいた。それにも拘わらず、維新後、「薩摩警部に水戸巡査」とのたとえ通り、新政府においては殿だった。

水戸藩が関わった事件としては万延元年(1860)三月の「桜田門外の変」、文久2年(1862)の「坂下門外の変」、元治元年(1864)の「天狗党騒乱」等が著名である。其々、単発の史実として語られることはあっても、水戸藩の一貫した幕末維新史としては扱われない。攘夷思想の対立が藩の権力闘争に発展し、収拾がつかなくなったからである。安政の大獄は全国の主要な人材を抹殺したが、水戸藩の政治闘争は親兄弟、門閥を問わず、皆殺しの様相を呈した。このことで、水戸藩は尊皇攘夷思想を語り継ぎ、次代につなぐ人材を失った。

思想に忠実であったことから同士討ちとなった水戸藩だが、その頃、太宰府で時勢を待った三條公たちは西洋列強の現実を直視していた。ひとつに長崎が近いという地理的要因があるが、日本を取り巻く情報を潤沢に入手できたことが大きかった。三年に及ぶ太宰府滞在は三條公を討幕維新へと向かわせたが、この動きを斎藤がどのように水戸へと伝えたのか、いささか気になるところである。

余談ながら、明治2年(1869)、安川敬一郎(旧福岡藩士、安川財閥創始者、玄洋社員)は京都に留学途上、乗り合わせた船内で斎藤佐治右衛門と出会う。そこで、今回の維新で活躍した西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬らの話を聞き、大いに驚愕したという。

 この内容は、平成24年(2012)10月14日付西日本新聞に寄稿した書評に加筆したものです。

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『勝海舟強い生き方』(窪島一系著、中経文庫)令和2年5月22日

「読書百篇、意自ずと通ず」という言葉がある。一度読んで分からずとも、繰り返し、繰り返し読むうち、意味が次第に分かってくるという先人の教えだ。

本書は勝海舟の遺した言葉、事績から選びだした事象を75話にまとめ、10章に分類している。一日に一話ずつ読んでいけば、およそ二か月半で読了する。筆者も一日一話ずつ読み進んだ。

第一章の第一話は、勝海舟の剣の師である島田虎之助の勧めで禅の修行に打ち込んだ話が紹介されている。島田虎之助は剣豪として知られるが、海舟も剣に禅にと激しい修行に打ち込んだ。海舟は、維新という大変革の時を生き抜いたが、その底辺には剣と禅があった。

海舟の周辺には、実に多くの人々が関係する。人は、一時の事例から他者を評価するが、この海舟の交流関係を見ていくと、多面的に見なければ他者は評価できないと考えさせられる。それでいて、これは運、不運という言葉でしか片付けられない事故も垣間見える。

最終の第10章、第7話は、海舟の盟友というべき山岡鉄舟の見事な末期の姿が綴られている。現代、「なぜ、俺が、死ななければならないのだ」と不運を嘆く人がいるが、生まれたら死ぬ。ただ、それだけ。だから、しっかりと生きて行く。人の一生とは、ただ、それだけのこと。しかし、これが簡単なようで、もっとも難しい。

流行病で生命を落とすより、慢性疾患、自殺で亡くなる人の方が多い現実の日本を振り返れば、情報に振り回されるよりも、日々、しっかりと生き抜くことを考えるほうが、気が楽だ。そんな事々を悟らせてくれる書だった。

尚、本書にも記されているが、勝海舟と福岡藩主の黒田長溥の人間関係は、深い。

さらに、福岡発祥の自由民権運動団体である玄洋社の人々との関係も強い。


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『柳原白蓮』(井上洋子著、西日本新聞社)令和2年5月20日

太宰府天満宮参道の中間地点に、ひとつの鳥居が立っている。土産物店の「小野筑紫堂」の軒先にあるそれは、伊藤伝右衛門が寄進したものだ。伊藤は本書の主人公・柳原白蓮の元夫であり、「白蓮事件」として大正時代の一大スクープとして日本中を騒がせた渦中の人である。しかし、観光客の多くは、なんら関心を示すこと無く通り過ぎる。

 さて、本書をどのように捉えるかは、性別、年齢、地域、知的関心によって幾通りにも解読が可能となる。女性解放史、階級闘争史、維新史、近代産業史、文学史などだが、アジア史も付け加えることができる。さほど、この柳原白蓮という女性の辿った道は複雑にして、怪奇であるということだ。

 柳原白蓮は、明治18年(1885)、伯爵柳原前光を父として生まれた。伯爵家という家柄だけでなく、不躾な言葉で言えば、大正天皇のいとこにあたる。白蓮の叔母・柳原愛子は大正天皇の生母だからだ。

 その白蓮が、九州は筑豊の炭鉱主である伊藤伝右衛門の後妻に入った。資産家で衆議院議員とはいえ、伊藤伝右衛門はまともな学校教育を受けたことが無い。いわゆる、労働者階級から裸一貫で成り上がった人だった。加えて、万延元年生まれの伝右衛門と白蓮。その年齢差は親子ほどの24歳違い。誰がどう見ても、不釣り合いな結婚であった。結婚生活が上手いくはずもなく、仮にいったとしたら、それは奇跡と呼べる。

白蓮は、ちぐはぐな生活のなかで、歌を詠む事に希望を抱いた。歌集を出し、寄稿も求められる。そんな白蓮を訪ねてきたのが、後に、出奔し、結婚することになる宮崎龍介だった。あの孫文、黄興という革命家たちを支援した宮崎滔天の長男である。

明治維新は、四民平等、一君万民という理想を掲げ、封建体制を破壊することで挙国一致体制を構築した。しかし、旧藩主、公卿の救済措置から生まれた華族制度が誕生し、新しい封建制度を生み出すことになった。その制度が生み出した事件が、白蓮事件である。華族制度は、次なる課題である男女平等の理想を積み残して始まったが、その制度破壊の先駆者が白蓮であったとすれば、彼女は革命家としても名を遺したことになる。

本書には内田良平、中野正剛、出口王仁三郎などが白蓮や龍介の周辺に登場する。龍介の父・宮崎滔天、玄洋社関連の文献が読み込まれていたならば、人間関係の濃密さがより一層浮かび上がったのではないだろうか。

蛇足ながら、太宰府天満宮本殿奥にある「お石茶屋」前には、白蓮の姪である徳子の元夫・吉井勇の歌碑がある。この吉井も白蓮の歌集編集に関わっている。学問の神様・太宰府天満宮は御祈願所だけではなく、不思議な人間模様も学べる場所だ。

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『海と神道譲位儀礼と大嘗祭』(神道国際学会、集広舎)令和2年5月18日

本書は第20回、第21回の国際神道セミナーでの基調講演、シンポジュウムの内容をまとめたものである。第20回のセミナーは2018年(平成30)3月16日、東京の学士会館で開かれ、第21回のセミナーは2019年(平成31)3月5日、東京の関西大学東京センターで開催された。

まず、第20回の基調講演は宮城学院女子大学・大内典教授の「龍神と音楽:エビス信仰との関連から」だった。ここでは、島根県松江市の美保神社に多くの楽器が奉納されていることが紹介された。楽器といっても多々あるが、太鼓、弦楽器などだが、なぜ、神社に楽器が多く遺されているのかという疑問から、エビス信仰を考えるというものだった。従来、神社の歴史といえば、古事記、日本書紀から捉えようとするが、楽器に着目するという発想が面白い。音楽文化学を研究されている方ならではの着想と思う。

さらに、金印で知られる志賀島の志賀海神社(福岡市東区)、世界遺産の宗像大社(福岡県宗像市)から、海と楽器との関りを述べた箇所は、なるほどと思えるものだった。志賀海神社では神功皇后と安曇磯良の物語が楽器(鳴物)と結び付くことから、神社拝殿の鈴、雅楽などを想起した。

次に、第21回の基調講演は皇學館大學の研究開発推進センター神道研究所助教の佐野真人氏の「大嘗祭における太上天皇の役割」としての話だった。ここでは、平成の時代の天皇が譲位され「上皇」と呼んでいるが、その元は「太上天皇(だじょうてんのう)」の短縮形であることを知った。

そして、この譲位というものについて、政教分離なのか、日本国憲法の観点からはどうなのかなど、様々な意見がパネラーから発信されたことは興味深い。特に、マールブルグ大学名誉教授のマイケル・パイ氏の発言は、政教分離を杓子定規に考える日本人にとって考えさせられるものだった。

巻末、神道国際学会三宅善信理事長の寄稿があるが、ここでも、日本民族は「海洋民族」であったと考えるほうが自然という説に、志賀海神社、宗像大社が基調講演で紹介されているだけに、なるほどと納得できる。

今から75年前、連合国軍総司令部の「神道指令」によって神社の在り方が大きく変化した。しかし、成熟社会を迎えた日本において原点回帰のように伊勢神宮に参拝する人が増える背景に何があるのか。安定の時代から内省の時代に移行したのではと考えるが、排除なのか、共生なのか、遠い、遠い先祖たちの営みから得られる事々は多いのではないだろうか。講演者、パネラーの発言から、種々、考えるヒントをいただいた一書である。

                    
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『「明治十年丁丑公論」「痩我慢の説」』(福沢諭吉著、講談社学術文庫)令和2年5月12日

本書は「明治十年丁丑公論」「痩我慢の説」「旧藩情」の三部からなる、福沢諭吉の評論である。

まず、「明治十年丁丑公論」だが、この題名にある「丁丑(ていちゅう)」とは、十干十二支でいう十四番目の年のことを指す。元号とともに十干十二支を併記することで、年という時間経過を認識していた時代の名残だ。ゆえに、ここでは明治十年(一八七七)の西南戦争後の世評を述べている。

この論では、新聞紙上で西郷隆盛を批判することを、福沢が批判している。維新の功労者として西郷隆盛を評価したにも関わらず、掌を返すが如く、親の仇のように、西郷を叩き潰す。この様に、節度が無いと憤慨している。同時に、西郷が文武の武によって政府批判をしたことを福沢は咎めながら、西郷の尊皇精神は称賛するのである。

道を間違えた為政者を批判するのは当然として、しかし、西郷が武によって起った事を福沢は批判し、返す刀で西郷を追い込んだ政府に責任があると言い切っている。言論弾圧下の明治期、福沢はこの論を後世へと書き残したのだった。

次に、「痩我慢の説」だが、これは、幕臣から新政府の要職に就いた勝海舟、榎本武揚に送り付けた糾弾の説である。同時に、福沢は、この内容を木村芥舟など、ごくわずかな人に開示している。ここでいう木村芥舟とは、幕末、咸臨丸で太平洋を渡った際の責任者であり、この時、勝海舟は咸臨丸の艦長であり、福沢は、木村の随員という形だった。いわば、同じ艦に乗った仲でありながら、今は呉越同舟の関係ということだ。

武士の世界は「二君に仕えず」という掟にも似た規範があったが、勝海舟、榎本武揚は徳川幕府の禄を受け、新政府が樹立すると、その新政府の禄を受けた。二君に仕えたことが世の中のモラル崩壊につながるとして、福沢は両名を批判したのである。これに対し海舟は、「いささかも相違なく、自身の行動責任は自身が負う。この内容を公表されても構わない。」と返信し、榎本は多忙につき後日とその場を取り繕った。

この福沢の挑戦状ともいえる「痩我慢の説」を読みながら、福沢の半生記を述べた『福翁自伝』を思い出した。福沢は、「封建制度は親の仇」とまで言い切った。が、しかし、「痩我慢の説」とは矛盾しないだろうか。封建制度を批判しながら、武士の在り方を問題にしたからである。この件に関しては、今一度、多角的に福沢の環境、考えを検証しなければ分からない。

最後の「旧藩情」は、福沢が属した中津藩(現在の大分県)を事例に封建制度の矛盾を述べたものである。同じ武士でも上士、下士によって待遇が異なり、下士は下される禄だけでは食えず、内職が必須。具体的な数値を挙げて、その矛盾を開示している。本書全体を通読して、これは、維新の目的を考える材料と思った。

尚、本書や『福翁自伝』だけでは福沢の実態を知ることは難しい。博多・萬行寺の住職七里恒順と福沢と交流があった。七里の言行録などが参考になるのではと考える。

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『幕末』(村上一郎著 中央文庫)令和2年4月24日

本文庫は、明治維新150周年に合わせて再刊されたものだ。初出は1968年(昭和43)なので、明治維新100周年に出された。昭和49年(1974)には文庫本化された。西暦と和暦とが入り混じるが、これは、村上一郎自身が夫々の「あとがき」に記述したものに従っている。

内容は、一、大塩平八郎、二、橋本左内、三、藤田三代(幽谷、東湖、小四郎)、四、真木和泉守、五、三人の詩人(佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄)という内容になっている。吉田松陰については、別途、記述したので、あえて取り上げないと村上一郎は述べる。村上は吉田松陰に「先生」を付けて呼ぶほど、松陰に心酔している。

今回の文庫本で注目したいのは、村上一郎(1920~1975)が、国学的ナショナリズムの権化と呼ばれる文芸評論家・保田與重郎(1910~1981)との対談が収められていること。解説を渡辺京二氏(熊本在住の思想家)が行っていることである。渡辺氏の起用は、生前の村上一郎を知る人としてであると思える。

さて、本書では、唯一、真木和泉守に対する評価が厳しい。厳しいというより、「わたしは、真木和泉守という人は、本質においては狂夢家そのものであったと思う。」と村上は述べる。評するというより、批判の対象として見ている。この真木和泉守に対する酷評に、初出の文章を読んだ読者からの批評が集中したようで、「文庫本の再刊にあたって」の一文で「けっして、真木和泉守一人をおとしめて言うのではない。」と弁解がましい言葉を述べている。

さらに、本文庫の解説に渡辺京二氏が解説を寄せているが、氏は村上一郎との思いでのなかで、「僕は九州の人間は信用しません。」と村上から言い放たれた事を記している。筆者は、ここから、村上は東国(関東)出身者特有の九州人嫌いから、真木和泉守も酷評したのだと思っていた。しかし、それは的外れで、村上の海軍経理学校時代の戦友である小島直記は福岡県八女市の出身であり、村上に師事した岡田哲也氏(詩人)は鹿児島県出身である。これは、九州人というより、渡辺氏個人に対する村上の嫌味だったのではないかと考える。

そう考えた末、なぜ、村上が真木和泉守に対しての評価が厳しいのか。一つに、幕末において久留米水天宮の宮司の家に生まれながら、真木和泉守が漢学、仏教、蘭学と幅広い思想に触れたことが気に食わないのではないか。唯一、村上が真木和泉守を評価するのは、元治元年(1864)の「禁門の変」で事敗れて自刃したことである。もしかしたら、村上は、自由奔放に思想の海を泳いだ真木和泉守にあこがれ、その反発から評価が厳しかったのではと思った。

昭和45年、三島由紀夫が自決する。その5年後、村上は自らの愛刀で自決して果てた。すでに、この頃の村上は躁鬱との狭間にいたという。狂が狂の真木和泉守に憧憬していたのかとの疑念すら沸き上がった。

今一つ、明治維新150周年を迎えながら、盛り上がりに欠けたのは、半世紀の間に、村上のように維新の精神史を問う人が枯渇してしまったからではないかと、思い至った。
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『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』(江崎道朗著 育鵬社)令和2年4月18日

アメリカという国から、日本人は何を連想するだろうか。自由の国、アメリカン・ドリーム、世界を動かす金融の中心地。時に、移民や人種、宗教の相違から銃乱射での悲劇を早期させる。トランプ大統領のわがままな発言に反発するマスコミ。そんな事々が、がニュースとして日本に伝わる。そんなアメリカに、実は、共産党があると言ったら、日本人は、どんな反応を示すだろうか。一様に、「まさか・・・」「ウソだろう」という言葉が返ってくるのが大半だろう。さらに、この自由の国アメリカで共産党が本格的活動開始が、1933年(昭和8)年からと言ったら、信じられるだろうか。まずは、このアメリカに対する先入観を払拭してからでなければ、本書の問題提起を深く理解することは不可能だろう。

 本書は外交官である若杉要が作成した『米国共産党調書』が基本になっている。駐米日本外務省職員が、アメリカ社会で暗躍する共産党の活動を逐一まとめた内容だ。まさか、主義主張の異なる旧ソ連の指令を受けたコミンテルン組織が自由の国アメリカで活動していたとは、信じがたい。しかし、この若杉要が作成した調書に添って、日米関係、日中関係のもつれを見ていくと、腑に落ちる点ばかりだ。いつしか、全十章、270ページ余りが付箋だらけになった。

本書は、アメリカ共産党の謀略と日米関係、日中関係の軋轢だけではなく、現代日本の保守政党である自民党に対する諫言も述べられている。戦後75年といいながら、いまだ、戦後の占領政策から脱却できない日本の原因が述べられている。その大きな要因は、インテリジェンスの重要性を与党が理解していないことにある。インテリジェンスといえば、戦前の陸軍憲兵隊、特高警察のような弾圧組織に結びつけるからではないか。さらには、その報告内容を理解できない為政者の存在が大きい。

日本人は世界に比して善良な国民と言われる。翻ってそれは、他者を簡単に信用し、騙されやすい。他国のインテリジェンス活動を容易にならしめる国民性と言っても良い。そのお人よしの日本人を逆手に、歴史伝統文化が捏造され、洗脳されてきたのが戦後の75年ではなかったか。今一度、本書に記載されている事々と、事件や戦乱を重ね合わせてみてはどうだろうか。ぞっとするのは、間違いない。

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『残心』(笹川陽平 幻冬舎)令和2年4月14日

令和という元号に、人々は自然災害の無い安寧を期待したことだろう。しかし、早々に、新型コロナウィルスが発生した。一九一八年(大正七)も、世界はスペイン風邪によって六億人が罹患し、二千万とも四千万ともいわれる人々が命を落としたという。振り返れば、人類は目に見えないウィルスとの戦いを繰り返してきたが、その過程で迷信、宗教、差別、偏見を生み出した。今回の新型コロナウィルスが世界を席巻する最中も、スペイン風邪と変わらぬ風評被害が発生したことは記憶に新しい。科学が発達したとはいえ、人間の本質には、なんら変化がない。

本書は、ハンセン病制圧の戦いの記録である。ハンセン病はかつて、不治の病、業の病として、罹患者は離島などに隔離された。撲滅より、隔離隠蔽したのが現実だった。今も、謝罪と賠償請求の裁判報道を目にするが、どこか遠い記憶の彼方のこととして見ていた。しかし、本書の54ページにあるように、「無理解、無関心は人を差別する歴史の一端」に加担していた事と認識させられた。加えて、本書を手にするまで、笹川良一がハンセン病制圧に強い使命感をもって取り組んでいたとは、まったく、知らなかった。当事者意識が、根本的に異なる事を知った瞬間だった。

日本人は阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災、熊本大分地震などを経験した。192ページに記されるように、この一連の災害で、行政サービスでは対応できない社会構造になったことを日本人は認識したはずだった。かつての社稷(共同体)を復活させればよいのだが、まだ、気づいている風は無い。しかし、その共同体意識を早くから世界に広げたのが笹川良一である。その特筆されるべきものが、ハンセン病制圧であった。

222ページの「かつての日本人がもっていた気概」を読みながら思い起こしたのは、杉山龍丸である。戦後、インドの要請に応じ、私財を投じて一万本の植林をした。砂漠を緑に変え、インドの人々の食糧自給を支援した。インドのラス・ビハリ・ボースを玄洋社の頭山満、内田良平らが庇護したが、ボースの逃走用の車を用意したのが杉山茂丸だった。その杉山茂丸の孫が杉山龍丸だ。インドでは「グリーン・ファーザー」と呼ばれる。今も、ミャンマーで和平交渉に奔走する井本勝幸、カンボジアで地雷撤去活動を進める大谷賢二、アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲も気概をもった日本人だが、全員が福岡県人であるのは玄洋社の影響なのだろうか。

全八章を読み通し、笹川良一、そして著者の崇高な使命に考えさせられる事々は多い。とても、同じことは自身にはできない。さすれば、気概をもった日本人として笹川良一と著者に拍手を贈りたい。

しかし、一つだけ私にできる事があるとすれば、笹川良一がハンセン病制圧に全身全霊をかけたこと、今も著者が継承していること。それを、日本と世界に伝える事だ。

                                                      以上