3月21日(土)の夕方、講演会講師を務めた。これは坂本龍馬を崇敬する「福岡龍馬会」からの依頼だったが、3連休の中日にも関わらず、熱心な会員の方々が参会された。
講演の冒頭、私自身も半世紀ほど前に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み、感動感激した身であることを吐露。その経緯については、書評で紹介したい。
////////////////////////
『龍馬史』磯田道史著、文春文庫、2013年
・龍馬の思想は海軍という能力主義
「龍馬会」の方から、話をして欲しいという要望があり、坂本龍馬についての復習をと思い手にしたのが本書になる。著者の磯田道史氏についてはテレビの歴史番組でお馴染みであり、その解説には定評がある。全3章、210頁余の文庫本であり、磯田氏の語りかける文体によって読みやすいものとなっている。
半世紀程前、評者も司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に感動した一人だった。短期の大阪研修があった際、京都伏見の寺田屋近くに取引先があった。用事を済ませた後に立ち寄った。次に、せっかく大阪にいるのだからと京都の坂本龍馬の墓参をした。龍馬の墓前には山のように参拝者の名刺がある。しかし、隣の中岡慎太郎の墓前には何も無い。人気の差とはいえ、少々淋しいなと思ったのを覚えている。
坂本龍馬の人気がこれほどまでに高いのは、志半ばで殺されたという悲劇からと容易に想像できる。司馬遼太郎の小説は上方落語か講談調であり、場面展開も瞬時に変化し、スピード感がある。龍馬信者が全国各地に誕生した由縁は、新しいヒーローを求める日本人の感性に司馬遼太郎の筆致が共鳴したからに他ならない。
その坂本龍馬の功績を著者は海軍創設とする。「薩長同盟」も「船中八策」も小説の中の舞台装置でしかない。それだけに、海軍創設は勝海舟との出会い、時代背景からして的を射ている。海軍は幕藩体制のような封建的身分制度では維持できない。すべて合理的に能力主義でいかなければならない。限られた環境の中で判断を下さなければならない場面では、薩摩の郷中教育が優れた効果を発揮した。東郷平八郎はその代表格である。「薩の海軍」とは言い得て妙である。さらに、明治27年に始まった日清戦争においても、能力主義の日本海軍と門地主義の清国海軍では、勝敗は戦う前から分かっていたといっても過言では無い。つまり、海軍は坂本龍馬にとっての能力を最大限に発揮する場所だったのだ。
坂本龍馬といえば、謎の龍馬襲撃を外すわけにはいかない。実行犯は会津藩関係者であると著者は述べる。謎解きを読み進むだけでも、半世紀の間に様々な資料が出てきた末の事と感慨深いものがあった。正直なところ、一度は坂本龍馬に感激した評者でありながら、いつしか熱は冷めていった。小説ではなく、実録を追っていく面白さに気づいたからだが、「龍馬会」の方々はどこまで自身の目で見て、足で歩いて、資料を読み込んでいるのか。逆に質問を試みたいと思った。たまたま、勝海舟の決定版とも言える一書と併読していたため、坂本龍馬と勝海舟とを並列で語ることで、新たな史実が見えるのではないかと考える。
いずれにしても、日本全国、世界に「龍馬会」があり、今も活発に活動している団体は珍しい。多くの人々を刺激した作品を遺した司馬遼太郎は、再評価しなければと思った次第だった。 (終)
////////////////////////
講演会では坂本龍馬の墓参の時の話をした。今の時代であればスマホのマップ、ナビで簡単に「京都霊山護国神社」に行けるが、その昔は、ガラケー携帯も、ポケットベルも無い時代。京都人の「上がる、下る、西入る、東入る」の道案内に迷って、現地に到着したのは午後5時を過ぎていた。しかし、冬の寒気の中、受付の明かりが温々と灯っている。守衛さんらしき人影が光の中に浮かんでいる。本当は、大阪の下宿先から阪急電車で来たにもかかわらず、ダメでもともと。
「すんまっしぇん!九州から来たとです!龍馬さんの墓参りばさしてください!」
「九州から来はったん!おっちゃん、待っといたるから、お参りしておいで」
九州という単語には魔力でも宿っているのか、難なく龍馬の墓参ができた。参拝者の名刺の山の上に一枚、念願の自身の名刺を供えた。隣の中岡慎太郎の墓前には、一枚も無いのが淋しかった。
あれから40年、今、あれほど感動感激した司馬遼太郎作品は、一冊も無い。自分自身の本として『太宰府天満宮の定遠館』を書くとき手許から流した。多くの文献や資料を読み込むうち、坂本龍馬や中岡慎太郎が太宰府天満宮に来た事実を知り、ノンフィクションの面白さがフィクション(小説)に勝ったからだった。更に、坂本龍馬は何をしに太宰府天満宮に来たのか。まさか、合格祈願でもあるまいし。そんな史実を調べて行くうちに、維新の策源地が太宰府天満宮であったことを知る。こうなると、とことん、知りたくなる。作家の想像も加味された小説では「知りたい」欲求は解消されなくなったのだ。
この「知りたい」欲求は、世間一般が「右翼」と評する玄洋社にも及んだ。『太宰府天満宮の定遠館』の主人公とも言うべき小野隆助が玄洋社員だったからだ。明治22年(1889)、外相大隈重信に爆裂弾を投じたのが玄洋社の来島恒喜だったことから、周囲は「玄洋社やら人前で言うたららイカン!」と厳しかった。
けれども、学生時代、「ベルリンの壁」を越えた体験から、真実は世間の評価と真逆にあるのではと訝った。調べて行くと、玄洋社が「右翼」「テロリスト」と評されるのは、大東亜戦争(太平洋戦争)に敗北して後のこと。GHQ(連合国軍総司令部)の洗脳工作という策略だったことを知る。
いずれにしても、現今日本はGHQの洗脳工作にどっぷりと浸かっている。坂本龍馬じゃないけれど、「日本を今一度せんたく致し申し候」として日本人の洗脳の毒を洗い落とさなければならない。
ただ、若き日、龍馬の墓参のため「九州から来た」と方便を使ったことが悔やまれる。そこは、「ウソも方便。クソは大便」と臭いダジャレで誤魔化している。

























