令和8年(2026)1月31日(土)、「九州大学うみつなぎ」主催の町歩きツアーに参加した。この町歩きに参加したいと思ったのは、糸島市の岐志港にある花掛神社、姫島の姫島神社にある水上飛行艇のプロペラを目にした事からだった。水上飛行艇?もしかして、ここに海軍の訓練場でもあったのか?と思い、断片的でも良いので、その確認をしたかったからだ。
驚きだった。なんと、予科練こと海軍予科練習生の訓練場が糸島にあったのだ。それも5000人もいたという。それを示す「小富士海軍航空隊跡碑」が埋め立てでできた平坦な田圃脇にあった。戦後、この航空隊の詳細な記録は焼却処分された。そのため、事実は不明。しかし、志摩歴史資料館(福岡県糸島市)で開催中の特別展示パネルを見て、隠れていた史実が浮かび上がってきた。
戦史については詳しい方と思っていたが、このパネル展示を見て、ごく一部しか知らないのを恥じた次第だった。そんな傲慢な意識を私が持つのも、次の書評を読んでいただけたら、おわかりいただけると思う。
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『宇佐海軍航空隊始末記』今戸公徳著、光人社
・特攻隊基地となった宇佐海軍航空隊
その昔、祖父母が営む理髪店が宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)の近くにあった。大の海軍ファンであった祖父は散髪に訪れた海軍の将兵に酒食のもてなしをしていた。翌朝、宴の後の掃除をしていた店の使用人は海軍さんの忘れものである帽子等に気づく。点呼の際、上官に殴られたら可哀想と駅館川(やっかんがわ)の向こう岸にある航空隊にまで自転車を飛ばす。ラッパが鳴る前に営門に走りこむのが大変だった。昔話で祖母がよく語ってくれたものだった。調べてみると、戦前の大分県には旧海軍の航空隊などが点在していた。さしたる産業の無い県にとって基地誘致は一村一品ならぬ「村おこし」だった。
評者が幼い頃、祖父母が待つ母の実家に向かうとき、日豊本線から見える航空自衛隊築城基地(福岡県築上郡)を、母はいつも懐かしそうに眺めていた。戦前、まだ小さかった母は店に遊びに来ていた搭乗員達に可愛がられていたとのこと。搭乗員達は戦地から様々なものを送ってきたという。母が持っていたアルバムには飛行服姿の搭乗員の写真が貼られていた。偵察機の搭乗員で名前は原さんといわれたそうだ。出撃したものの、帰ってこなかった。その母も終戦間際、駅館川に架かる小松橋の上で突然に現れた米軍艦載機の機銃掃射を受けている。
評者が幼い頃、日豊本線柳ヶ浦の駅を降り、小松橋を渡って祖父母の待つ理髪店に走った。あの町が米軍の爆撃を受ける戦場であったとは知らなかった。更に、宇佐海軍航空隊から沖縄に向けて特攻隊員が出撃していったとも知らなかった。本書には咲き誇る桜の枝を飛行服に挿し、刀を下げて特攻機に向かう搭乗員の写真が掲載されている。従容として死地に赴く武人の姿に涙を禁じ得ない。
戦後、新聞記者から作家に転じた豊田穣(1920~1994、大正9~平成6)の作品には、宇佐海軍航空隊での艦上爆撃機の訓練風景が登場する。豊田の作品は多々読んだが、敗戦間近、宇佐海軍航空隊から特攻機が出撃していた事は知らなかった。「最後の特攻」として出撃した宇垣纏(1890~1945、明治23~昭和20)海軍中将座乗の彗星艦爆を操縦したのは中津留大尉である。この中津留大尉は宇垣長官出撃の要請を受け、宇佐航空隊から大分航空隊(大分県大分市)に向かったとのことだった。
「作戦の外道」ともいわれる特攻だが、この宇佐海軍航空隊では出撃前に予科練出身者が予備士官に殴りこみをかけた場面が紹介される。特攻隊員の残した多くの遺書からは潔く死地に赴いたように受け取りがちだが、ぶつけようのない怒りの矛先がたまたま予備士官に向いたことでもわかるように、彼らとて本心は死にたくはなかった。
知覧のような特攻記念館が宇佐に建っているわけではない。それだけに、この一冊は詳細な記録が残った特攻記念館と同じである。これからも大事に読み返したい。(終)
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この『宇佐海軍航空隊始末記』を著された今戸公徳さんとは面識は叶わなかったが、書簡の往復があった。その今戸さんの手紙の中に祖父母が営んでいた理髪店のことが記されていたときには、嬉しかった。
そして、この今戸さんの著書に出てくる渡辺くみさん(193頁)については、鹿児島県霧島市「バレルバレープラハ&GEN」での講演&語り芝居で驚きの結果となった。語り芝居は岩城朋子さんが演じてくれたが、その脚本には特攻隊員からのラブレターをもらった渡辺くみさんが出てくる。なぜ!という驚きで確認すると、宇佐海軍航空隊から飛び立った特攻隊員は、霧島市の海軍第二国分基地を経て、沖縄で散華していたのだ。
ここから私の強い要望で、3年ほど前、大刀洗平和記念館(福岡県筑前町)において、私の講演と岩城朋子さんの語り芝居となったのだが・・・。
ここで珍事続出。私が講演を始めた時、目の前に霞がかかり、パワーポイントの画面がよく見えない。更に、声を出そうとしても、誰かに首を締め付けられているような感覚で気が遠くなる。次に、岩城朋子さんの語り芝居が始まると、故障でもないのに、いつも点灯しないライトが光る。念入りに確認したはずの音響装置が突然、止まる。その芝居を傍で観劇していた私はなぜかポロポロ涙が止まらない。こんな不思議は久しぶりだった。
まだ、東京で働いて居る頃、桜が満開の春三月の真昼、靖国神社境内で突然に金縛りに遭い、息ができなくなった。「オレの話を聴いてくれ!」と四方八方から夥しい数の声と圧力に押される。もう、まったく息ができず、死ぬ!と思った瞬間、心の中で「私は、あなた方の話を聴くためにここに来たのです!」と言うと、ウソのように、スッと、声と圧力は消えた。
志摩歴史資料館では、パネル展示や参考資料の現物など、全てを隅から隅まで見て回った。しかし、花掛神社、姫島神社に遺されている複葉双発の水上飛行艇「海軍エフ1号木製飛行艇」(昭和三年製)については何もなかった。たぶん、この木製の水上飛行艇は予科練習生用だったのではと思うが、まったく分からない。この事実については、新たな証言に期待するしかない。

























