福岡市博多区祇園町4-55の浄土真宗本願寺派順正寺には、平野國臣の父親の墓、顕彰碑がある。
平野國臣も、幼い頃、母に連れられ順正寺に寺参りに来たという。平野國臣が、歩いた道として、この順正寺を訪ねてみるのも良いかもしれない。
尚、父の能榮の顕彰碑の内容を記しているので、一読いただけましたら、幸いです。
平野能榮碑
明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、賜告自大坂府裁判所歸縣、泣而告余曰、先考之歿、吾宦於朝、不能會葬、爾後奄忽五歳矣、今始得上壟、欲立碣於墓側、述其生平而寫吾餘哀、子其為吾誌之、余雖不識君、獲交於其諸子、詳君事状、故不辭叙之曰、君諱能榮、稍吉三、三苫氏、姓大中臣右大臣和氣公清麿之遠裔、居筑前國志摩郡田尻邑者、後徒住福岡、父諱宣茂、母安武氏、以寛政十年戌午二月二十日生、文化五年戊辰、十一歳、承舊藩卒平野吉道後、既長以事往返東京、百數十度、其他行役諸國率無虚歳、藩主屢加褒賞、賜金増禄、明治二年己巳、特命烈士籍、四年辛未三月十四日、病終于家、享年七十四、葬於博多順正寺先塋、娶都甲氏、生四男二女、長子乙、出嗣舅氏之家、見為本縣十二等出仕、次國臣、嗣小金丸氏、後復本氏、元治甲子、歿于王事、次即能忍、嗣平山氏、次三郎、分家稍平野氏、次二女、長適中村五平、次適田中源工、而君之後則以都甲乙長子能明為之、於君實嫡孫也、君為人忠直廉潔、治家儉而有法、處事簡而得要、大度善容、臨變不動、人或説以于進、輙託他事辭之、唯孳々盡己職而巳、萬延文久間、次子國臣之密謀勤王也、兄弟同志、連累一家、而君従容處其間、不失所守、此二事可以概見其平素矣、自幼好武、精究剣槍諸技、最熟杖術拳法、藩主命教育少年子弟、天稟強健、及老而不衰、自承父至歿、中間六十四年如一日、是又人之所難得也、配都甲氏、有婦徳、善女工、傍解算書、人称為女鑑、文久二年壬戌八月十七日、先君而終、享年五十八、君之老健服勤、蓋有内助云、嗚呼、平野氏諸子、當朝政維新之日、累受恩旨、名聞於世、是雖賴諸子之立志不變、抑亦有得先考妣之訓誡、則能忍之追慕無措宜矣、而吾知平野氏之福未芠也、銘曰、
木有根本 水有源泉 孝子順孫 令徳不愆 于春于秋 祭祀之虔 魂而有知 安此新阡
福岡縣士族 臼井浅夫 撰
福岡縣士族 塚本 戢 書
碑は福岡市順正寺に在り。別に平野能榮先生墓と表したる碑あり。芥屋石にして方一尺、高さ三尺ばかり。
【譯文】
明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、告を賜ひて大阪府裁判所より縣に歸り、泣て余に告げて曰く、先考の歿するや、吾れ朝に宦へて葬に會する能わず。爾後奄忽五歳、今始めて壟に上るを得たり、碣を墓側に立て其の生平を述べて吾餘哀を寫さむと欲す。子其れ吾が為に之を誌せよと。余君を識らずと雖も、其の諸子に交り君の事状を詳かにするを獲たり、故に辭せず、之を叙して曰く。君諱は能榮、吉三と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村に居る。後、徒って福岡に住す。父諱宣茂、母は安武氏、寛政十年戌午二月二十日を以て生る。文化五年戊辰、十一歳、舊藩の卒平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京に往返すること百數十度。其他諸國に行役して率ね虚歳なし。藩主屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年己巳、特に命じて士籍に列す。四年辛未三月十四日、病て家に終る。享年七十四、博多順正寺先塋に葬る。都甲氏を娶り、
四男二女を生む。長子乙出て舅氏の家を嗣ぐ。見に本縣十二等出仕たり。次は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後本氏に復し、元治甲子、王事に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長は中村五平に適き、次は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙の長子能明を以て之を為す。君に於て實に嫡孫なり。
君人となり忠直廉潔、家を治むること儉にして法有り、事を處すること簡にして要を得たり。大度善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于進を以てすれば、輙ち他事に託して之を辭す。唯孳々として己が職を盡すのみ。萬延文久の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連ぬ。而も君従容其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏、婦徳あり、女工を善くし。傍ら書算を解す。人称して女鑑と為す。文久二年壬戌八月十七日、君に先ちて終る。享年五十八。君の老健勤に服す、蓋し内助有りと云ふ。
嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累りに恩旨を受け、名世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑も亦先考妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなきこと宜なり。吾れ平野氏の福未だ艾ざるを知るなり。銘に曰く、
木根本あり、水源泉あり。孝子順孫、令徳愆らず。春に于て秋に于て、祭祀是れ虔しむ。魂にして知るあらば、此の新阡に安ずべし。
【意訳】
明治八年(1875)乙亥(十干十二支12番目の年)九月、六等判事、従六位平山能忍君が、告を賜ひて(官吏の休暇)大阪府裁判所より縣(福岡県)に歸り、泣いて余(臼井浅夫)に告げて曰く(言うには)、先考(父親)の歿するや、吾れ(私は)朝(朝廷)に宦(つか)へて(宮仕え)葬に會する能わず。爾(じ)後(ご)奄忽(えんこつ)(その後たちまち)五歳(年)、今始めて壟(つか)(墓)に上る(参り)を得たり、碣(いしぶみ)(石碑)を墓側に立て其の生(せい)平(へい)(平素)を述べて吾餘哀(よあい)(なぐさめきれない悲しさ)を寫(うつ)さむ(絵や文字に表現する)と欲す。子(平山能忍)其れ吾が為に之を誌せよと。余(臼井浅夫)は君(平野能榮)を識(し)らずと雖(いえど)も、其の諸子に交り君の事状(じじょう)(事柄、様子)を詳(つまびら)かにするを獲(え)たり、故に辭せず(断らなかった)、之を叙して曰く。君諱(いみな)(生前の本名)は能榮(よしえ)、吉三(きちぞう)と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿(右大臣和気清麿)の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村(福岡県糸島市志摩)に居る。後、徒って福岡に住す。父諱は宣茂、母は安武氏、寛政十年(1798)戌午(十干十二支の55番目の年)二月二十日を以て生る。文化五年(1808)戊辰(十干十二支5番目の年)、十一歳、舊(きゅう)藩(福岡藩)の卒(足軽)平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京(江戸)に往返すること百數十度。其他諸國(日本全国)に行役(こうえき)(旅行)して率ね虚(きょ)歳(さい)(何事も無い)なし。藩主(黒田斎清、黒田長溥)屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年(1869)己巳(十干十二支6番目の年)、特に命じて士籍(士族)に列す。四年(1871)辛未(十干十二支8番目の年)三月十四日、病て家に終る(病気で自宅にて亡くなる)。享年七十四、博多順正寺先塋(せんえい)(先祖の墓所)に葬る。
都甲氏を娶(めと)り、四男二女を生む。長子(長男)乙は出て舅(きゅう)氏(し)(母の兄弟)の家を嗣(つ)ぐ。見(まみえる)(社会に出て仕える)に本縣(福岡県)十二等出仕たり。次(続いて)は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後で本氏(平野)に復し、元治(元年、1864)甲子(十干十二支1番目の年)、王事(おうじ)(王室、帝室に関する事柄)に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長(長女)は中村五平に適(とつ)き、次(次女)は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙(旧姓・平野乙)の長子能明を以て之を為す。君(平野能榮)に於て實に嫡孫(ちゃくそん)(家をつぐべき孫)なり。
君人となり忠(ちゅう)直(ちょく)(真直ぐなまごころ)廉潔(れんけつ)(心が清らかで行いが正しいこと)、家を治むること儉(つづまやか)(無駄を省き)にして法(おきて)(道理)有り、事を處すること簡(かん)(おおまか)にして要(大事なところをつかむ)を得たり。大度(たいど)(大きな度量)善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于(う)(満足する)進(すすむ)を以てすれば、輙(すなわ)ち(たちまち)他事に託して之を辭す。唯孳々(じじ)として(つとめはげむさま)己が職を盡すのみ。萬延文久(1860)の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連(つら)ぬ(一家もまきぞえをくう)。而(しか)も君従容(しょうよう)(ゆったり落ち着いた様)其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術(神道夢想流)拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟(てんびん)(生まれつきの気質)強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏(妻)、婦徳あり、女工(にょこう)(女子の仕事)を善(よ)くし。傍ら書算(文字を書き計算をする)を解す。人称して女(おんな)鑑(かがみ)(女性の手本)と為す。文久二年(1862)壬戌(十干十二支59番目の年)八月十七日、君に先(さきだ)ちて終る。享年五十八。君の老健勤(つとめ)に服す、蓋(けだ)し内助(妻の助け)有りと云ふ。
嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累(しき)りに恩旨(朝廷の褒賞)を受け、名は世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑もまた先考(父親の能榮)妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなき(計らい)こと宜(ぎ)なり(もっともだ)。吾れ平野氏の福未(いま)だ芠ざる(王室、帝室からの祝福は絶えない)を知るなり。銘に曰く、
木根本あり、水源泉あり。孝子順孫(祖父母に仕える孫)、令徳愆らず。春に于(おい)て秋に于(おい)て、祭祀是れ虔(つつ)しむ。魂(こころ)にして知るあらば、此の新阡(しんせん)(道)に安ずべし。
*和気清麿 奈良~平安時代の貴族、宇佐八幡宮でのご神託の話は有名
*順正寺 浄土真宗本願寺派、福岡市博多区
*碑は平野能榮の墓を正面に見て、左脇にある。隣接する墓域の境にはクチナシの樹があるが、これは親交があった久留米水天宮の真木和泉守保臣が蟄居謹慎を命じられていた水田天満宮(福岡県筑後市)の茅屋を「山梔窩(くちなしのや)」と呼んだことによるものと思われる。山梔窩(口を閉じて何も言わない、口無し)にかけている。