浦辺登のコラム

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「時代の変化に敏感な論説を読みたい」令和2年10月20日

第一次世界大戦後に発足した国際連盟。この連盟規約に人種差別撤廃を日本が提案。それを、真正面から反対したのが、オーストラリアのヒューズ首相だった。白濠(豪)主義(白人優位の思想)のオーストラリアとしては、絶対に認められない日本の提案だった。このヒューズ首相の剛腕ぶりについては、近衛文麿の『戦後欧米見聞録』に詳しい。


そのヒューズ首相が、日英同盟の継続については否定しなかった。むしろ、同盟継続を肯定している。人種差別撤廃に反対したヒューズ首相だが、不思議なことに日英同盟は否定していない。実は、この陰には親日家のマードック(夏目漱石の東京帝国大学時代の師)がいたからだった。ながいこと鹿児島で生活し、西郷どんのような質素倹約の生活をし、ヒューズ首相と親交があった。しかし、結果として、アメリカ、カナダの圧力で大正10年(1921)、日英同盟は廃止となった。


先述の近衛の見聞録では、第一次世界大戦終結前、ボルシェビキ(多数を意味する共産主義)の活動が始まっていた。その影響は大西洋を越えて、カナダを拠点とし、アメリカに浸透していた。第二次世界大戦後、戦争責任はルーズベルト大統領にあるとビーアド博士が糾弾した。その最たるものは、アメリカ大統領府が旧ソ連の意を受けたカナダ系コミンテルンの巣窟だったからだ。


近衛文麿、廣田弘毅、松岡洋右らは、早くからコミンテルンによってアメリカ大統領府が支配され、日米戦争不可避を知っていた。昭和12年(1937)6月、第一次近衛内閣が組閣され、外相として廣田弘毅が入閣した。首相経験者が外相として入閣する意図はどこにあったのか。この年の11月末、廣田はニューヨーク駐在の若杉要から秘電によって、日米戦争不可避を知る。


やはり、同年11月15日、横浜発の船上には南満州鉄道総裁松岡洋右の意を受けた竹田胤雄の姿があった。表面上は満鉄のニューヨーク事務所長としての赴任。しかしながら、ホーンベック博士に接触し、情報を収集することが目的だった。竹田も日米戦争不可避を松岡に打電した。


昭和5年(1930)、第一次世界大戦での五大戦勝国の間での海軍力削減交渉としてのロンドン軍縮会議だった。その実、次の覇権を巡っての肚の内の探り合い。満洲を含む中国大陸での権益、市場を狙っての駆け引きだが、これはそのまま日米戦争の前哨戦でもあった。この頃、しきりに軍縮についての意見を求められたのが、日露戦争日本海海戦での英雄・元帥東郷平八郎だった。明治26年(1898)、邦人保護の為、軍艦「浪速」でハワイ沖に駆け付けた。明治31年(1898)のアメリカによるハワイ侵略をつぶさに見ていた人でもある。ロンドン軍縮会議が日本との戦争準備であると見抜いていたのではないか。


某新聞に「英雄伝説の虚と実」として、東郷が軍縮に反対し、晩節を汚したかのような記述を目にした。参考文献は、『米内光政』(阿川弘之著)であったが、本書は平成6年(1994)の刊行である。四半世紀以上も前の評伝から引用し、組織論、世情、東郷を語っている。しかしながら、戦後75年、歴史が凍結されたままの日本と異なり、刻々と諸外国では機密文書が公開され、事実を追及する研究が進んでいる。機密文書の公開だけではない。日露戦争直後、ロシアが日本への報復として工作員を送りこんでいたことも文献で解説されている。


紙面を読みながら、時代の変化に敏感な、オオっと、注目に値するような論説を読みたいと思ったのだった。


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【参考文献】


・近衛文麿著『戦後欧米見聞録』中公文庫、昭和56年、13ページ


・平川祐弘著『漱石の師マードック先生』講談社学術文庫、1989年、137ページ


・江崎道朗著『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』育鵬社、2020年


・篠原正一著、『久留米人物誌』久留米人物誌観光委員会、昭和56年、714ページ

「なぜ、中国と提携したのか」 令和2年9月17日

現代日本では、明治27年(1894)から始まった日清戦争を、日本による中国「侵略」の始まりと教える。しかし、この戦争の当事国である清は満洲族政権であり、現代中国の根幹を成す漢民族は満州族に支配される植民地の民であった。満洲族に支配される漢民族は、およそ260年にわたり、韃慮(だつりょ)と蔑む満洲族に従うしかなかった。一般の日本人が中国人に抱く印象としての辮髪(おさげ髪)、チャイナ服にチャイナ帽は、満洲族が漢民族に強制した満洲族の風習である。

イギリスは清国から茶を輸入していた。しかし、清国はイギリスから何も輸入する物がない。輸入超過に陥ったイギリスは、インドで栽培したアヘンを清国に売りつけ、茶の代金と相殺する方法をとった。アヘンの輸入超過、国民がアヘン中毒者になっても、何の痛みも感じない清国だった。取り巻き官僚の驕り、封建的身分制度による特権、腐敗の極にあった。この状況に危機感を抱いたのは、日本の志士たちだった。特に、自由民権運動団体の志士たちは、アジアを侵略する欧米列強に対抗するには、漢民族との連携が必須と考えた。

朝鮮の政治改革に取り組んだ日本だが、清国(満洲族政権)の属国に甘んじる朝鮮に、危機感はない。大国の清を過信し、文化程度の低い日本の忠告を疎ましく思っていた朝鮮だった。この状況認識の乖離から、いくつもの摩擦が日本と朝鮮との間に発生した。

そこで、日本の志士たちは、日中(漢民族)が連携し、政権が変われば朝鮮の政権も変化するとして、漢民族との共闘を模索した。それが、孫文、黄興の革命を支援する機縁になる。日清戦争勃発のニュースに、孫文は、漢民族の政権樹立の革命戦争到来と狂喜した。

明治37年(1904)の日露戦争は、アジアを侵略するロシアの脅威を取り除く安全保障の戦争だった。当然、そこには、清国、朝鮮が含まれてのことだった。しかし、当時の李氏朝鮮は、封建的身分制度の国であり、農民たちは奴隷に等しく、生殺与奪権を持つ支配層の両班(ヤンパン)に苦しめられていた。李氏朝鮮の「今だけ、金だけ、自分だけ」の両班には、自分たちの生活が保障されれば、ロシアの植民地になろうが、まったく関係なかった。

 現代、明治以降の日本はアジア侵略、支配を画策したとして糾弾される。しかし、それは、アジアを侵略した欧米列強(ロシアを含む)の詭弁に過ぎない。いわば、濡れ衣を着せられて戦後75年。今だ、ゆがんだ歴史教育が行われているのが日本である。
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参考文献・資料

浦辺 登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 12」令和2年9月2日

昭和43年(1968)4月23日、三島由紀夫は「銅像との対話 西郷隆盛」という小文を産経新聞に発表した。ここでいう銅像とは、あの上野の西郷さんを指すが、三島が西郷隆盛について「解かった」と述べたものだ。

ある時、玉利斎氏に電話をすると、「ちょうど良い。今度、憂国忌で話をするから、聞いてくれ」と言って、受話器越しに「銅像との対話」の朗読を聞く羽目になった。一人謁に入って朗々と語る玉利氏。

三島は、なぜ、西郷隆盛について新聞に寄稿したのか。この背景には、実に、不思議な玉利家三代との縁がある。玉利氏は三島さんにボディ・ビルをレッスンし、玉利氏の父・三之助は三島さんに剣道の稽古をつけた。その三之助の父、玉利氏の祖父は玉利喜造といって、日本初の農学博士である。この玉利喜造が鹿児島に居る時、西郷隆盛と関係があった。時代は、明治10年(1877)の西南戦争前のことだが、鹿児島では新政府に対する不満が充満し、政府は政府で、反政府の要衝となる鹿児島の制圧を考えていた。そんな中、一人、黙々と勉学に励む玉利喜造。西郷さんの下に結集しない玉利喜造を仲間が引き立て、西郷さんの前で釈明させた。その玉利喜造の話を黙って聞いていた西郷は、玉利喜造に上京しての勉学を勧めた。もし、西郷隆盛が、玉利喜造に勉学を勧めなかったら、玉利喜造は世に出ることも無く、逆に戦場で命を落としていたことだろう。

当初、三島さんは、「若い者を引き連れて、最期は腹を切って・・・」と西郷隆盛を評価していなかった。しかし、考えてみれば、「楯の會」の若い者を引き連れ、城山ならぬ陸上自衛隊東部方面総監室で三島さんは腹を切るのだから、人の生きざまは分からないものだと玉利氏は語った。

玉利斎氏は、三島さんとボディ・ビルを通じて親交があったが、よく、討論もしたという。陽明学、武士道、そして、西郷隆盛についても。肉体が変化していくとともに、武士の生きざまも精神も、三島さんの身体に染みこんでいったという。

玉利斎氏が急逝した後、平成30年(2018)11月23日、私自身が「福岡憂国忌」(福岡市東区箱崎の筥崎宮)で玉利家三代と三島さんについて語ることになった。存命であったなら、「君が西郷さんと、三島さんを語るのか。そりゃあ、実に、面白い!」と玉利斎氏は豪快に笑ったことだろう。当日、玉利斎氏への追悼の意味も込めて、「福岡憂国忌」で「三島由紀夫と玉利家三代」について語った。

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【参考文献】

・『玉利喜造伝』玉利喜造伝記編纂事業会編、昭和49年、私家版

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 11」令和2年8月30日

三島由紀夫に剣道の稽古をつけたこともある玉利斎氏の父・三之助は剣道九段範士だった。玉利斎氏の話は、時折、剣道の話にも及んだが、著名な剣の達人、剣道の名手を「知らない」と言うと、いかにも驚いたように、がっかりしたような表情をされる。玄洋社の歴史を記録する人間(筆者)が、斎村五郎を知らないのか・・・、島田虎之助は知っているよな?など、ボディ・ビル以外にも話は及んだ。

剣道だけではなく、柔道の話にも及んだが、玉利斎氏はボディ・ビルを始める前には、柔道をやっていた。ある日、大学(早稲田)柔道部の道場に見知らぬ人が稽古着を着て座っている。一年生は道場の掃除などをしなければばらないので、早めに行く。どこの誰かは知らないが、大学のOBだろうと思って挨拶だけはした。すると、「おい、そこの一年坊主、俺の相手をしろ」と言う。自分は、まだ、一年生で稽古の相手にもなりませんと断ったが、「構わん」と言われ、稽古の相手をした。なんの、こんな小さなジイサン、と思って組んでみたら、びくともしない。そこで、力いっぱい、道着を掴んで投げ飛ばそうとした瞬間、逆に畳にひっくり返っていた。今度こそ、と思ってムキになればなるほど、瞬時に投げ飛ばされている。そんなことが続き、息があがり始めた頃、「じゃ、今日は、ありがとう」と言って、その人は去っていった。あっけにとられて、ただ、頭を下げて見送るしかなかった。

しばらくしてから、玉利氏は思い出したそうだ。もしかして、あの人は、牛島辰熊では・・・と。牛島辰熊とは、あの「世紀のプロレス対決」とも、「プロレスの巌流島の戦い」ともいわれる力道山、木村政彦の試合で、力道山のセコンドについたのが牛島辰熊だった。玉利氏の父・三之助と牛島辰熊は、戦前の天覧試合で剣道代表、柔道代表で出場した仲だった。以後、何かと気が合い、戦後も長く親交があったという。牛島辰熊は弟子である木村政彦の敵手のセコンドについた。この場面は、後のテレビアニメ『巨人の星』の星一徹、飛雄馬親子が敵対関係になる場面に重なる。

玉利氏が語るには、あの玉利三之助の息子が柔道をやっていると小耳に挟んだのだろう。玉利(三之助)の息子が、どれほどの腕かを試しにきたんじゃないのか・・・。「それにしても、組んでも、岩のようにビクともしないのには、恐れ入ったねぇ・・・」。遠くを見るような表情で、懐かしそうに語ってくれた。

平成23年(2011)11月6日付の熊本日日新聞に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著)の書評を寄稿した。分厚い一冊だったが、実に面白かったので玉利斎氏にプレゼントした。「インド(ボディ・ビルの世界大会)に行く飛行機の中で読み耽ったよ・・・。実に、面白い本だった」と玉利氏は語った。
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・玄洋社 明治12年(1879)に創立した福岡発祥の自由民権運動団体

・斎村五郎(1887~1969)剣道十段範士、「剣聖十段」の異名を持つ

・島田虎之助(1814~1852)豊前中津藩出身、勝海舟の剣の師としてしられる

・牛島辰熊(1904~1985)柔道家、九段

・木村政彦(1917~1993)柔道家、七段、プロレスラー、総合格闘技家

・力道山(1924~1964)元大相撲関取、プロレスラー、

・「巨人の星」梶原一騎原作、川崎のぼる原画のテレビアニメ、スポーツ根性ドラマ

 

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 10」令和2年8月19日

三島さんが自決したあと、葬式にも供養にも行かなかった。しかし、お焼香をさせてくださいと、三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)に電話をした。

「ご立派な最期でしたね」とお母さんに言ったら、「玉利さん、そう思われますか。それを聞いて、倅がどれほど喜ぶことでしょう」と言われた。

三島さんは文で評価された人だけど、「戒名には文を入れないで、武だけにしたい。」

「ジジイが元気になることを教えてくれ」とも言っていた。

ある時は、「僕には幕臣(永井尚志)の血が流れてるんだ」と言って、子供のように、嬉しそうに語ったのを思い出すね。

渋谷に一緒に映画を見に行ったんだけど、それが「原子怪獣」とかいうやつだった。三島さんが、ゲラゲラ笑って観てるんだ。UFO(未確認飛行物体)にも、関心もってたね。純粋な人だった。善も悪も評価する人で、インチキを嫌った。

玉利斎氏は、ことあるごとに、ポツポツ、断片的に思い出した事々を口にした。

ある時など、九段下の「九段会館」のある交差点で急に立ち止まり、じっと、空を見上げていた。その日、東京にしては珍しく空が青く澄み、雲一つなかった。

「三島さんが、腹切ったのは、こんな空が澄んでいた日だった」

絞り出すように口にして、玉利氏は、じっと、空を見上げていた。仕方ないので、その側で一緒に空を見上げていたが、きっと、周囲の歩行者、往来の車列の人々からは、奇妙な光景に見えたことだったとう。

またある春の夕暮れ時、玉利斎氏と夕食を兼ねて飲んでいた。無心にビーフ・シチューか何かを口にする玉利氏だった。すると、「やってるな、玉利さん」と声が聞こえた。誰か、玉利氏の友人が来たと思ったら、誰もいない。玉利氏の隣を見ると、茶色の小さな物体が見えた。あれっ?と思い、背後の窓ガラスを見ると、玉利氏の背中しか映っていない。再び、玉利氏の隣を見ると、その茶色の物体は消えていた。

後日、玉利氏にその謎の場面を話すと、「君には、見えたのか・・・」と言う。時折、三島さんは、玉利斎氏のところにやって来るようなのだ。

 いまもって、この不思議な空間体験の真相はわからない。

 

*永井尚志(1816~1891)父方の高祖父、長崎海軍伝習所総監理などを歴任

*戒名は「彰武院文鑑公威居士」として多磨霊園平岡家の墓碑銘に刻まれている

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 9」 令和2年8月17日

「もう、いいよ」(ボディ・ビルの個人レッスン)ということで、三島さんとの縁は絶えていたんだけど、『文化防衛論』か『英霊の聲』を出した頃、三島さんと再会したんだ。オヤジ(玉利三之助・嘉章)の使いで三島さんに竹刀を届けにいったけど、後楽園ボディビルセンターだったと思う。その時、三島さんの身体に精神力が伴っていると感じた。三島さんは「社会人として行動すべきではないか?」と俺に言うんだ。

また、「現代社会に、価値があるのかい?」とも口にしたね。

現代社会に身体が媚びる必要はない。経済、カネに振り回されている。時代に媚びない。身体側の論理、それが武士道だと言う。武士道とは?と質問したら、「勇気、正義だ」という。観念の人だと思った。この頃から、(三島さんは)日本回帰していた。

しばらくは疎遠状態だったけど、その間に三島さんは行動の世界「楯の會」を立ち上げた。この時、理屈抜きで三島さんに近寄ったのが、森田(必勝)だった。三島さんは、芸術的、政治行動としての玉砕を考えていたのだろう。あの自決は。舞台設定を自らした、天才の感受性だった。

三島さんが自決したあと、しばらく、三島さんの呪縛から抜けられなかった。ある時、三島さんが夢に出てきたんだ。小高い山があって、その上の方に神社があった。その途中、石段の途中に踊り場があって、そこに五、六人の人がいる。その中に、三島さんが居たんだ。「生きてた!」と思った。そうしたら、三島さんが足を出せという。足を出したら、墨汁が入ったバケツがあって、それに足を入れて、そばの紙に足形をとるんだ。それが終わると、「俺は、もう、行かなきゃいけない」と言って、消えてしまった。その夢だけど、(意味を考えて)「現実に足を踏まえて生きていけ」という三島さんのメッセージだと思った。

この夢の話のあと、玉利斎氏は、文と武は日本対世界。個と組織は東洋対西洋と言う。玉利氏独自の、なんらかの世界観があったのだろうが、今となっては、その深い意味を知る(確認)ことはできない。ただ、西郷隆盛については、三島さんとよくやった(論争)と言っていた。振り返れば、それが、『銅像との対話 西郷隆盛』という小文につながったと考える。

・『文化防衛論』昭和43年(1968)「中央公論」掲載、翌年、新潮社より刊行

・『英霊の聲』昭和41年(1966)初出、河出書房新社より同年に刊行

・玉利三之助は自身で竹林に入り「嘉章」の号で竹刀を作っていた

・「楯の會」昭和43年10月5日創設~昭和46年2月28日解散

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 8」令和2年8月5日

オヤジ(玉利三之助・剣道九段範士)の使いで、時々、青山二郎の会に行っていたんだ。小林秀雄とか白洲次郎とかが仲間にいたな。白洲のバアサン(正子)はいたかもしれないなぁ。

「刀剣美術保存協会」というのがあって、初代会長が有馬頼寧だった。オヤジが刀の目利きもするんで、使いに行っていた。ワカモト(整腸薬)社長の長尾ヨネさんが銀座に小料理屋をもっていて、そこがサロンみたいになってたな。

ある時、若造だから、末席で酒を飲んでいたら、青山二郎がやってきて、文句を言うんだ。こっちは、オヤジの使いで来てるのに、「なんだ、この野郎」と思ってたが・・・。こんな話を三島さんにしたら、「本物に会うようになったね・・・」と言うんだ。「分からんよなぁ、そんな一介の学生に本物がどうだか何だか・・・。」

そういや、オヤジは、日夏耿之助さんと仲が良かった。日夏さんとの酒飲みの会を作っていて、そこに幸田文さんも来ていた。

三島さんと一緒の時、三島さんは本屋によく足を運んでいたね。そして、新刊ものを見ていた。ユング(心理学者)に興味を持っていた、集合的無意識とか。

三島さんはボディ・ビルは終生止めていなかったけど、(半年ほどで)個人レッスンは「もう、いいよ」ということで会う事がなくなった。しかし、オヤジが参議院会館の剣道場で三島さんと会ったので挨拶にいった。「いつも、息子がお世話になっています」と。そしたら、稽古をつけてくれと言われたそうだ。オヤジが言うには、三島さんの剣道は固い、ガチガチ。だけど、「機鋒が鋭い」と言っていた。八田さん(八田一朗、参議院議員、1964東京オリンピックでのレスリング日本代表監督)に、剣道の師範としてオヤジが呼ばれていたころと思う。

玉利斎氏の話は、いつも、筋道だっていたが、時に横道にそれる。しかし、その外れた話に面白み、興味深いものが多かった。

*青山二郎(1901~1979)美術評論家

*小林秀雄(1902~1983)文芸評論家、作家

*白洲次郎(1902~1985)実業家

*白洲正子(1910~1998)随筆家

*有馬頼寧(1884~1957)農林大臣、JRA理事長、第15代有馬家当主

*日夏耿之助(1890~1971)詩人

*幸田文(1904~1990)随筆家、小説家

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 7」令和2年8月1日

三島さんとの付き合いは、ボディ・ビルのレッスンだけじゃなかった。歌舞伎の舞台稽古なんかにも連れていってもらったね。確か、歌舞伎の台本か何かを書いていた時だった。歌舞伎の女形というのは、私生活も女なのには、驚いたね。文士劇にも連れて行ってもらったし、洋品店でネクタイを買ってくれたこともあった。「玉利さんは、文学青年じゃないから安心だ」と言うんだよ。文学論を振り回さないから。そうそう、サラリーマンになってはいけないとも言われたね。なぜかは、知らんが。

身体ができてくると、三島さんは「動くスポーツがやりたい」と言い出した。それなら剣道が良い、年齢をとってもできるからと薦めたんだが、「あまり日本的だ。西欧的スポーツ、外国のスポーツをやりたい」というんだ。ただ、テニスはスノッブ(上品ぶっている)と言っていたね。

そして、「やらない」と言っていたボクシングを背いてやってしまった。しかし、スパーリングの相手が、もし、三島さんの頭を叩いてしまったら大変なことになる。ということで、本気で相手をしないので、三島さんから止めてしまった。

そしたら、「日本的だ」と言った手前、隠れて剣道をやって、何人か師を巡ったようだね。ある警視庁の剣道の師範についていたけど、この師範はオヤジ(玉利斎氏の父は剣道九段範士の玉利三之助)から、精神が無い、バタついた剣道をすると評される人だった。

いずれにしても、半年間、みっちりと(ボディ・ビルの)トレーニングをしたことから、身体と共に精神構造にも変化が出て、行動の変化につながった。

銀座にサンケイ・ボディビル・クラブがあったけど、どこに行っても見劣りしない身体になった。確か、祐天寺(東京都目黒区)にいた頃と思うけど、『鏡子の家』にボディ・ビルについて書いていたと思う。

しかし、三島さんは身体のことは叶わないと、(常々)コンプレックスを持っていた。そういえば、「平凡パンチ」の編集長(椎根和さん)は三島さんの剣道の弟子を自認していたねと、玉利斎氏は語ってくれた。
 

*歌舞伎 三島は幼少の頃、祖母に連れられ歌舞伎の観劇をした影響もあり、「鰯売恋曳網」などの脚本を書いた。

*三島がテニスを「スノッブ」と評したのには、別の訳があるともいわれる。

*『鏡子の家』 「戦後は終わった」と言われた昭和33年(1958)頃の作品。

 

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 6」 令和2年8月1日

三島さんは、(ボディ・ビルによって)半年で身体ができた。青春の謳歌もない三島さんだったが、この身体ができたことで青春を取り戻したんだ。

ある時、「鉢の木会」という大岡昇平、吉田健一、福田恒存らがメンバーの文人の会があって、そこで三島さんは福田から「マグロになりたいのか。干物には干物の価値がある」と呵々大笑されたというんだ。三島さんが、ボディ・ビルを始めたと聞いて、福田はからかったんだ。

ボディ・ビルのレッスンが終わってから、三島さんの朝飯が始まるんだけど、三島さんのお母さんが手作りの料理を出してくれた。ビーフシチュー、具がたくさん入ったオムレツなんかが出たね。三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)がお給仕してくれるんだ。当時、ボディ・ビルをやってる連中は、タンパク質を摂らなければいけないといって、たいてい、そんなにカネがあるわけじゃないから、納豆に、煮干しだよ。だから、三島さんの家で出される食事は良かったね。お母さんが、三島さんの為にと、一所懸命だったんだろうね。時には、家で食事をしないで、そのまま歩いて駅まで行って、(東急)東横線に乗って食事にいくこともあった。文春倶楽部というのがあって、そこに文人が集まるんだけど、三島さんは丁寧にそれぞれに挨拶をされていた。高見順とか、堀田善衛とがいたけど、三島さんは嫌いな人がいると「出よう」と言って、さっさと出ていくんだ。三島さんは堀田善衛が大嫌いだった。

外で食べる時も、バランスよく、タンパク質を考えて選んでいた。三信ビル(東京都千代田区有楽町)の「ピーターズ(レストラン)」に行ったし、新宿に行くこともあった。全部、三島さんもちだった。三島さんからは、(ボディ・ビルの)レッスン料はいくらでも良いと言われた。当時はまだ学生だし、カネは欲しいけど、こちらも誇りがあった。「天下の三島由紀夫からカネは受け取れません」と言ったから、食事代なんか、全部、出してくれたね。

幼少の頃に実母を亡くした玉利斎さんにとって、倭文重さんの料理は思い出深いもののようで、懐かしそうに、当時の思い出を語ってくれたのだった。

*「鉢の木会」昭和24年(1949)にできた文人の会。戦後の物資不足の中、ありあわせの物でも良いから会を開くという主旨。

*大岡昇平(1909~1988)小説家、代表作は『俘虜記』『レイテ戦記』

*吉田健一(1912~1977)文芸評論家、小説家

*福田恒存(1912~1994)文芸評論家、劇作家

*高見順(1907~1965)小説家、詩人

*堀田善衛(1918~1998)小説家、評論家

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 5」

三島さんへのレッスンは、晴れた日は庭でやってたなぁ

レッスンを始めたのは、会って、数日後からだった。東急(東京急行)東横線「都立大駅」近くに、お父さんの平岡梓さんの家があった。中の上(クラス)ほどの家だった。レッスンを始めようにも、ベンチが売っていない。そこで、梓さんが出入りの大工さんに作らせた。バーベルも特注で、50キロのものがあった。ダンベルは、どうだったかなぁ。

 三島さんの胸は細く、薄い。ただ、胸毛はたくましかった。

レッスンを始めるにあたって、三島さんと約束した事があった。まず、健康診断を受けること。当時の三島さんは、不眠症、胃弱だった。冷やかしはダメ、本気でやること。継続すること。自分勝手な練習をしないこと。レッスンには、スケジュールを立てたね。

三島さんの家には、週二回、火曜と木曜に行った。三島さんは、夜の8時から書き始めて、朝の5時にはやめてた。そして、だいたい、朝11時に起きるんだ。練習は昼の12時から始めるから、食事なしだった。行くと、三島さんは海水パンツで待っている。

まず、柔軟体操を10分から15分ほどやって、カールというバーベル、シャフトだけで10キロのものに、1.25キロの重りを左右に付けて、合計で12.5キロで始めた。これは、型を覚えさせるためだった。次に、ベンチ、スクワット、それに呼吸法も大事。

ちょうど、取材のジャーナリストが来ていて、からかうんだ、三島さんを。しかし、三島さんは怒らない。男が何かをやる時は、批判は覚悟。死ぬときも一緒で、批判覚悟だよと。

 英雄的行為ができる身体になる。


三島さんのレッスン開始前の写真があるけど、(他人に)見せたら絶交だ!と冗談でいっていたけど、半年ほどして軽口が言える関係になったね。三島さんが死んでから、あの写真(ガリガリに痩せた肉体)を見せるようになったけどね。

 

*レッスン開始は昭和30年(1955)9月16日。ゆえに、玉利斎氏が三島に初めて会ったのは、9月13日頃になる。

 

【参考文献】

『武人 甦る三島由紀夫』(晋遊舎)

『東京の片隅から見た近代日本』(浦辺登著、弦書房)

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 4」令和2年7月9日

「三島さんがボディ・ビルに興味を抱いたのは、1年か2年前に世界旅行に行って、ボディ・ビルの雑誌を目にしたのがきっかけらしい。たぶん、ウィダーが出している雑誌だと思うけど。」玉利斎氏は、そう語り始めた。

いろいろ話を聞いてみると、三島さんは子供のころから身体が弱かった。朝礼の時は、貧血で倒れる。体育は見学。男だから体育はやってみたい。しかし、身体が丈夫じゃないから、本ばっかり読んでいて、将来、小説家になるしかない。それ以外、道が無かった。

三島さんは丙種で兵隊にとられたけど、即刻、帰郷を命じられたほどの身体さった。しかし、ヘミングウェイなんかは、内向的な作品だが、その生活は健康的で明るい。その点、日本の作家は、せいぜい、女と心中するのが多い。例えば太宰(治)、芥川(龍之介)。

あのピカソ(画家、1881~1973)だって、80歳なのに、裸で絵を描いて、若い女と付き合っている。私生活は健全でありたい。精神まで虚構に没累、虚構の産物に自分を埋めることはない。足腰立たなくなって、それでもベッドごとテレビ局に行って、ヘタレ口たたいてやる。そう三島さんは語っていた。引目鉤鼻が平安朝の色男だが、日本の作家の生きざまをしたくない。ボディ・ビルによって自分の小説が、どう変化するか実験したい。

玉利斎氏は、三島さんと出会った時の話を記憶の限り、語ってくれた。しかし、マッチョ好みの丸山明宏さん(美輪明宏)に、三島さんが肉体を揶揄されたからという話はご存じなかったようだ。

 

*三島由紀夫は昭和26年(1951)12月25日から、翌年の5月10日(8日とも)まで世界一周旅行に行った。朝日新聞の招待旅行であったと玉利氏は語ったが、当時、海外旅行は規制されており、三島は朝日新聞の特別通信員という肩書だった。

*ウィダーはボディ・ビルダーのためのプロテイン飲料などのメーカー。「シェイプ」「マッスル&フィットネス」「フレックス」の出版部門もあった。日本では森永製菓が「ウィダー・イン・ゼリー」として販売していた。

*三島には昭和3年(1928)生まれの妹、昭和5年(1930)生まれの弟がいる。

*三島が学習院初等科に入学したのは、昭和6年(1931)4月8日。

*三島は昭和19年(1944)5月16日、兵隊検査では第二乙種合格。昭和20年(1945)2月6日に入営通知を受けたことから身体検査を受けるが、右肺浸潤で即日帰郷となった。


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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 3」

三島由紀夫との出会いについて、あらためて玉利斎氏に話を聞いたのは平成25年(2013)7月29日のことだった。それまでは、断片的に、時間ができると語ってくれるのを聞くだけだった。

ある時、読売新聞の塩田丸男氏(1924~)が電話をかけてきた。ある作家がボディ・ビルに興味を持っている。何かは分からないが、ボディ・ビルの基本トレーニングの記事を見たという。軽い気持ちかもしれないけど、ボディ・ビルに興味をもっているので対応して欲しいという。「ある作家」ということだったけど、「良いですよ」と返事をした。

その「ある作家」というのが、『仮面の告白』(昭和24年、1949)などの作品で知られ、天才作家とも言われる三島さん(由紀夫)だった。三島さんはボディ・ビルに興味をもっただろうけど、こちらは違う世界の人として、逆に関心をもった。そこで、塩田さんに自宅の電話番号を教えたら、翌日には電話がきた。

「三島です!」と、その一言に驚いた。作家といえば、青白いという印象だったから。

そこで、今のペニンシュラ・ホテル東京(東京都千代田区有楽町)、昔の日活ホテル(日比谷ホテル)に、夕方4時くらいに待ち合わせの約束をした。日活ホテルは石原裕次郎が結婚式を挙げたことで有名だった。時間は正確だった。三島さんは「浮世のしきたりだから」と言う。初対面で「あれっ?」と思った。内向的な人と思ったら違っていた。同性愛(『仮面の告白』)の小説を書く人と思っていたから、少し、嫌悪感があったからかもしれない。しかし、その声は朗々と響く声で話す。

三島さんは大正15年か14年の生まれで、こっちは昭和8年(1933)生まれの、まだ早稲田(大学)の学生だよ。その若造に、三島さんは立って、深々とお辞儀をしたんだよ。会ったのは、昭和30年(1955)の夏だったと思う。互いに、上着は着ていなかった。

俺は、白のYシャツだったと思う。三島さんはスーツじゃなかったから、ラフな格好だったと思う。三島さんの声は大きく、そして、目が輝いていたのが印象的だったね。光を放つというか、目に力が有る人だった。礼儀正しさは、もって生まれた品の良さだと思う。

 

 *塩田丸男氏は読売新聞記者。週刊読売にボディ・ビルの特集記事が出たことが縁

 *三島由紀夫は、大正14年1月14日生まれ

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 2」令和2年6月11日

「楯の會」のどなたの話であったかは記憶に無い。三島由紀夫が自決したとのニュースが流れ、市ヶ谷の陸上自衛隊周辺は騒然としていた。報道陣、警視庁機動隊、野次馬がぐるりと取り囲む中、封鎖された正門前で暴れている男がいた。

 「俺は、海軍主計大尉だ!開けろ!」


 時代錯誤も甚だしい。すでに、旧軍が日本から消滅してから四半世紀になろうかとしていた。海軍主計大尉も何もあったものではない。しかし、村上一郎(1920~1975)は真剣だったという話だ。

村上は三島が自決してから五年後の昭和50年(1975)3月29日、自身の愛刀でもって自決した。村上は三島に敬意を表していたという。市ヶ谷に駆け付け、暴れたのも、その意識の一つといえる。

村上が三島に敬意を表していたのも、三島が村上の作品を評価していたからという。このことは、岡田哲也氏の『憂しと見し世ぞ』(花乱社)の7ページからの件に記されている。三島は、村上の小説『広瀬海軍中佐』を「人は少なくともまごころがなければ、これほど下手に書くことはできない」と評した。三島は、村上を褒めているのか、けなしているのか、解らない。ただ、「まごころ」という言葉が、村上の琴線に触れたのだろう。岡田氏は村上が主宰する同人誌に寄稿し、村上に師事した人とである。

他方、三島は村上の『北一輝論』を評価していたという話も「楯の會」の方から聞いた。岡田氏の内容と異なるが、いずれにしても、三島が村上の作品を読んでいたのは確かだ。大正14年(1925)生まれの三島に対し、村上は大正9年(1920)生まれ。年齢的には村上が年長であり、軍歴の有無からいえば、村上に軍配があがる。しかしながら、文壇での三島の存在は別格だった。

村上は、元治元年(1864)の「禁門の変(蛤御門の変)」で決起した真木和泉守を否定している。その村上も真木と同じく自決した。異なるのは、三島、真木のように決起ではなかったということである。

残念ながら、この村上一郎の人物について、玉利斎氏から聞きそびれてしまった。もしかしたら、語ってくれたのかもしれないが、私の受信装置が鈍感だったので、結果は同じことだっただろう。

ただ、北一輝の『日本改造法案大綱』などを読んだら、青年将校らはイチコロで感化されるでしょうねと、玉利さんを相手に語ったことは覚えている。

 

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「玉利斎さんとの思い出 三島由紀夫」令和2年6月7日

三島由紀夫が自決した時、私は中学二年生だった。同級生に、頭を怪我して白い包帯をハチマキのように巻いているのがいた。早速、三島の演説の真似をしてウケていた。三島が、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面統監室前のバルコニーから、ハチマキ姿で演説していたからだった。田舎町に一軒しかない本屋に立ち寄ると、三島の文庫本の棚はがら空きで、わずかに数冊しか残っていなかった。その一冊を買い求めたが、今となっては、その題名が何であったか、まったく記憶にない。

再び、三島が登場してきたのは、大学に入学してからだった。二浪の末に入学してきた同級生が、三島の心酔者だった。読め、読めと薦める。時には、「楯の會」のメンバーであった人を紹介してくれたが、さしたる興味も抱かなかった。友人が、「楯の會」メンバーを崇敬の眼差しで見つめていたのは覚えている。

今もって、全ての三島作品を読破したわけではない。しかし、好きも嫌いもなく、三島の人となりを耳にする機会がやってきた。縁あって、三島にボディ・ビルをレッスンした玉利斎氏と仕事を共にすることになったからだ。初対面ながら、「これは、手もとに一冊しかないけど、君にあげよう」と言って、ボディ・ビルの記念誌、剣道九段範士の実父(玉利三之助、嘉章)の記念冊子をくれた。ボディ・ビルの記念誌には、当然、三島との対談が収まっていた。

時折、一時間から二時間、玉利斎氏はスポーツの歴史、ボディ・ビルの歴史、玄洋社に関する歴史を語ってくれた。私はといえば、ノートに一字一句を書き留めていくのが精いっぱい。後で読み返すと意味不明の箇所もあるが、「読書百篇、意自ずから通ず」の言葉通り、次第に系統だった理解ができるようになった。

そして、三島との思い出話が折々に混じる。突然、三島が自宅に電話をかけてきたこと。軟弱な印象を三島にもっていたが、意に反し、その声は太く、強かった。「三島です!」と元気が良かった。機先を制されたとでもいう状態。自身の脇が甘かったとまでは口にされたかは覚えていないが、玉利氏は似たような言葉を口にされた。

人との出会いは、一瞬の油断から生まれる交差点での事故のようなもの。玉利氏の話を聞きながら、そんな風に思った。

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 *三島由紀夫、森田必勝は昭和45年(1975)11月25日に自決した。

No.36「南満州鉄道のはじまり」 令和二年四月十八日

拙著の『玄洋社とは何者か』を購読された方から、第21話について質問があった。


日露戦争のポーツマス講和会議では、東清鉄道の権利をロシアが日本に譲渡することになった。これが後の南満洲鉄道になるが、この鉄道を小村寿太郎は日清共同運行でと考えていた。この日清共同運行について記された文献の照会、並びに共同運行にならなかった経緯についてであった。

この日清共同運行については、『山座圓次郎伝』(一又正雄 編、原書房、昭和49年)に記述されている。資料編として「韓満施設綱領」(未定稿)(極秘)があり、ポーツマス会議を終えた小村寿太郎が、一便先に帰国する随員の山座圓次郎に託した書類である。

この「韓満施設綱領」中に「満洲鉄道」という章があり、「名義上日清両国の協同事業となし、日本法律の下に一つの会社を組織し、該鉄道(東清鉄道のこと)及び付属財産の実価を以って、帝国政府の持ち株とし、清国政府の出資はその希望に任せ、(中略)日清両国人は勿論一般外人よりも株金を募集し、右等の資金を合わして、会社の資本となし・・・・」と出ている。つまり、小村寿太郎は、南満州鉄道を日清共同での運行を考えていた。

しかしながら、共同運行に至らなかった背景として、日清間に政治的不信感があったと考えられる。特に、露清条約、密約(賄賂の見返りに満洲の土地をロシアに譲渡する)、さらに、日英同盟下のイギリスが満洲での権益を求めて日清共同運行を阻害したりなどが考えられる。

南満洲鉄道設立後、大陸に適した機関車、客車、貨車はアメリカから購入した。これに対し、イギリスが日英同盟としての戦勝メリットが無いと、日本政府に注文をつけた。仕方なく、イギリスからも機関車などを購入したが、レール幅の相違(現在のJRのレール幅はイギリス仕様、新幹線のレール幅はアメリカ仕様)が、影響している。日露戦争中も日本軍の列車のレール幅とロシアが敷設したレール幅に相違があり、最前線への物資、兵員の輸送に苦慮した日本軍だった。満洲という大陸では、アメリカ大陸仕様のレール幅でなければ、使用に耐えられない。

蛇足ながら、この山座圓次郎(福岡出身、玄洋社員)という外交官は、後に中華公使として北京に赴任するも、謎の死を遂げている。権益を巡ってのイギリスとの暗闘が原因ともいわれている。

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【参考文献】

・御厨貴編『時代の先覚者後藤新平』(藤原書店、2004年)

・浦辺登著『東京の片隅からみた近代日本』(弦書房、2012年)