浦辺登のコラム

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「相生由太郎」『人参畑会報誌』(2024年3月29日)への寄稿

「五・一五事件と新興国スポ―大会」『維新と興亜3月号』への寄稿

映画評「帰ってきたヒトラー」デヴィッド・ヴェンド監督、ティムール・ヴェルメッシュ原作

・歴史は繰り返す

1945年(昭和20)4月30日、アドルフ・ヒトラー(1889~1945)の自殺によって欧州における第二次世界大戦は終結した。連合国軍はナチス・ドイツ、狂人ヒトラーをニュールンベルグ裁判によって徹底的に弾圧した。極めつけは収容所でのユダヤ人虐殺だが、これは世界を震撼させ、ヒトラーは絶対悪となった。

その絶対悪のヒトラーが現代にタイムスリップして蘇ってきたら、どうなるか。本作品は、2012年に発表された『帰ってきたヒトラー』(ティムール・ヴェルメッシュ著)を映画化したもの。パロディ作品とみるか、社会風刺と見るかは、視聴者の判断。

視聴後に感じたのは「歴史は繰り返す」という言葉だった。第二次世界大戦終結後、ドイツは東西に分断された。しかしながら、即座に西ドイツは軍を復活した。けれども自国の防衛に限ったものであり、他国への干渉は厳しく制限された。

2022年2月、ロシアはウクライナに軍事侵攻した。ロシアのプーチン大統領をヒトラーになぞらえ、プーチンを批判し、EUはウクライナ支援へと世界を誘った。しかし、今回のロシアのウクライナ軍事侵攻においてドイツは動けない。せいぜい、戦車などを提供するにとどまっている。そういった欧州環境の中、本作品を視聴する。10年以上前の作品でありながら、すでにドイツ国内においてEUが主導した移民への不満、政治不信、経済への不満が水面下で濁流となっていることを知る。この社会状況は、かつてのナチス・ドイツが出現する社会に酷似している。

タイムスリップしたヒトラーの言動に、現代ドイツの国民が不満を表明する。移民による平均知能指数の低下、治安、秩序、社会不安など、男女ともにあからさまに不満を爆発させる。これらを見ながら、笑えない。なぜならば、この映像に登場し、不満を述べる人々と同様の人が日本にもいるからだ。かつての日本は、ナチス・ドイツと同じく戦争裁判で裁かれ弾圧を受けた。東條英機は今もってヒトラーと並び称される絶対悪だ。

1945年(昭和20)、ドイツ、日本の敗北後、連合国軍によって両国の歴史は「勝者の歴史」に塗り替えられた。連合国軍にとって都合の悪い事実は闇に葬り、「絶対悪」のレッテルがはがれないように誘導する。ナチス・ドイツの象徴であるハーケンクロイツは「無かった」ことにされた。日本の国旗、旭日旗も然り。その結果、表には出ない不満が沈殿している。

平凡な議論は偏りがない。世間一般は、安心感を求めて平凡を好む。そして、本音は言わない。この心の隙間を突いたのがナチス・ドイツだった。扇動によって集団を操作した。そう考えると、本作品は日常の常識を疑えと主張してはいまいか。人間の本質は変わらない。「歴史は繰り返す」。いくら、くさい物に蓋をしても、再びヒトラーは蘇る。人間心理の本質をついている本作品は、「笑うな危険」というが、笑えなかった。

「新興国スポーツ大会と日本」維新と興亜1号号より

入来文書(いりきもんじょ)に関する講演会を聴いて

令和5年(2023)11月19日(日)、午後2時から鹿児島県薩摩川内市で開かれた「入来で語る数奇な入来文書の運命」の講演会に参加した。講師は横浜市立大学名誉教授の矢吹晋氏。

まず、聞きなれない入来文書だが、これは平安時代後期から鎌倉時代にかけ、公家から武家に全国各地の荘園の支配権が移っていく様、いわゆる封建制の成立過程を知ることができる文書である。それも入来という狭い限られた空間での文書だけに、その過程が克明に理解できる文書。この文書をアメリカ・イェール大学の研究者であった朝河寛一(1873~1948)が読み解いた。それが翻訳され欧米で発表され評価を受けた。

しかし、日本では朝河寛一の名前も業績も広くは知られていない。その背景には、二つの要因がある。一つは、「勝者の歴史」としての薩摩島津家との関係性。もともと、島津家は京都の近衛家の配下にあった。その近衛家の各所の荘園を管理していた武家が島津家。反して、入来院家こと渋谷家が地頭職として鎌倉から派遣され薩摩を管理していた。ここで京都の朝廷、鎌倉幕府との二重支配下での薩摩だったが、やがて軍事力の差から島津家が支配者として君臨する。君臨するからには、政権の正統性を必要とする歴史書、系譜が作られる。その捏造の歴史書、系譜の矛盾を入来文書から指摘したのが朝河寛一だった。朝河が明治維新での敗者である二本松藩士族の末裔であったことも関係しているかもしれない。

次に、朝河の論文は欧米で発表されたにも関わらず、1945年(昭和20)の大東亜戦争敗戦後も日本では受け入れられなかった。封建制度下において農民は奴隷に等しく、農奴の解放が左派系の思想だった。しかし、入来文書には農民が奴隷に等しいとの記述はない。左派系にとっては、都合の悪い入来文書だった。大東亜戦争後の日本の大学は左派系の学者の巣窟だった。当然、入来文書の存在は共産革命の理論からは迷惑な文書だった。

矢吹晋氏の話は、入来文書の解説が中心。しかし、筆者はあえて研究者である朝河寛一にまつわる質問を行った。満洲ハルビンに向かった伊藤博文(1841~1909)が朝河の著書である『日本の禍機』を持参していたのか?朝河は日米戦争回避のために、金子堅太郎(1853~1942)にレターを送ったのか否かの2点。

伊藤と朝河が親しい関係にあり、朝河の『日本の禍機』を持参した公算は高いと考えられるが、確証は得られていないと矢吹氏。レターも、複数の日米戦争回避支持者の日本人に送られており、金子も当然、その内の一人だとのこと。

また、日露戦争ポーツマス講和条約では小村寿太郎に注目が集まるが、その周辺の人物を当たらなければ、真実は不明という。その当該人物が阪井徳太郎(1868~1954、三井合名理事、外務大臣秘書官)という人。これは、懇親会で矢吹氏が語ってくれた。

歴史の矛盾を突き詰める術として朝河寛一が著した『入来文書』は、貴重であると同時に、現代に幾重にも疑問を投げかけている。広く知らしめるべきと考える。

「三谷幸喜さんの講演を聴いて」

令和5年(2023)11月7日(火)の夕方、福岡アクロス(福岡市中央区天神)での三谷幸喜さん(1961~)の講演を聴いた。演題は「笑いのツボ ここだけの話」。三谷氏といえば脚本家、映画監督、キャスターと多才だが、本人いわく「テレビの脚本家」だそうだ。田村正和主演の「古畑任三郎」シリーズ、NHK大河ドラマの「鎌倉殿の十三人」など、代表作は豊富。

冒頭、三谷氏は実母の話を始めた。氏の母親は福岡県直方市の出身。実父は鹿児島県の出身。氏自身、三歳まで福岡市で育ったという。「室見川をきれいにしたのは私」と実母。「中洲(歓楽街)をつくったのはオレ」と実父。このエピソードだけで爆笑が会場から起きる。

三谷氏が初めての脚本を手がけたのは八歳の時という。オモチャの人形たちを劇団員に仕立て、芝居を演じさせたという。それを母が喜んでくれ、褒めてくれた事から、小学6年生でホラー作品「雪男あらわる」という脚本を書き、同級生を役者に仕立てた。先天的な脚本家だったといえる。

実際のテレビドラマでは、「アテ書き」という手法で脚本を書いていく。例えば、「古畑任三郎」であれば田村正和という俳優を軸にストーリーを展開する。ある回では、志村けんを犯人役にして脚本を書いたが「台詞が多すぎる」として断られた。そこで、緒形拳に打診すると受けてくれたという。今だから話せますが・・・という裏話は興味深い。この役者を想定しての「アテ書き」においては、プライベートにおいて役者と親しくならないことを前提にしている。「演技のうまい役者が人間的に優れているとは言えない。反面、演技は下手でも人間的に好感を持てる役者もいる」。故に、感情が邪魔するのを避けるため役者との付き合いはしないという。

意図して語ってはいないと思うが「人間は矛盾を抱えた生き物」、「人間は何に対して笑うのか?それは、人間は人間を見て笑う」。だから、ちゃんと人間を見なければ笑いはとれない。「笑うのは難しい」など、脚本家としての言葉が出てくる。この「ちゃんと人間を見なければ」については、向田邦子が脚本を書いたテレビドラマ「だいこんの花」を事例に語った。向田の短いシーンで訴えることができる脚本を絶賛する。天才とも。その向田邦子の名前を冠した賞を「鎌倉殿の十三人」で三谷氏は受賞した。

締め切りに間に合わなかった話もされたが、「書き溜め」をすると不思議とトラブルが起きるのでやらないという。締め切りに追われるからこそ書けるとも。5年先まで仕事が入っているが、それがストレスにならないというから、天性の才能を活かしているといえる。「笑いのツボ」としての話だったが、氏の話に笑いながらも考える事の多い講演だった。

最後に、3歳まで育った福岡のお土産では「鶏卵そうめん」「おきゅうと」が好きだという。「ひよこ」も好きだが、顔の表情が可哀想で、頭だけを残すという件には爆笑だった。

JTの冠をつけるのならば、来歴を記す石柱も立てるべきでは

JTこと日本たばこ産業の工場跡地の活用について、種々、意見が出ている。福岡県筑紫野市上古賀にあった工場跡地だ。ここは昭和56年(1981)にJTの工場建設が決まり操業していたが、昨今の喫煙者人口の減少により工場閉鎖、現在は解体工事が進んでいる。その跡地利用については決まっていない。そこで、工場敷地内にあった樹木の保存も兼ね、公園にという要望が市民から出ている。

ここはもともと、福岡県立農業試験場があった場所だ。広大な農地が広がっていたが筑紫野市内の別の場所に移転した。昭和50年(1975)当時、跡地は市民プールなどの公共施設建設が計画されていた。ところが、計画は変更され、JTの工場が建設された。当時の市長は松田正彦という元福岡県官吏だったが、すでに故人となっているので計画変更の詳細な事情は不明。

市民は樹木保存を兼ねての公園を望んでいるが、その公園の名称にJTの冠をと言っている。たばこ産業の工場跡地があったからということだろう。しかし、それならば、もともとあった農業試験場の来歴も記すものにしなければならない。当該農業試験場では、アジア(インド、パキスタンなど)から農業研修生が来日し、日本の近代農法を学んでいた。インドに植林をした杉山龍丸さんの斡旋であったとも耳にする。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師も杉山龍丸さんの指導を受けていただけに、中村哲医師の萌芽もここにあったと言って良い。

蛇足ながら、公園の冠にJTをつけるのであれば、農業試験場を誘致するにあたり近在の篤実家が農地を福岡県に寄付したことも付記すべきと考える。JTの工場跡地の道路向かいには、農業試験場があったという石碑、万葉歌人・大伴旅人の歌碑もある。来歴を刻んだ石柱の一本を建てる余裕はあるのではと考える。

 

「五條家御旗祭りに参加 明治維新は南朝の王政復古か」『維新と興亜』11月号掲載

機能不全の国連からの脱退を検討してみては

昭和20年(1945)6月、国連憲章成る。同年10月24日、国連成立。同年11月ユネスコ(国連教育科学文化機関)創設。日本史年表の世界史「西洋」の欄には、このように記載される。あらためて、この年表記載を取り上げるのは、やはり、停戦に至らないウクライナ紛争があるからだ。

国連とは、いったい、なんぞや。義務教育では世界の平和を創設する機関と教えられた。しかし、創設以来78年、世界は一向に平和を実現できない。国連を構成する5大国(英米中露仏)と呼ばれる国々に、特権ともいうべき拒否権が付与されているからだ。その拒否権の存在から国連は機能不全に陥っている。ユネスコは教育や文化面で平和を補完するものとして創られたが、本体の拒否権に翻弄されて、これも機能不全に等しい。(トランプ大統領時、アメリカはユネスコを脱退していた)

新聞の論説に、国連至上主義の識者が意見を述べる。何ら効力、説得力を及ぼすものではない。その国連の下部組織が、加盟国の制度にくちばしを挟む。上部組織の大国の問題解決は不可でも、小国であれば解決できるとみているのだろうか。そもそもの根幹がずれていれば、下部も自身の歪みを補正できるはずもない。

グローバル・スタンダードという言葉が流行し、今はジェンダー。国連の下部組織がジェンダーについて発信しても、小国の日本において容易に受け入れられるはずもない。日本の女性有用が遅れているというが、肝心の国連のIMO(国際移住機関)ですら、設立から72年にして初めて女性事務局長が誕生した程度。国連ですら遅れているのに、日本限定で求められても、どうしようもない。人材開発、人材育成の制度がないがしろにされてきたからだが、これは女性に限ったことではない。今や男性も然り。

かつて、日本には「一億総中流」という言葉があり、正規雇用によって社会が安定していた。しかし、非正規雇用が普遍的になったことで社会の安定性を欠いた。当然、人材育成の教育費など、無駄な経費として経営陣の念頭にものぼらなくなる。

日本はジェンダーにおいて遅れているという。そうならば、男女ともに正規雇用を増やし、社会の安定を先に行うべきと考える。国連という機能不全に陥った機関の、なんら拘束力のない下部機関が日本に対し何を言っても効果は生じない。75年余経過しても旧態依然の国連ならば、日本は国連脱退を検討してもよいのではないか。特に、国連は日本、ドイツという二国を敗戦に追い込み、戦後処理を目的に創られた組織だ。未だ、この二国は「敵国条項」の中にあり、常任理事国入りも不可能。しからば、今後、日本はいかに対応するかを検討しなければならない。

今一度、「ハマのドン」の上映を望む

ドキュメンタリー映画「ハマのドン」は横浜港にカジノを誘致したい横浜市&政府に対抗した藤木幸夫氏(港湾荷役会社代表)との闘争を描いたものだ。横浜市長選挙を通じ、カジノ推進派の市長は落選。更に、安倍元総理の後を受けた菅義偉氏も総理の座を降りた。すでに、世界は濡れ手に粟のカジノを求めてはいない。しかし、それでも、その粟のおこぼれを拾うことに懸命の輩もいる。

 令和5年(2023)9月29日付の新聞に、アメリカのカジノ大手と大阪府が協定を締結したと報じた。2030年にはカジノを大阪に開業するという。ただでさえ、2025年に開催予定の「大阪・関西万博」の工事が遅れ、出展者が集まらない中、カジノは開業するという。穿った見方をすれば、カジノ誘致目的の大義名分としての万博開催だったのか。

埋め立て地で催事を行うのは江戸時代にもあった。期間限定の芝居、相撲などの興行に人々が集まり、その重量で埋立地が固まる。更に、興行収入も幕府に入るというものだった。ところが、カジノは恒常的に開かれる。簡単にいえば、日本の富裕層の懐に手を突っ込み、奪い取っていく仕組みだ。カジノは胴元が儲かるようになっていることは、先述の「ハマのドン」の中で証言されている。

新聞報道では、やんわりと問題点を指摘している。胴元のカジノ大手・MGMリゾーツ・インターナショナルと大阪府との間の協定に「解除権」が盛り込まれていることだ。万博開催中にカジノの工事が並行的に進められるが、仮に2030年の開業に間に合わなければ、カジノの胴元は「解除権」によって撤退が可能であり損害を被る事はない。単に大阪府、オリックスが事業負債を抱えるだけのこと。「ハマのドン」でも紹介されたが、カジノの胴元は、収益が上がらなければ撤退し、後にはゴースト・タウンが残るだけになる。

林横浜市長は落選し、菅総理は政権の座から降りた。「日本維新の会」が支える大阪府、大阪市だが、同じ轍を踏むのではないかと懸念する。今一度、「ハマのドン」を日本各地で上映し、IRとは何かを考えた方が良いのではないかと考える。

石瀧豊美氏の「近著『頭山満・未完の昭和史』の裏話」の講演を聴いて

令和5年(2023)9月24日(日)、福岡県立図書館研修室で石瀧豊美氏の講演を聴いた。これは、福岡地方史研究会総会の恒例だが、今回、会長を務める石瀧氏が『頭山満・未完の昭和史』を刊行したばかりということで、執筆裏話としての話だった。

石瀧氏には、既刊の『玄洋社・封印された実像』など、玄洋社関連の著作が多い。というのも、氏の母方の先祖に「玄洋社生みの親・育ての母」とも呼ばれる高場乱(たかばおさむ)がいるからだ。氏には「暗河(くらごう)」という雑誌に1977年に寄稿した「高場乱小伝」という研究レポートがある。精密な調査の末の一文だが、「暗河」は石牟礼道子、渡辺京二などが熊本で発行していた同人誌。しかしながら、早くから東京を中心とする文壇の人々に支持されていた。小説家の安岡章太郎(1920~2013)も石瀧氏の「高場乱小伝」を評価していたという。

歴史という学問の世界では、学閥や師弟関係が色濃く反映される。在野の研究者は色に染まらない自由な研究、執筆が可能。石瀧氏もその在野の研究者である。様々な証拠を集めて執筆し、発表するが、中央の歴史学界は不思議に「地方史」を信憑性に欠けるものとする。いかに、新聞、雑誌、写真などの証拠が揃っていても、評価の対象にすらしない。更には、明らかに参考文献として石瀧氏の著作から引用した事実でも、研究者は巻末の参考文献に(地方で発表したものとして)記載しない。

石瀧氏は半世紀近く、玄洋社の研究を続けているが、玄洋社イコール頭山満だけで玄洋社を語る事の恐ろしさを口にする。頭山満は玄洋社の一員であって、玄洋社という組織の全てではないからだ。しかしながら、今回、石瀧氏があえて頭山満の名前を新刊に付したのは、近現代史の研究者が頭山満を通してでしか玄洋社を評価しないことへの反発でもある。それも、正しい評価ではなく、古式然とした過去の評論家の説から現代の研究者が抜け出せていないからだ。その事々は、石瀧氏の新刊に研究者の実名を挙げて指摘されている。この点は、いかに、日本の歴史学界が権威に縛られているかの証拠であり、師を乗り越え、新しい説を述べてこその学問が、どれほど遅滞しているかを示すことにもなろうかと考える。

地方史は我田引水、我が町自慢という先入観を中央の研究者たちは抱いているのではないか。中央の歴史を補完する立場が地方史であると石瀧氏は主張する。とりわけ、玄洋社については、福岡という地方都市に誕生しながら、日本、アジアにまで展開した特殊な団体と石瀧氏は主張する。

近年、壊れたテープレコーダーの如く、同じテーマでの歴史認識が続くのも、研究者が地方史に着目していないからと筆者も考えていた。それだけに、石瀧氏の論には納得できるものがあった。

(公財)筑紫奨学会・研修会に参加して

令和5年(2023)9月9日(土)、ホテル・ニューオータニ博多で開かれた(公財)筑紫奨学会・研修会に参加した。研修会のテーマは「プーチンの戦争とEU:その地政学的衝撃・EUの奨学金事情」であり、講師は久留米大学名誉教授の児玉昌己氏である。氏は日本でも稀有なEU(欧州議会)の専門家で、日本EU学会の名誉会員。

一般に、日本とEUとの関係を身近に感じることはない。大東亜戦争(太平洋戦争)以後、日本を占領統治したアメリカの影響はいまだ強く、政治・経済・外交などはアメリカに従属している。このことは、アメリカの意向、風向きを計っておけば、まずまず安泰という構図になる。ましてや、EU域内にもアメリカの軍事力の影響は強く、EUも日本も似たような立場と考えてしまう。そこに、イギリスのシティーを見ておけば、あらかた事足りるというのが従前の流れだった。

しかし、この世界観、構図は2022年(令和4)2月24日に崩れ去った。ロシアのウクライナ侵攻である。これは、1989年(平成元)の「ベルリンの壁崩壊」以来の衝撃だった。ロシアはウクライナに侵攻しないと予想した評論家もいたが、その予兆は2019年(令和元年)9月19日、EU(欧州議会)は旧ソ連(現在のロシア)を戦争犯罪、侵略国家として議決した。この議決に、プーチン大統領の激怒した表情を思い浮かべた。ロシアとすれば「何をいまさら」と思うだろうが、旧ソ連の経済的悪影響を受ける東欧の国々からすれば、ロシアと隔絶したいという意向が窺える。

そんな緊張感が漂うEUでありながら、現今日本ではイギリスがEUを離脱することによる経済的な影響は報道されても、ロシアとの緊張関係は伝わってはこない。これはメディアの偏向報道と糾弾されても致し方ない。とはいえ、日本にはEU情勢に詳しい専門家がいない。そこで、稀有な存在であるEU専門家の児玉昌己氏の話は重要なのだ。欧州の国々は、単独では小さい。デンマークなどは福岡県ほどの人口500万の国に過ぎない。こうなれば、国防の観点からも、経済的な安定からしても、欧州が一つの連邦国家としてまとまった方が良い。そこで誕生したのがEUだが、その成立から拡大への過程においては長い歴史がある。ここでは、特に「EU統合の父」と呼ばれたリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー(1894~1972)の存在は大きい。遠い欧州の話と思いたいが、彼の体には母親の青山光子を通じて日本の血が流れている。親近感を感じるのではないだろうか。第一次世界大戦後の平和を希求するための会議の実態については、近衛文麿の『戦後欧米見聞録』に詳しいが、この会議が失敗に帰したのは以後のヒトラー率いるナチスの出現が証明している。その反省を踏まえてのEU登場である。

このEUについては、講師を務めた児玉昌己氏の『欧州統合の政治史』が参考になる。なぜ、昨今、欧州の戦闘機が飛来し、艦船が寄港するのかも含めて、欧州と日本との関係について観察していかねばならない。

「議会の中の懲りない面々」

大東亜戦争(太平洋戦争)後、強くなったのは「女と靴下」と言われた。大学は男女共学が増え、忖度ナシに社会にモノ申す女性が増えたからだ。靴下はナイロンという強い化学繊維が普及したことによる。世相の変遷の記録集では笑い話として取り上げてあるが、ウーマン・リブを経て男女共同参画となり、女性の管理職の定数化など、改善に向けて忙しい。大学のOB会でも「レディース・クラブ」という女子会組織があったが、昨今の事情に合わせて廃止となった。もはや、大学における女子学生が特別な存在でも何でもなくなったことが背景にある。看板の付け替えはないが、女子短大でも男子学生の入学を認めている時代だ。

そんな中、今夏(令和5年、2023年)、自民党の女性局長が視察と称し、フランスのパリに出かけた。パリの観光名所であるエッフェル塔の前でポーズを決め、その写真がインターネットのSNSで公開された。直ちに、値上げ、値上げで生活が苦しい庶民から批判が殺到した。女性局長に同伴していた元アイドルの集票マシン議員にも飛び火した。

ここで不思議なのは、いまだ自民党内に「女性局」という部門があることだ。社会に向けて男女共同参画という制度改革を求めながら、自組織には旧態依然とした「女性局」が存在している。参考までに自民党のHPを閲覧すると、男性議員もメンバーに加わっている。実に不思議な現象だ。女性議員のためのポスト確保のためなのかと訝りたくなる。

このエッフェル塔での写真から派生した当該女性局長の辞任騒ぎだが、この際、辞任というよりも女性局を解散した方が手っ取り早かったのではないか。後任の女性局長が誰なのか、関心もないが、いずれ、同じ轍を踏むのではと懸念する。

そんな騒ぎのなか、自民党の某女性議員が、私的に首相官邸を利用していたという。首相の子息が私的利用をして騒ぎになった直後の事というから、開いた口がふさがらない。政権与党時代の旧民主党の女性閣僚も、私的な写真撮影に使用してバッシングされていたが。

『塀の中の懲りない面々』という実話が話題作となったが、まさに「議会の中の懲りない面々」が多すぎる。

150年前、徳川幕府が崩壊したが、あれは外圧というより膨張して動きのとれなくなった組織が原因だった。その幕府倒壊を予言した勝海舟も「民を親しみ、その実情に適応する政治をしく」ことが為政者だと主張する。民の暮らし向きに心を致さぬ「議会」の方々、明日はわが身として「歴史に学んで」欲しい。

書評の読み方ついて

新聞や週刊誌、月刊誌などには新刊図書の紹介記事が掲載されている。これを一般に書評というが、この書評についての定義は曖昧だった。しかし、現在、「書評」としてインターネットで検索すると「新刊書などの内容を読者に紹介する目的で論評、批評、感想などを記す文章。文芸評論の一形式」と出てくる。従来、多くの方は感想文も書評も同一のものと思っていた。しかし、感想文は私的な印象を記録したもの、書評は他者に対して紹介する評論という定義が確率したことになる。

この書評だが、紹介する媒体(新聞、週刊誌、月刊誌、インターネット)によって文字数が制限される。新聞であれば400字から800字、月刊誌であれば800字から1200字などである。平均して、800字以内にまとめたものが多い。長ければ良いというものではなく、簡潔に要点をまとめることが求められる。
また、媒体ごとの特性、評者による特徴があるので、同一図書であっても評者の視点の差異が生じる。

ただ、近年の問題は書評が掲載される媒体が減少傾向にあること。総務省統計局のデータを見てみると、10年ほど前、新聞の購読部数は年間5285万部あった。それが、3300万部(令和3年)へと30%以上の減少となっている。雑誌も2734冊(令和元年)から2536冊(令和3年)と減少している。それだけ、書評を紹介する機会が減少傾向にある。翻って、新刊書籍は年間71903冊(令和元年)であったものが69052冊(令和3年)と減少はしているが、大幅減ではない。この新刊書籍だが、毎月6000冊、毎日200冊ほどが世に出ている。すべてを読破しようにも、無理というもの。そこで、多忙な方は、新聞各紙の書評欄を読むことで読書の代わりとする。しかし、その新聞発行部数が減少したことで、インターネット書店での星の数、他者の評価を基準に選択する方が増えた。

ところが、インターネット書店の場合、膨大な図書を読み込んできた松岡正剛氏のような方の書評だけではない。星の数が多い、好評の書き込みが多いということだけで選択するのは問題。グルメ情報と同じく、他人の舌は自身の舌とは別物であることを知っておかなければならない。

書評は、書評者が一冊の本をいかにまとめているか、いかに著者の主張を引き出すことができたか、著者も編集者も気づいていない点を指摘できたか、を読むことにある。インターネットでは知り得ない情報が新刊書には潜んでいるが、そのことを前提にすれば、書評の果たす役割、読み方は幾通りもあるということになる。

また、論文の要点をまとめることに有益ということで、学生に書評を書くことを推奨している大学教員もいることを付け加えておきたい。

 

殿様・黒田長溥(福岡藩第11代藩主)の功績とは

幕末の福岡藩主であった黒田長溥(くろだながひろ、文化8~明治20、1811~1887)の功績を振り返ってみた。福岡藩の第11代藩主として薩摩島津家から養嗣子として黒田家を嗣ぐ。慶応元年の「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で勤皇派を大々的に処分したことから、地元福岡での人気は芳しくない。しかし、人物は正面から、背後から、側面から、斜めからと、多角的に見なければわからない。そこで、黒田長溥の功績とは何かを考えてみた。

 

1.  海外に留学生を送り、日本の近代化を促進した
2.  幕府が長崎海軍伝習所を開くと多くの有望な藩士を送る
3.  福岡藩精錬所を設け、近代的な科学の導入を図った
4.  種痘を実施し、領内の子供の生命を救った
5.  第一次征長を回避するように斡旋しta
6.幕臣の勝海舟の蘭学教育に家臣の永井青崖を宛てた
7.  ジーボルトと親交を結び、医学の近代化を促進した
8.  医学校・賛成館を開設し、西洋医学を普及させた
9.西南戦争では、政府の特使として鹿児島に赴く
10. 黒田家の資産を基本財産として黒田奨学会を興す

海外に送り出した留学生は分かっているだけで10名以上。その中には、明治37年(1904)に始まった日露戦争で、アメリカ世論を日本支持に転換させた金子堅太郎がいる。ハーバード大学留学経験のある金子は同窓のアメリカ大統領ルーズベルトに日本の正義を訴えた。ルーズベルトは、金子の演説会を開催する。さらには、講和の仲介をする。黒田長溥は明治20年に亡くなっているので、金子の大健闘など知る由もない。

今も、黒田長溥が設けた「黒田奨学会」は前途有望な若者に奨学金を支給している。人物の評価が分かるのは100年後といわれる。功績、失敗を並列に示すことで、後世に伝えなければと考えるが、黒田長溥の人物評は勝海舟の『氷川清話』と金子堅太郎が編纂した評伝くらいしかない。

全般的に黒田長溥の功績を振り返って、私的には、人の生命を救ったこと、後世に有用な人材を育成したことが大きな評価になると考えている。

「浪曲中興の地・博多」

福岡・博多は「浪曲中興の地」といわれる。それは稀代の浪曲師・東中軒雲右衛門(1873~1916)が玄洋社、玄洋社系新聞社の支援を受け大成功を納めたことによる。この成功を受け、東京公演、歌舞伎座公演を行ったことで浪曲の格式を大きく向上させたという。

そこで、浪曲中興の地で浪曲を再びという試みが始まった。令和5年(2023)7月1日(土)、博多祇園山笠で賑わう櫛田神社(福岡市博多区)近くの龍宮寺に出かけた。ちなみに、龍宮寺という寺の名前の由来は、人魚伝説にちなんだ寺名で、仏さまと並んで本堂の左右に妖艶な人魚の額が嵌まっている。

「浪曲の夏」と題した公演だが、演者は国本はる乃、曲師(三味線)は広沢美舟である。午後2時開演だったが、熱心な浪曲ファンが本堂を埋めた。ご老人が多いのではと思ったが、案に反して年齢層は相当にハードルが下がっている。第一、演者の「国本はる乃」じたいが27歳であり、女性浪曲師。曲師の広沢美舟も若い。浪曲イコール、渋い。というのは、古いのだ。

演目は3席だったが、最初は水戸黄門漫遊記。会場の笑いをとりながらの語りは、聞くものを飽きさせない。言葉遊びが実に巧妙にして面白い。

「山より大きなシシはいない」「海より大きなクジラはいない」「富士につまづく人はいない」など、テンポの良い言葉に太棹の三味線、曲師の合いの手が演者を盛り上げる。気づけば30分。ハッピーエンドで終わった。

浪曲といえば、清水の次郎長、国定忠治などの話が定番。そこで、国定忠治の語りも演じるが、「弱きを助け強きをくじく」任侠モノ。ただ、時代が異なるのか、言葉、ストーリーの展開が、今一つだった。

休憩後の3席目は「子別れ峠」という、互いに親子であると名乗れない「お涙ちょうだい」の話。主催者は、この人情噺が押しという。芸歴18年の「国本はる乃」の声量、声の調子は、情感を際立たせる。

浪曲は、明治時代、娯楽でありながら、読み書きのできない庶民に対し、道徳教育、倫理教育を行うものだった。勧善懲悪、義理人情、親子の情愛などを聞かせるのが浪曲だ。「(こどもを)育てたが親」など、言葉の力がセリフに織り込んである。庶民にとっての耳学問が浪曲だが、これを自由民権運動に使ったのが革命浪人の異名をとる宮崎滔天だった。東中軒雲右衛門に弟子入りし、東中軒牛右衛門と名乗って高座を務めたのは滔天の『三十三年の夢』に詳しい。

東中軒雲右衛門が玄洋社の支援を受けて大成功を収めることができたのは、革命浪人・宮崎滔天が玄洋社の末永節らと親しかったからだが、その縁で雲右衛門も名を遺せた。そう考えると、やはり、福岡・博多の地は「浪曲中興の地」と呼べるのだ。

「中国の政治・行政から見る日中関係」の講演を聴いて

令和5年(2023)6月30日(金)、久留米大学福岡サテライトで行われた久留米大学講師・橋本誠浩(はしもと・ともひろ)氏の講演を聴いた。氏は今春、東北大学から久留米大学(福岡県久留米市)に着任されたばかり。橋本氏の師である阿南友亮東北大学教授が現代中国の専門家だけに、橋本氏の話に関心があった。

まず、マスコミは日本と中国(中華人民共和国)との関係は険悪であると報じる。さらに、日本の最大の友好国であるアメリカも、中国批判を繰り返す。アメリカに従属する日本としても、アメリカに歩調を合わせているかのように見えるが、そうではないと橋本氏は語る。反日デモ、日本人の拘束、尖閣諸島での海上保安庁の警備艇への衝突事件、首相の靖国神社参拝など、事実を列挙しながら当時と現在の日中関係の比較を述べる。ここで、結論的に述べられたのは、中国の国内政治の要因によって日中関係は変動するということだった。

更に、1989年の「天安門事件」こと「第二次天安門事件」の後、民主化運動を弾圧する中国共産党を世界はバッシングしたが、日本は逆に中国との経済活動を進化させた。これに対し、日本の世論は日本政府の中国に対する媚中政策と揶揄した。しかしながら、実態は、日本とアメリカとの貿易対立から、日本の政財界が存立をかけて、中国に進出したからという。要は、日米関係(貿易)の悪化が招いた結果が中国との経済進出にあるという。そう考えれば、アメリカの自己中心的な対応が、日本を窮地に追い込み、逆に日本を救ったのが中国だったということになる。日米関係(貿易)によっても、日中関係は変動するということにもなる。

現在、日中関係においての懸念事項は尖閣諸島、台湾問題に焦点が集中する。27兆円という軍事予算は、日本の軍事予算をはるかに上回るものだ。しかし、この軍事予算、軍備増強は対外的というよりも中国国内の治安維持費であるという。中国国内での反日デモといいながら、実態はどうなのか。反日を演出しながら、共産党政府に対する反発を表明しているという。ある意味、中国国内の複雑な感情のガス抜きに反日を看板にしている感がある。これは、韓国にも同じことが言える。

アメリカには中国通を自認する大学教授がいる。この大学教授がコンサルタント会社を経営していて、自国アメリカの安全保障など関係なく、個人の利得のために背後で暗躍している。この歪んだ構図が理解できずに、メディアは上っ面の情報を流しているだけということになる。日本人は、「日中関係」として日本と中国との関係だけで物事を見るが、視点を広げてアメリカ、ロシアなども含め日中関係を論じなければならない。橋本氏が述べる複眼的な日中関係の見方は、実に興味深いものだった。

橋本氏の師である阿南友亮教授の著作をも参考に、日本と中国との関係を見ていきたいと思った。

ドキュメンタリー映画「ハマのドン」

「ハマのドン」というドキュメンタリー映画を観た。残像が執筆の邪魔をするので、めったに映画鑑賞をすることはない。しかし、複数の方から勧められたので劇場に足を運んだ。

主人公は藤木幸夫という横浜港の港湾荷役を請け負う企業の会長。実父の代からの家業である。輸出入によって国を潤す日本にとって、港湾荷役は日本の生命線ともいえる仕事だ。その生命線ともいえる横浜港にカジノを招致しようと政府は画策した。その政府に対し、カジノ反対の声を挙げたのが藤木幸夫だった。

カジノ招致、いわゆるIR法案は政府自民党による景気対策として進められた。横浜への投資額は1兆円だった。訪日外国人を集客し、地場に雇用を増やし、税収を挙げれば、少子高齢社会における社会保障費を賄うことができる。しかし、このIRことカジノは大きな落とし穴がある。コロナ禍で経験済みだが、外国人どころか日本人も動けなくなれば、増収増益どころの話ではない。日本人ギャンブル依存症による家庭崩壊は免れない。借金を抱えた家庭が増えると地域社会の安定は維持できない。更に、採算が合わないとみるや、投資をした外資系カジノ企業は早々に撤退する。その後は、見事なスラム街が誕生するのみである。

このIRことカジノを横浜に設けるため、横浜市長の林文子、横浜市議会は官邸の指示に従い、カジノ反対という住民投票すら無視した。民意は、まったく考慮せず、政府の独裁が進められた。これに「待った!」をかけたのが、横浜港のドンこと、古参の自民党員でもある藤木幸夫だった。歴代の首相、閣僚、現職の議員すら、その影響下に置いた実力者だ。2020年当時、総理の座にあった菅首相も藤木幸夫の後ろ盾で国政に駒を進めた一人だ。その菅首相が、自身の育ての親ともいうべき藤木幸夫からケンカを売られたのだ。その決戦場が横浜市長選挙だった。官邸主導の市長選挙に対しカジノ反対の市民グループが対抗した。結果、藤木幸夫が主導する市民グループが勝利し、藤木の予言通り、菅首相は在任1年で政権の座から転げ落ちた。そして、現在の岸田首相となったのは記憶に新しい。

港湾荷役といえば、山口組、住吉会という暴力団組織との関係は避けて通れない。その事を藤木は隠し立てすることもなく、堂々と公表する。視聴者は、この表と裏の社会に精通した藤木幸夫の存在に戸惑うだろう。しかし、筆者はこのドキュメンタリーを鑑賞しながら、火野葦平が著した私小説『花と龍』を思い出していた。若松港を舞台に、港湾労働者の闘争の様を描いた小説だが、ハマのドンこと藤木幸夫の姿が重なってしかたなかった。蛇足ながら、あのアフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲の叔父が火野葦平だ。

放映後、パンフレット、新刊の『ハマのドン』を購入した。ドキュメンタリー映像だけでは不足しがちな情報を吸収し、さらに、核心に触れる問題点を探ってみたいと考えている。

「週刊誌はアナログとデジタルを仲介できるか・・・」

平成19年(2007)にスマホが登場したことで、日本人のライフスタイルは変化した。ショルダー型の携帯電話からガラケーと呼ばれる二つ折りを経て、小型のノートPC然としたスマホに移行した。このことで大きな変化の波に翻弄されたのが新聞だった。「1日限りのベストセラー」と呼ばれた新聞も、瞬間的にニュースを読むことができるスマホにはかなわない。さらに、捨てるのが面倒ということで、新聞購読が減少した。

スマホによって便利になった反面、人間は考えなくなった。更には、考えなくなったことから脳みそが縮んでいるとまでいわれる。脳というもの、使わなければ、退化する。スマホに依存したことで思考能力が低下しているという研究結果までが報告される。さりとて、アナログの新聞購読に早急に回帰できるとは思えない。現代の新聞は、回覧板であり、論説記事も内容が軽いからだ。

なぜ、新聞の記事内容が軽くなったのか。これは、新聞記者を育成していないからだが、現在、編集者の平均年齢は50歳前後。入社したのが平成時代(1989年~2019年)の人が多い。この平成の時代は、内部統制(経費の削減)を強化することで企業収益を確保してきた時代だった。故に、教育や設備投資に資金を投じることを惜しみ、企業存続を優先してきた。結果、問題提起、長期連載を書ける記者が不在。論説とは程遠い文章が紙面を埋める形となった。そこで、読者は代替手段としてスマを選択し、広範囲の情報や知識を得ようとしたのだ。

新聞社も紙媒体よりもスマホに移行し、スマホでの記事広告で収益性を図るようになった。メディアは大々的に報じないが、スマホ依存症の病院があり、受診待機者は多いという。いわゆるパチンコ依存症にも似た人々が蔓延しているということだ。この事実こそ新聞が問題提起しなければならない現実なのだが、肝心の新聞自体が思考麻痺に陥っている。

このスマホ依存症については、警鐘を鳴らし続けるしかないが、意外な媒体が週刊誌ではないかと考える。人間の思考速度は早々に改善できない。週刊誌も廃刊に追い込まれる時代だが、アナログ的思考を回復する手段として週刊誌が狙い目なのではとみている。

「幕末史における水戸学、国学の隆盛から」

幕末史において、水戸学が全国の志士に広まった。これは、水戸藩の水戸光圀(1628~1701)が中国の司馬遷(紀元前145年頃生、前漢時代の歴史家)の『史記』に倣って『大日本史』の編纂事業を始めたことに起源がある。日本各地に残る歴史書を取り寄せ、日本の歴史を編纂したもの。この編纂事業の最中、大陸では清(満洲族)が明(漢民族)を倒したことから朱舜水(1600~82)という明の儒学者が日本(長崎)に亡命。水戸光圀はこの朱舜水を招聘し、編纂事業にあたらせた。これが学問としての「水戸学」(天保学とも)の源流となり、『大日本史』は「倫理道徳の書」と見られる。「歴史の事実をありのままに述べれば勧善懲悪の意義は自ずから現れ。政治が興隆しているか否かは歴史を直視すれば火を見るより明らかだ」とする。

この時、朱舜水が絶賛したのが南朝(後醍醐天皇を祖)の忠臣・楠木正成(1294~1336)だった。この楠木正成を絶賛する漢詩が広まり、志士たちのナショナリズムが高まる。そこに膨大な量の『大日本史』を読み込んだ頼山陽(漢詩人、1781~1832)が『日本外史』としてダイジェスト版を編纂し、ベストセラーになった。ここから、幕府の封建的身分制度を倒し、天皇親政、一君万民の国に変革しなければとの考えが強まる。特に、嘉永6年(1853)のペリー来航は刺激となった。

幕末、貨幣経済が浸透していった社会において、商人階級は潤沢な資金力を保持していた。貧困に喘ぐ武士階級の株(石高という配当)を買い、武士となった。代表的な人に勝海舟(1823~99)、榎本武揚(1836~1908)などがいる。

儒学、水戸学とも相まって、日本の万葉集などを極めることで日本人としての感性から日本の在り方を説く人が増えた。一般に国学といわれるものだが、代表的な志士に平野國臣(1828~64)がいる。幕末の世相から国学の影響を知るには島崎藤村(1872~1943)の『夜明け前』が参考になる。

蛇足ながら、仏教は封建的身分制度の江戸時代、「五人組」と呼ばれるように体制側に組み込まれていた。「若党」と呼ばれる武士階級で継ぐ家を持たない者を収容する機関でもあった。この影響もあり、思想というよりも制度の上から明治期の廃仏毀釈運動の標的になった。

明治期、敗者となった旧幕府側に新しい反体制意識としてキリスト教が勃興した。さらに、大正、昭和になると貧窮問題の解決として社会主義の考えが広まった。

そして、昭和20年(1945)8月以降、「民主主義」という新しい西洋の手法が導入され、日本の古くからの慣習と摩擦を起こしながら現代に至っている。

「幕末史の思想の変遷について」

孔子(紀元前552頃の生まれ)は儒家(儒学)の代表として語られる。この儒家のほか、法家、道家など、様々な思想形態が中国にはあった。「百家争鳴」とは、様々な思想家が自身の考えを戦わせたことから誕生した言葉。


しかし、中国の皇帝は儒家のみを国の教えとし、他の思想家は抹殺してしまった。「歴史は勝者によって作られる。思想は為政者によって焚書される」の言葉通り。後に、この儒家の思想も朱子(1130年頃の生まれ、朱熹とも)による朱子学(宋学とも)という一派が形成される。この朱子学の基本は「親と子」「君と臣」の関係など、秩序の在り方を重要視し、忠節を重んじる。これは、支配者と被支配者の関係からいえば、支配者にとって都合の良い考えだった。ここで、徳川幕府は封建的身分制度(門閥制度)の維持のために朱子学を尊重した。

翻って、幕末に下級武士に尊重されたのが陽明学だった。これは王陽明(1472年頃の生まれ)が説いた考えだが、代表的な言葉として「知行合一」がある。知識や物事の理屈を理解した以上、行動に移さなければならないとする。このことは、江戸時代末期、弛緩した封建的身分制度を変革させる思想でもあった。故に、陽明学は「革命の思想」とも呼ばれた。

 

・朱子学=保守=仁(愛)と対立

・陽明学=革新=仁(愛)を尊重

 

江戸時代末期、高杉晋作が上海に行って漢文の聖書を読んだ際、「これは、陽明学ではないか!」と言ったのは有名な話。聖書の「愛」と陽明学の「仁」が同じだったからだ。

ちなみに、中国古典において、民衆のことを「牧民」と表現する。家畜と同じ民衆を統治する愚民政治は聖人のやり方であると教えていたからだ。このことは「知は両刃の剣」と呼ばれていたことにつながる。民衆の各人が賢くなりすぎると、国が治まらなくなるからだ。

中国には「墨子」という考えもあるが、これは「兼愛思想」と言われ、キリスト登場以前にあった考え。ロシアのトルストイは「キリストの出現によって墨子の考えを広めることができた」とまで言い切った。

更に「韓非子」という思想もあり、これは儒学の性善説に対し性悪説を基本にしている。ゆえに、法の規制によって民衆を統治しなければならないともいう。加えて、経世済民という観点から、計画経済、実学に近い考えをも示す。大久保利通は中央集権、富国強兵の策として「韓非子」をテキストにしたともいわれる。

「移民キャラバンの現状から」

移民国家アメリカは、かつてイギリスの植民地だった。1775年~1778年にかけ、アメリカはイギリスと戦い、独立を勝ち取った。そんな建国の歴史を持つアメリカに、中南米のニカラグアからアメリカに移民が押し寄せている。平成30年(2018)11月、中南米の人々が「移民キャラバン」と称してアメリカを目指したが、トランプ大統領(当時)は軍隊を国境に派遣し不法移民の入国を阻止した。しかし、大統領選挙でトランプ氏は敗北。2021年(令和3)からはバイデン氏が大統領となった。この「移民キャラバン」だが、現在、国境を越えた不法入国者は2022年10月だけでも23万人を超えたという。それでも、政情不安のニカラグアからは、いまだ続々とアメリカ国境を目指す人の列が続き、国境には移民キャンプが設けられたという。

ここで考えなければならないのはアメリカ移住後の移民の言語の問題。ところが、現在、アメリカにおいては、英語よりもスペイン語の方が通りが良い。アメリカと国境を接するメキシコもスペイン語圏。ニカラグアもスペイン語圏。故に、ニカラグアからの移民がアメリカに入国しても生活には困らない。このアメリカ社会に通用するスペイン語については、青山南氏の『60歳からの外国語修行』に詳しい。青山南氏はアメリカ映画吹き替えの翻訳者だったが、近年のアメリカ映画で翻訳できない単語が多々あるのを不思議に思い調べてみるとスペイン語であることに気付いた。となれば、将来、アメリカでの生活にスペイン語は不可欠ということになる。もしくは、英語圏とスペイン語圏がアメリカに誕生するかもしれない。この状況を見ながら、かつて、アメリカに無用な戦争を仕掛けられ、アメリカ大陸から撤退しなければならなかったスペインの怨念、復讐なのかと訝る。

「歴史は繰り返す」というが、将来、スペイン語圏を形成したニカラグアからの移民二世、三世が独立を求めての戦争に発展する可能性も否定できない。武力で他国を制圧し、「世界の警察官」を自任したアメリカだが、どれほど外に向けての軍事力を強化しようとも、数世紀後には内部崩壊することを理解しているだろうか。

尚、ニカラグアからの移民だけではなく、メキシコからは不法薬物が大量にアメリカ国内に流入している。その原料は中国産といわれるが、ウクライナを支援するアメリカに対し、ロシアを支援する中国の武器援助ならぬ薬物支援にも見えて仕方ない。

「異文化交流という社会不安」

明治時代の初め、3000万人ほどであった日本の人口も、いまや1憶2000万人を超えるまでになった。その日本において問題とされるのが労働力不足による外国人労働者の流入である。企業実習生、研修生、語学留学生などと称し、実質、低賃金による外国人労働者を日本は使役している。この外国人労働者受け入れを促進する目的から、「異文化交流」を促し、地域社会を豊かにしようと説く人もいる。多様性を受容できる社会を構築しようとの意見だ。ただ、安易に外国人労働者を受け入れて良いのか、疑問を抱く。新型コロナ蔓延により、多国間の移動が困難になったことを踏まえ、多方面からの検証が必要と考える。

外国人労働者受け入れを歴史から考えれば、アメリカ大陸での黒人奴隷を想起する。綿の需要拡大から北米大陸での綿花栽培となり、その労働力としてアフリカから奴隷が連れてこられた。紅茶とともに砂糖の需要が拡大し、カリブ海ではサトウキビ栽培が盛んになった。ここでもアフリカ人、中南米の原住民が奴隷として酷使された。アジア、アフリカは数世紀にわたって欧米の植民地支配を受けた。

しかし、現代、欧米の植民地支配から独立したとしても、現金を稼ぐためとして旧植民地では商品作物を栽培し、輸出に回さなければ国も人も成り立たないのが現実。そこで、外国人労働者を必要とする日本に、アジア、アフリカ諸国から実習生、研修生として送り込む。需要と供給の関係があるからだが、うがった見方をすれば、外国人労働者を輸出産品として見ているのではないだろうか。かつて、ベトナム戦争時、韓国が自国の若者を傭兵として戦場に送り出した。明治時代の日本でも、増え続ける人口のはけ口として移民政策を導入。ハワイ、アメリカ西海岸、中南米に開拓民として送り出したのだが、実態は低賃金での労働力の提供だった。

第二次世界大戦後、西ドイツは労働力不足に陥った。労働力となる多くの男性が戦死していたからだ。そこで、トルコからの移民を受け入れた。第二次世界大戦末期、トルコはドイツに宣戦布告をしなかった。その事から西ドイツは友好国トルコとして移民を自国民と同じ待遇で迎えた。この延長線上に統一ドイツの難民受け入れがあったが、それも今は、メルケル前首相の失政として批判されている。

異文化交流として、日本は外国人の受け入れを積極的にと主張する一方、自国の移民の歴史、世界の労働力の受け入れなどの検証がなされた風はない。日本の手厚い社会保障だけが目当てで来日する外国人労働者もどきもいる。かつてのナチス・ドイツの台頭は、第一世界大戦での連合国の戦後処理のまずさに加え、経済格差、外国人問題から社会不安を招いた結果だった。「多様性ってやつは喧嘩や衝突が絶えない」(ブレイディ・みか子)と考えれば、安易に「異文化交流」を掲げ、外国人労働者を受け入れるのは、発想が安易過ぎではないか。

「困惑する日本とドイツ」

令和4年(2022)12月21日、ウクライナ(旧ソ連邦)のゼレンスキー大統領が、電撃的にアメリカを訪れた。アメリカ議会で、長期化するロシア(旧ソ連)との紛争解決の支援を訴えた。この動きと並行するように、日本では軍事費増強を岸田首相が表明。「ふるさと納税」と同
じく、「防衛納税」を実施してはとの意見も出る始末。

この一連の動きの中、自衛隊の在り方を検証するマスコミの記事が目立つ。その一つとして、平成2年(1990)8月に起きたイラク軍のクウェート侵攻が引き合いに出された。翌年には多国籍軍が編成され、クウェートを支援する、いわゆる湾岸戦争が始まった。この時、憲法上の規制から日本としては自衛隊を多国籍軍に送ることはできず、130億ドル(1兆5500億円)の戦費のうち90億ドルを負担することで決着した。しかし、カネは出しても実働部隊は出さないのかというアメリカ誘導の批判もあり、日本は海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾に派遣した。イラク軍がペルシャ湾に敷設した機雷を除去することで、国際貢献としたのだった。

ここで考えなければならないのは、かつての同盟国であったドイツの動きだ。ドイツは日本と同じく、敗戦後には徹底した洗脳工作が行われ、軍事行動を敬遠する世論が形成されていた。しかし、東西ドイツ統合後、ドイツはNATOの一員として後方支援にドイツ軍派遣を求められるようになった。今、日本のマスコミは日本の自衛隊の在り方についてのみ報道する。しかしながら、ドイツがNATOにおいて、どのような派兵要請を受けたのかなど、比較対象、検証などを報じるべきだ。そこに、新たな対応策が見いだせる可能性があるからだ。敗戦後、連合国軍によってドイツも日本も「侵略」国家であるという刷り込みがなされた。マスコミが伝える従前の歴史観を修正しなければならない結果があるとしても、ドイツの現状は伝えられなければならない。

国連(連合国軍)の中枢を占める米中ソ(ロシア)という大国の都合で、自国の国防が都合よく変更されても困惑する。国連の敵国条項に記載される日本とドイツだが、国連が要請する派兵であれば、まず、国連の敵国条項削除が大前提であることを要求しなければならない。この点も含め、マスコミはドイツの国情を報道する責任がある。

ちなみに、ペルシャ湾の機雷掃海のために派遣された海上自衛隊・掃海部隊の司令は落合畯氏だ。実父は、大東亜戦争末期、沖縄戦で自決した大田実海軍中将(陸戦隊指揮官)である。

「周囲の支えがあって、自分の道を切り開くことができた伊藤野枝」

令和4年(2022)、NHKのテレビ番組「風よあらしよ」で伊藤野枝(1895~1923)が取り上げられた。野枝は今宿(福岡市西区今宿)に生まれ、女性の進学率の低い時代に東京の上野高等学校を卒業。親の決めた結婚に一度は承諾したものの出奔。平塚雷鳥が創刊した文芸誌「青鞜」の編集長を引き受けた。その遍歴については種々、エピソードとともに語られる女性だ。極めつけは、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災において、憲兵隊の甘粕正彦によって大杉栄、橘宗一と共に扼殺されたことだ。危険思想の無政府主義者として日常的に特高警察の尾行を受ける要注意人物でもあったのだが。

研究者は野枝が教育を受け、文芸誌の編集長となり、自分で自分の人生を切り開いたと語る。従前、瀬戸内寂聴の小説『美は乱調にあり』が基本にあるからだろうが、フィクションが事実となって独り歩きしている感がする。伊藤野枝の生涯については、野枝の叔母の配偶者である代準介の存在抜きには語れない。野枝と代準介との関係については『伊藤野枝と代準介』(矢野寛治著)に詳しい。貧乏な家に生まれた野枝だったが、代準介の全面的な支援を受け、上野高等女学校を卒業することができた。更に、文芸誌「青鞜」の編集長を引き受けたものの、資金繰りに行き詰まり、しばしば代準介の資金援助を受けたようだ。あげくに内縁の夫である大杉栄の資金繰り(手切れ金か)を代準介の親族である頭山満に依頼する。いわゆる極左と呼ばれる無政府主義者の大杉栄と「右翼の源流」と呼ばれる玄洋社の頭山満とが親しい関係にあったのだ。この資金調達については、大杉栄の『自叙伝・日本脱出記』(岩波文庫257ページ)にも記されている。結局、大杉への資金は頭山の盟友である玄洋社の杉山茂丸を介して後藤新平(内務大臣)から提供された。野枝の才能を惜しむ周囲の人々の支援があっての伊藤野枝、大杉栄であった。

この伊藤、大杉と玄洋社との関係については、拙著『玄洋社とは何者か』の刊行記念講演会の際、自称無政府主義者の方から「玄洋社には大杉、伊藤がお世話になりました」と挨拶されたことを補足しておきたい。

尚、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓碑は、福岡市西区今宿の知る人ぞ知る場所にある。

 

「マッカーサーが警告していた中国の軍事膨張」

昭和25年(1950)6月、北朝鮮軍が38度線を超え、韓国への軍事侵略を開始した。いわゆる「朝鮮戦争」である。一時は朝鮮半島南端にまで追い詰められたアメリカ軍だったが、マッカーサーによる仁川上陸作戦の成功で、見事に反転攻勢となった。しかし、翌年の4月、マッカーサーはアメリカ大統領トルーマンによって連合国軍最高司令官の職務を解任された。作戦遂行における意見の対立からと言われる。

 そのマッカーサーは、1951年(昭和26)4月19日、退任にあたってアメリカ議会で演説を行った。「老兵は死なず、ただ、去るのみ」という有名な言葉を遺した演説である。この演説の内容を精読すると、日本を含むアジアへの人種差別発言を除いてだが、その先見性は傾聴に値する。現在の中国(中華人民共和国)による軍事的膨張、海洋進出について警告しているからだ。中国は、共産主義を掲げてはいるものの、帝国主義的な好戦性を高めており、領土拡張と力の増大を渇望しているとマッカーサーは指摘した。その萌芽は張作霖の民族主義的行動に始まり、朝鮮戦争での中国の北朝鮮軍への積極的介に証明されている。

 マッカーサーは、朝鮮戦争を中途半端な状態で終結させることは、将来に禍根を残すと言っていた。現実問題として、そのマッカーサーが主張していた通りになっている。トルーマン大統領は、なぜ、マッカーサーを解任したのだろうか。前任の大統領であるルーズベルト政権の大統領府はコミンテルン・スパイ等によって牛耳られていた。トルーマン大統領も、コミンテルン・スパイの残党によって操られていたのだろうか。ここは、アメリカの公文書などの洗い直しをしなければ、分からない。マッカーサーの退任演説の一文が内包する疑問は大きい。

 ちなみに、昭和20年(1945)8月、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)が終結した。日本の本土には平時の生活が戻って来た。しかしながら、朝鮮半島に近い現在の福岡市、北九州市の一帯では朝鮮戦争での「空襲警報」が鳴った。戦争は、ある日突然、海の向こうからやって来るということも知っておかねばならない。

 

「罪は検事とマスコミによって作られる 村木厚子さんの講演を聞いて」

令和4年(2022)12月3日、福岡アクロス(福岡市中央区天神)で村木厚子氏の講演を聞いた。村木氏といえば、平成21年(2009)の「障害者郵便制度悪用事件」で誤認逮捕され、164日間、大阪拘置所に収監された。その後の裁判で無罪を勝ち取り、厚生労働省に復職、平成25年(2013)には厚生労働事務次官に就任した。現在は津田塾大学客員教授の肩書を持ちつつ、若い女性、障害者を支援する活動をしている。新聞紙面の連載で当時の状況は知っていたが、やはり、直接に話を聞いた事で村木氏が何に気づいたかが窺えてよかった。

 この「郵便不正事件」は障害者団体に適用される郵便料金割引制度を悪用し、およそ100億円に上る資金を搾取した事件だ。障害者団体を認定する申請書を詳しく調べずに、村木氏の部下が認定承認を出したことが始まりだった。さらに、この似非障害者団体を隠れ蓑に、企業などが通信販売などのダイレクトメールに利用したのだった。その不正金額が莫大であったため、村木氏が政治家と癒着し、村木氏が部下に指示していたと検察は筋書きを書いた。検察の不正を糺し、無罪を勝ち取るまでの過程はすでに著作も出ており、検察官自身が罪に問われるというオマケまでが発生した。

 村木氏は講演では拘置所での話をされた。マスコミがストーリー通りの言葉を引き出そうと仕掛け、演出するという。しかし、ベテラン弁護士の側面からの支援、支援者の励ましに、検察との矛盾、マスコミの演出に戦い抜こうと決意したとのことだった。

 村木氏は講演の最後に、パワーポイントで次の4つの言葉を紹介した。

 ・好奇心 ・経験 ・気分転換 ・食べて寝る

 この好奇心というものが、およそ半年弱の拘置所生活を支えたといっても過言ではない。悲嘆にくれるのではなく、「拘置所とはどんな所だろう」と好奇心で観察を続けていた。食事を配膳してくれる若い女性たちが、何の罪に問われているのか。なぜ、年末年始前になると検察官は多忙になるのか。若い女性たちは薬物、売春。年末年始前の検察の多忙は、人並みに年越しソバをすすり、お節料理にありつきたい人が、期日の計算をして意図的に罪を犯すのだという。拘置所、刑務所はそんな行き場のない人で溢れる。

 村木氏には、無実の罪で拘置所に留め置かれたとして、国から3333万円の保障金が支払われた。氏は、これを基金にして格差社会の底辺にいる人々の支援事業を始めた。その背景には、今まで自分が社会を支援している立場と思っていたが、結局、誰もが支え、支えられている関係にある事に気づいた。「誰一人取り残さない」という言葉に欺瞞を抱いていたが、そうではないと確信したからとも。

 手錠を掛けられた話の際は、切実な思いがあったと述べられた。まだまだ、語り切れない思いがあるのだなと思った瞬間だった。

「深く掘り進めない12月4日」

  平成31年(2019)12月4日、アフガニスタンで中村哲医師が銃弾に倒れた。身命を賭してアフガニスタンの人々の生活支援として灌漑工事に尽力された中村哲医師だが、氏の生命を狙ったのは、氏に居てもらっては困る闇のカーテンの向こうにいる輩の仕業だろう。

 この中村哲医師の訃報が日本に届いた時、マスコミはあふれんばかりの氏の業績を絶賛する記事を流した。結果、従来、何ら関心の欠片もなかった日本人が熱狂したのだった。日々、SNS上で日常の出来事を書きこんでいる私のところに、「なぜ、福岡県に住んでいながら、中村哲医師の偉業について書かないのか・・・」という内容のメールが知人からきた。中村哲医師は福岡県の出身。故に、この中村哲氏の訃報をSNSに記述しないのは、どういった神経をしているのか・・・との批判。これに対し、「なぜ、今頃になって、日本全国が中村哲医師について大騒ぎするのか、わからない」と返信した。知人は、「言っている意味がわからない」と返信してきた。

 そこで、「中村哲医師は、杉山龍丸さんの事業を継承しているのであって、中村哲医師を絶賛するのであれば、遡って、杉山龍丸さん、その実父の小説家・夢野久作こと杉山直樹、祖父の杉山茂丸、そして、玄洋社の歴史にまで踏み込むべきだと考えます。」と返した。知人は、初めて聞く名前や「玄洋社」に、ますます分からなくなったようだ。しかし、「調べてみます」として締めくくった。

 本来、マスコミが深く歴史を掘り進んでいけば済む事だが、表象の事実を追うことに忙しい。そのために池上彰氏のような評論家がいるのだが、それもできない。深く掘れば掘るだけ、マスコミでタブー視されている「玄洋社」にぶち当たるからだ。

 ある日、福岡県立図書館を訪ねると、中村哲医師に関する図書コーナーが設けられていた。そこに、火野葦平の『花と龍』が並べてあった。なぜ、任侠映画の原作が中村哲医師と関係するのかといえば、中村哲医師の叔父が火野葦平(本名・玉井勝則)にあたるからだ。図書館司書が、この事実を知っているだけでも救われた。

 12月4日の中村哲医師の命日が近づくと、新聞記事にエピソードが紹介される。しかし、その内容は3年前とさほど変わりない。これでよいのかと、慨嘆する。しかし、少しずつでも、12月4日を深く掘り下げねばと思う。

 

『戒厳令の夜』五木寛之原作、山下耕作監督、夢野京太郎(竹中労)脚本 令和4年10月22日

・幾重にも想像を巡らせる楽しみ

 

五木寛之の代表作といえば、筑豊を舞台にした『青春の門』。その筑豊は福岡県の田川市、飯塚市一帯を指すが、これは旧「筑前の国」「豊前の国」の中間に位置することから「筑豊」と呼ばれる。この筑豊が産出する石炭は川船に積まれ、遠賀川を下り、若松港(北九州市若松区)に運ばれた。現代のように、トラックやパワーショベルという便利な機材は無く、全て肉体労働に頼るしかなかった。地下に眠る石炭を掘り出す者も過酷な環境、重労働に耐え、その石炭を運び出す者も同じだった。更には、常に命の危険に晒された。自然、人というよりも動物に近いことから、いわば生物としての闘争本能をむき出しにする。しかし、そんな人々も、わずかばかりの心を持ち合わせている。それを義理人情というが、加えて、美味い物、美しい物にも心を動かす。厳しい環境、明日をも知れぬ命だけに、人や物事を見極める感覚は人一倍鋭くなる。五木寛之の作品群は、人がもつ、わずかな心の機微を表現するものが多い。

この『戒厳令の夜』も、筑前の博多、豊前の小倉が登場することで、筑豊という町の在り方を表現している。そこに、脚本を書いた夢野京太郎こと竹中労の想像力が加わり、文章世界で想像する情景を更に立体的に色彩的に際立たせていく。登場人物のセリフに玄洋社の頭山満、杉山茂丸を登場させ、さらに杉山茂丸の嫡男である夢野久作(本名杉山直樹)の言葉として「人を殺した人の真心」という戦慄が走る言葉を語らせる。

それでいて、ナチス・ドイツのゲーリングが暴力で蒐集した絵画の謎を解くストーリーが、映像を見る者を飽きさせない。ナチスの残党は中南米の国々に潜んだといわれるが、その中南米との間に筑豊を絡ませることで、日本の闇の権力構造まで炙り出す手法に喝采を贈りたい。これを人間の空想世界と馬鹿にはできない。策を弄する者も、その策に溺れる者も、所詮、人間だからだ。

2時間余の作品ながら、最初に監督だの脚本家だの、俳優らの名前を流すやり方も面白い。若松孝二、崔洋一という監督たちが、早くにその才能の片鱗をこの『戒厳令の夜』に生かしていたことは興味深い。

また、鶴田浩二の存在も重い。一度は特攻兵として命を捨てた人の語る言葉は、セリフとはいえ、実に重い。地球から見れば小さな日本という国だが、九州は実に不思議なクニと言える。日本国の枠にありながら、治外法権的な生き方を好む。鶴田のセリフにあった「外道」は、山の民のサンカのことか・・・などと、知識の総動員を図らねばならない楽しみに溢れた作品だった。

「菊池寂阿公墓」の墓碑から筑前勤皇党の系譜を探る 令和4年3月27日

幕末、どこの藩においても佐幕派(幕府支持)と勤皇派(朝廷支持)との対立があった。筑前福岡藩もその例にもれず、慶応元年(1865)10月25日には、筑前勤皇党(勤王)の領袖・加藤司書(福岡藩家老)が佐幕派との対立の末、切腹となった。

この加藤司書の勤皇思想の系譜について調べていると、長尾正兵衛重威という人物に行き当たる。加藤司書の幼少時の文の師だが、とくに『靖献遺言』(浅見絅斎著)を教えたという。さらに、その長尾正兵衛について調べていくと、長尾の師である吉留杏村(よしとめ・きょうそん)に行き当たった。吉留は福岡藩の儒者でありながら、後醍醐天皇を祖とする南朝支持者である。天保3年(1832)、南朝を支持する菊池氏の子孫である福岡藩士城武平の求めに応じ、菊池武時(菊池氏第12代)の墓碑に刻む「菊池寂阿公墓」の六文字を大書して渡す。

明治10年(1877)の西南戦争後、旧福岡藩士たちは自由民権運動団体の玄洋社を組織。玄洋社は、西郷隆盛(変名は菊池源吾)の精神を引き継ぐと表明していたが、その西郷も、遠祖は菊池氏である。玄洋社の社員たちは、筑前勤皇党の領袖であった加藤司書を崇敬していたが、加藤司書、西郷隆盛、ともに菊池氏に結びつく。真木和泉守保臣(水天宮宮司)が楠木正成(南朝の忠臣)を崇敬していたことも考えると、明治維新は、九州南朝の再興による倒幕運動だったのではと思えてならない。

福岡県護国神社(福岡市中央区)の南側に「菊池霊社」という社がある。これは菊池武時の首塚と伝わる。鳥居と墓碑があるだけなので、多くの方は気づかない。しかし、その墓碑を注意深く見てみると「菊池寂阿公墓」と刻まれている。明治35年(1902)、明治天皇から菊池武時に従一位が贈位されたことから、昭和7年(1932)に墓碑が建立された。

ちなみに、菊池武時の胴体を葬った場所は菊池神社(福岡市城南区七隈)にある。経年劣化で文字が判読しがたいのが難点だが、社の拝殿右手の石碑は城武平に関するものと伝わる。今後も、筑前勤皇党と九州南朝との関係の継続調査が必要と考える次第だ。

菊池霊社(福岡市中央区)の菊池武時公墓

金子堅太郎の師・正木昌陽  令和4年3月30日

明治37年(1904)から始まった日露戦争は、陸海軍の決死の戦もさることながら、日本国の総力をあげての国防戦争だった。その勝因のひとつに、ハーバード大学を卒業した金子堅太郎がアメリカに赴いた功績は大きい。ハーバードでの同窓生であるアメリカ大統領ルーズベルトに面談し、アメリカ世論を日本支持に傾ける協力を要請したのだった。ルーズベルト大統領は、ハーバード大学同窓生に声をかけ、金子堅太郎を講師にしての講演会を各地で開催できるように手配した。金子は、アメリカ留学中からスピーチ、いわゆる演説の特訓を重ねていた。アメリカ世論は、演説によって変わることを知っていたからだ。留学生金子は、積極的に弁論大会に出場し、スピーチの技を競った。その成果は、見事、日露戦争という国家の危急を救うことになった。

しかし、英語のスピーチが上手なだけではなく、重要なのは、その中身。金子の場合、郷里の藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高校)、私塾不狭学舎(正木昌陽の私塾)で早朝から夜ふけまで中国古典を学んだことにある。この藩校、私塾での教師であったのが正木昌陽という人物。号が木鶏であったことから木鶏正木昌陽(もっけい・まさき・しょうよう)と呼ばれる。

今回、その正木昌陽の顕彰碑、墓碑が大圓寺(福岡市中央区唐人町)に遺っているのを見つけた。従来、顕彰碑は西公園(福岡市中央区)にあると言われていただけに、これは意外な発見だった。

以下、その顕彰碑の全文意訳を試みた。この撰文を書いたのは金子堅太郎(注)であり、正木昌陽の門人の中でも出世頭だ。

(注)嘉永6(1853)年2月4日~昭和17(1942)年5月16日、農商務大臣(第3次伊藤内閣)、司法大臣(第4次伊藤内閣)、枢密顧問官、福岡藩士、福岡藩主・黒田長溥の支援でハーバード大学に留学、日露戦争時には渡米し同窓生のルーズベルト大統領に日本支持を訴える

 

「木鶏正木昌陽先生碑」【意訳】

尊敬する正木昌陽先生が、故郷の筑前鳥飼(福岡市中央区)で亡くなられた。先生を慕う多くの門弟たちは相談の上、顕彰碑を建てて先生の遺徳を遺そうと考えた。そこで、遠方に住む私(金子堅太郎)だが、先生の愛顧を受けたのは君だからといって、碑に刻む撰文を書くように勧めてくれた。私は早くから先生の教えを受け、今の地位に就けたのも、先生のお陰である。どうして、撰文を書くことを拒めようか。

謹んで、先生の履歴を調べたことをここに述べる。先生の諱は昌陽。最初は善太夫と名乗った。號は木鶏という。姓は正木。代々黒田家の支藩である直方の東蓮寺藩に仕えていたが、藩主が本藩(福岡藩)の藩主(黒田継高)として後継者になられたことから、之に従い福岡に住居を移した。先生の祖父は昌英といい、後継者たる子供に恵まれなかったことから猪俣逸を養子として後を継がせた。父の諱は重光、母の出自は不明。長男として貢氏が誕生したが、伊勢田家の養嗣子となり、先生は次男ながらも正木家を継いだ。

先生は幼いころから学問を好まれ、藩校に入り、井上周磐、原田北溟に弟子入りして中国古典や歴史を学んだ。嘉永五年(1852)、藩校修猷館(現在の修猷館高校)の助教となり、次いで助役に進まれ、明治三年(1870)には教授となられた。同年、藩主は子弟を選抜され、東京に上京させたが先生はその一人だった。先生は、その才能に応じた学問を続け、その際、芳野金陵、藤野海南、小中村清矩らという秀才たちとの交友があった。明治四年、東京遊学生の学生取締りを命じられ、副督学を務められた。明治五年鳥飼八幡宮の神職を命じられ、明治八年には香椎宮の権禰宜を命じられた。その折、兼務として権中講義に推された。明治十年兼職を辞め、後に香椎宮も辞職された。

正木先生は藩校修猷館で教授の傍ら、家塾(不狭学舎)も開かれた。毎朝、夜が明けると塾で講義を行い、定刻には藩校に出かけられる。夕刻、家に帰られると照明を灯して講義をされ、それは深夜に及んだ。このようなことが、毎日、五十年間続いた。

かつて、不狭学舎を開かれたとき、先生の人望から遠くからも近隣からも、入門を希望する若者であふれた。そのため、学舎を二つも増設する始末だった。その門弟の数は、優に四千人を超え、人物が育ち、その才能は官僚に、民間企業にと、夥しい数の活躍だった。政府や県はたびたび先生を表彰したが、明治三十一年(1898)には藍綬褒章を受けられた。その授賞理由は「真面目に学問を究め、子弟を育成し、七十歳になっても怠る事はない。実に、国民の模範ともいうべきものだ。」であった。

明治三十五年天皇陛下が九州に巡幸された際、先生は特別に天皇陛下との面談が叶った。無位無官の一市民である先生が天皇陛下に謁見が許されるのは、極めて異例のことだ。明治三十八年(1905)、先生は病気になられ、同年年七月十四日、亡くなられた。先生は文政十年(1827)十一月十二日の生まれだから、七十九年の生涯だった。先生は、大圓寺の先祖の墓域に葬られた。

先生の奥様は伊東家から嫁がれた方で、五人の娘さんがいた。長女は伊藤弘毅氏、次女は藤井重雄氏に、三女は關吉太郎氏にそれぞれ嫁ぎ、四女は正木家を継ぎ、五女は上野七郎氏に嫁いだ。

先生は、誠実にして温かみのある人だった。宋の程顥、程頣、閩の朱子の学問を中心に研究され、教育された。いつも、子弟の育成に心を配り、理解できるまで丁寧に教えられる。まさに忠孝の教えに殉じられた方だった。先生は、多くの著作を書かれたわけではない。しかし、何か文章をものにされるときは、その言葉には誠実さが満ち溢れていた。故に、その文章を読んだ人は感動するのだった。

先生の親孝行ぶりは有名だった。いつもご親御さんの側にいて、穏やかに仕えておられた。親御さんが病気で臥せってしまった時、先生は自分で汚物の処理をし、それを家の者に任せることはされなかった。一家はいつも楽しく、春風が吹き抜けるかのように和やかだった。

ある朝、先生が亡くなられたという知らせが届いた。弟子たちは皆、先生が亡くなられてこの後、自分たちは、どうしてよいか、わからないと泣いた。まるで、自身の老親を喪ったかが如くだった。天皇陛下の拝謁を賜り、政府の表彰を受けるのも、当然のことだった。藩主の黒田長知公はかねてから「至孝化群生」の五文字の書をくださっていた。実に、先生の生涯をよく表している。そこで、顕彰碑に次の言葉を刻みたい。

忠経(忠義の道)の教えをタテ糸とし、孝経(孝行の道)の教えをヨコ糸とし、巧みな詩文を織られ、その影響は地域に広く及んだ。

天皇陛下が正木先生を称賛されたことは永遠に語りつがれるだろう。誰か、これほどの栄誉をいただいた者が他にいるだろうか・・・。

ただただ、嘆かわしいばかりだ。

 

明治四十一年 戊申十二月 枢密顧問官 正三位勲一等子爵 金子堅太郎 謹書

「佐藤信氏の講演会に参加して」 令和4年3月12日

令和4年(2022)3月5日(土)午後1時半から、福岡ユネスコ協会主催の講演会に参加した。電気ビル共創館(福岡市中央区)3階の大会議室で行われたが、新型コロナウイルスの蔓延防止期間中ということもあり、参加者は20名にも満たなかった。しかし、会場後方にはビデオ撮影のカメラが設置され、後日、インターネットを通じて配信されるという。講師の佐藤信氏は劇作家・演出家でもあり、来場者だけで聴くのは実にモッタイナイ!主催者の配慮だろう。

講師の佐藤氏は昭和18年(1943)生まれの78歳だが、その語り口は穏やかで、言葉が明確な要点を押さえた論文のよう。この点については、講演後に行われた対談での吉本光浩氏(ニッセイ基礎研究所)が過去に佐藤氏のテープ起こしをして、その言葉をそのまま筆記すればよいことを述べられた。この「語り方」という点だけでも、実に得る事は大きかった。

1時間ほどの講演時間中、どうしてもコロナ禍と演劇の関係については外せない。しかし、佐藤氏は平成という30年の時代を振り返る時間としてこのコロナ禍は有効な時間であり、必要な年月であり、無駄なものではないと口にされる。講演後の対談での問題提起、回答も含め、腑に落ちるものだった。詳細は、インターネットで配信される内容を視聴された方が間違いない。

筆者は、博多が生んだ演劇人・川上音二郎をどのように評価するかについて質問をした。6年か7年前だったと記憶するが、日本演出者協会の依頼で川上音二郎の旧跡案内(生誕地、墓参など)のガイドをやった。その際、参加された韓国の演出家から「音二郎はアジア近代演劇の祖」として尊敬していると口にする。従前、定刻開演、定額料金、女優の採用という観点から「日本近代演劇の改革者」と見ていたが、アジアという括りに驚きを感じた。この「アジア」という言葉の裏付けは、若林雅哉氏(京都工業繊維大学工芸学部講師)が「明治期の翻案劇にみる受容層への適応」で事情を解説している。佐藤氏も小山内薫(1881~1928)の音二郎評価(批判)が定説になっていることに再評価、研究が必要と言及された。明治生まれの小山内薫の論が令和の世にもはびこっている事は、演劇に関わらず、権威、学閥、一門という枠に日本人はとらわれやすい事があきらかになった。

今回、この佐藤信氏の講演を聴き、歴史も含め、近現代の精緻な見直しが必要な時代にきたのだと思った。

「栗本鋤雲の裸踊り」令和4年3月11日

慶応3年(1867)、徳川幕府はフランスのパリで開かれた「パリ万博」に参加した。その際、幕臣の栗本鋤雲(くりもと・じょううん、文政5年3月10日~明治30年3月6日)も随員の一人として参加している。

このパリ万博では、フランスの高官らを招待して徳川幕府主催の懇親会が開かれた。その会場で、なんと、栗本鋤雲は素っ裸での裸踊りを披露した。『アジア主義者中野正剛』(中野泰雄著、亜紀書房)の243ページに、その件が述べてある。フランス側の反応はどうであったかは記されていない。幕臣といえば現在の日本政府の官僚に匹敵する。

栗本鋤雲は、徳川幕府の中において開明的な思想を持つ人といわれる。しかし、新政府への出仕は叶わず、漢籍の知識を生かして文筆の世界に身を置いた。福澤諭吉が著した『明治十年丁丑公論・痩我慢の記』は、新政府に出仕した勝海舟、榎本武揚を「武士の風上にもおけない」として批判した一書。栗本は、その福澤が記した記録を最初に読んだ。旧幕臣の集まりでは、海舟に対し「下がれ!」(幕府の裏切り者として)と叱責した人でもある。

その鋤雲は酒が入ると、舌鋒するどく、持論を展開する人だった。反して、海舟は酒が飲めないが弁はたつ。どちらが良いのか、なんとも判別しがたい。この鋤雲と海舟の評価をどうまとめるか、迷った。その時、『明治人物夜話』(森銑三著、岩波文庫)が目に入った。46ページ「信夫恕軒(しのぶ・じょけん)」という章があり、人物評価についての一考察が出ている。他者、特にジャーナリズムの人が書くものは大衆受けする記事(奇行など)になりがちで、それを鵜呑みにすると間違いを犯すという。要は、人物評は多方面から見なければわからないという。栗本鋤雲、勝海舟のいずれに与するというより、それぞれの長所短所を認識して、自身の肥しにすべきということだ。

パリの宴席で鋤雲が裸踊りを披露したことは、酒の場での稚気と見るべきだろう。女の裸踊りは妖艶だが、男の裸踊りは滑稽。ゆえに、鋤雲の裸踊りは、サービス精神の発露と見るべきだろう。受け取り方にもよるが、人物評、実に難しい。

「日清戦争反対の勝海舟の言葉の裏には何が」令和3年3月5日

日本の「侵略」戦争の始まりは明治27年(1894)の日清戦争からと規定する人がいる。昭和47年(1972)の日中国交樹立交渉での周恩来、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)敗戦後の戦争裁判を進めるアメリカ人検事(米軍将校)もそうだった。周恩来は国交樹立後、日本からの莫大な資金調達を狙っての政治的駆け引きとしての発言。アメリカ人検事の場合、歴史的無知だった。

このアメリカ人検事の無知を指摘したのが石原莞爾(満洲事変を画策した陸軍中将)。その応対については『秘録 石原莞爾』(横山臣平著、芙蓉書房)に詳しい。病床の老将軍は「戦争裁判での第一級の戦争犯罪人はトルーマン(日米開戦時の大統領)だ!」と言い放つ。さらに、日本の「侵略」戦争での起源を「日清、日露戦争から」と口にした検事に「ペリーを呼んでこい!」と言ったのは有名な話。つまるところ、日本の「侵略」戦争はアメリカのペリーが日本を砲艦外交で開国させたことにあると石原莞爾は喝破するのだった。「俺は戦争犯罪人だ!捕まえろ!」と訴える石原だったが、戦争裁判の被告として法廷に立たせると、完全に論破されると危ぶんだアメリカは石原を被告人にしなかった。

更に、「侵略」戦争の始まりを日清戦争として日本人が引き合いに出すのが勝海舟。海舟が日清戦争に反対していたことは『氷川清話』に出ている。しかし、海舟が批判する背景には、伊藤博文、山縣有朋らが政権批判を回避するために戦争を利用し、戦勝後の朝鮮経営、対中国との外交についての定見が無い事を批判しての「戦争反対」なのだ。海舟はこの「戦争反対」の言葉に「支那もすぐに降参すべしと思いたらんか」と続けている。日清双方、無用な戦いを長引かせると、ロシアを含む欧米列強の餌食になるぞとの警告から日清戦争に反対したのだった。日本一国ではなく、アジア全域の安全保障の観点からの「戦争反対」なのである。

石原莞爾ではないが、明治の初め、日本が朝鮮を開国させる機縁となった江華島事件を見ると、ペリーが浦賀沖にやってきた時と同じ構図。ロシアを含む欧米諸国は、侵略国家としての模範を示した。その猿真似をした日本だった。

その先進諸国の仲間から除外され、戦争に敗退したことから日本は糾弾される。「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。戦争は勝つのではなく、絶対に負けてはならない。勝海舟の生きざま、言行録を見れば、それが良くわかる。

尚、江藤淳、松浦玲が編集に関わった『氷川清話』(講談社学術文庫)の巻頭「学術文庫版刊行に当たって」において松浦玲が「聞き書きをした者(吉本襄)が海舟の言葉を改ざんしている」と指摘している。物事は多面的に見なければ真実は見えてこない。

「カムカム英会話」平川唯一と弁論 令和4年2月23日

令和3年度(2021)後期のNHK朝の連続テレビドラマは、ラジオで放送された「カムカム英会話」に着想を得ている。
「カムカム英会話」は、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)敗戦後の昭和21年(1946)1月から、昭和26年(1951)3月までNHKラジオで放送された英会話講座。この講座の中心にいたのが平川唯一(ひらかわ・ただいち、明治35~平成5、1902~1993)というNHKのアナウンサーだ。16歳で渡米し、様々な職業に就きながら小学校に通い語学に磨きをかけ、州立ワシントン大学を卒業した。アメリカで日本人女性と結婚したものの、夫人の滞米ビザの更新が許されず日本に帰国。当時は、日系移民問題、対日感情の悪化で、やむを得ない選択だった。

大東亜戦争中はNHKのアナウンサーとして対米厭戦放送の担当者だった。しかし、戦後は語学力をかわれてGHQとの折衝役を押し付けられる。ここから平川は、ラジオ放送を通じて民主化を日本国民に伝えるための英会話番組を考案。民主化とは、上から下に与えるものでも、強制されるものでもない。大衆運動と平川は捉えていた。けれども、昭和25年(1950)の朝鮮戦争を境に官僚システム復活、労働運動が盛んになり、自然淘汰される形でラジオ英会話講座は終了。大東亜戦争後のGHQの占領政策には言語、文化の問題が横たわっていたが、この問題を克服するためのラジオ英会話の講座だった。

この平川の経歴を見ていた時、金子堅太郎(嘉永6~昭和17、1853~1942)を思いだした。金子は農商務大臣、司法大臣、枢密顧問官を務め、伊藤博文の片腕として大日本帝国憲法草案に参画した。金子は渡米後、小学校、中学校、高校を経てハーバード大学に入学。在学中、アメリカ世論を動かすのは弁論であると見抜き、弁論大会に積極的に参加した。この弁論大会での実績が、日露戦争でのアメリカ世論を日本支持に傾かせることに成功したのだった。平川唯一も小学校から大学を経るが、金子同様に大学在学中は弁論大会での好成績を目指し夜の公園で練習。精神異常者と誤解されて警察のお世話にもなった。

金子も平川も、弁論という実力を蓄えたからこそ、世論形勢に波紋を広げることができた。昨今、日本の政治家、特に閣僚クラスの答弁が官僚の作文を棒読みしていると揶揄される。報道記者の質問内容の愚劣さも問題だが、日本の世論を決定づける政治家は弁論の訓練が必須と金子や平川の履歴を振り返って思うのだった。

「時代の寵児・石原慎太郎の記録を」 令和4年2月21日

令和4年(2022)2月1日、石原慎太郎が病没した。間際まで病をおして執筆していたというから、まだまだ、表現したいこと、伝えたいことがあったのだろう。

この石原慎太郎死去のニュースが流れた時、思い出したことがいくつかあった。ひとつは、昭和52年(1972)4月の「ニセ患者発言」。『戦後50年』(毎日新聞社)という写真集の264ページに、当時、環境庁長官という要職にあった石原慎太郎が両手をついて頭を下げている。胎児性水俣病患者に平謝りの石原を大勢の取材陣が取り囲んでいるもの。

もう一つは、リニア・モーターカーでの発言。これは、宮崎県にリニア・モーターカーの実験場があった際、現場を訪れた石原慎太郎が、「ブタやニワトリしかいないところに、こんな施設を作って・・・」といって、実験場を山梨県に移転させた。この発言の記憶はあるが、今回、この発言を記した記事を見つけだすことができなかったのは残念。

更に、思い出したのは、平成23年(2011)7月16日、夏のオリンピックを東京に誘致する際の会場でのこと。この時、テレビや新聞、週刊誌でしか目にしたことがなかった石原慎太郎を直に目にした。天皇皇后両陛下ご臨席での一連の行事が終了し、懇親会になり、東京都知事として石原慎太郎が挨拶。日本オリンピック委員会、日本体育協会の幹部に向かって、「真剣に誘致に取り組まなければ東京都は何もしねぇぞ」と発言したのだ。なんと、傲慢なと思った。確かに、オリンピック誘致に先立ち、「東京をクリーンなイメージに」として新宿歌舞伎町の風俗店摘発を推進していた。このクリーン作戦で、「デリバリーヘルス」「デリバリーヘルス・ドライバー」という新業態が誕生したことには笑うしかなかったが。

最後になるが、三島由紀夫が自決した際、「ボディ・ビルなんかやるから、あんな結果になった・・・」と発言。これには、三島にボディ・ビルをレッスンした玉利斎が憤慨した。「石原に討論を申し込んだが、返事が無い!」と、怒りの心中を筆者にぶつけたのだった。

寵児(世間にもてはやされる人)という言葉がある。まさに、実弟の石原裕次郎ともども、石原慎太郎は時代の寵児だった。しかし、高度経済成長期の首都東京が生み出した人だった。果たして100年、200年後、石原慎太郎の記録は残るだろうが、人物評は遺るだろうか。逝去直後だけに表の石原慎太郎は報道されるが、裏の記録も残しておかなければならない。

「150年前に歴史をさかのぼってみれば・・・」令和4年2月16日

1775年(安永4)、アメリカでは独立戦争が始まった。イギリスの植民地からの独立戦争は1783年(天明3)まで続いた。

イギリスは、この独立を求めるアメリカとの戦いにドイツの傭兵部隊を投入した。世界各地に植民地を持つイギリスには、アメリカの独立戦争に投じる兵員に不足をきたしていたからだ。ドイツはドイツで、傭兵部隊派遣で潤った。戦争はビジネスと考える欧州人にとっては、傭兵は格好の金儲けだった。

国家を収益企業と見る欧州だが、成長には資本を必要とする。ドイツの場合、国際金融資本と称されるロスチャイルド、いわゆる「赤い楯(ロート・シルト)」が背後に控えていた。アメリカ独立戦争の陰で、このロスチャイルドはイギリスからドイツに渡る手形、小切手の割引などで収益を上げていた。

1914年(大正3)、欧州大戦(第一次世界大戦)が勃発した。もともと好戦的な事で知られるドイツの皇帝ヴィルヘルム2世にとって、好機到来だった。ドイツの人口は25%増加、資本は50%アップ、個人所得も倍額だった。オーストリア・ハンガリー帝国の同盟軍としてドイツは参戦。このヴィルヘルム2世はイギリスのビクトリア女王の孫、ジョージ5世の従兄弟。大英帝国並の植民地、制海権を欲していた。当初は数か月で終決すると言われた欧州大戦は4年も続いた。この大戦対戦は、アメリカの介入で終結に至った。

その後のアメリカは、暗黒の木曜日と称される1929年(昭和4)の大恐慌まで、64%の成長を続けた。しかし、企業収益は大幅にアップしても、個人の収益は11%程度。大量生産の自動車はあっても、富の分配バランスが崩れていることから消費が伸び悩み、大恐慌に至った。ニューディール政策で景気回復を促進するものの、容易に回復せず。

そこで、起きたのが、新興国日本との市場争い。地球最後の市場である満洲での事変は昭和6年(1931)に起きた。大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)においては、日本の軍国主義による「侵略」戦争が原因といわれる。しかし、アメリカ独立戦争からの歴史を俯瞰すると、欧州の膨張主義、覇権主義、帝国主義が、未曽有の二度の大戦に至ったことが見えてくる。

戦後75年余などと、現今日本では戦争を反省する意見がある。しかし、150年前まで歴史を遡ってみれば、問題の根底に何があるのかがわかるだろう。反省にあけくれる日本を見て、にんまりと笑う欧州が透けて見える。

「ウクライナ情勢と北京オリンピック」令和4年2月14日

22年(令和4)北京オリンピックが開幕。コロナ感染症対策よりも、失格、ドーピングという意外性に話題が集まる大会だ。そんなオリンピック情報など放り出して関心を向けなければならないのが、ウクライナ情勢。しかし、日本からは距離があり、馴染みのない地域情勢だけに、日本のマスコミは北京オリンピックに意識が向いている。

このウクライナ情勢を見ている時、1914年(大正3)の欧州大戦(第一次世界大戦)前を彷彿とさせる。欧州大戦前、オーストリア・ハンガリー帝国の版図(国家の治める地域)は欧州の主要を占めていた。ウィーンを首都とする現在のオーストリアからは想像もできないほど、オーストリア・ハンガリー帝国は巨大だった。周辺弱小国は、半ば植民地に等しく、国家間の条約、国際法など、大国によっていかようにも拡大解釈が可能だった。

欧州大戦のトリガーはセルビアの一青年が引いた。その標的がオーストリア・ハンガリー帝国の王位継承者夫妻であったことから、大国の国内事情が大きく作用。セルビアは融和的な諸条件をすべて了解済みだったが、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフは1914年7月28日、セルビアに宣戦布告。武威を示すことで、版図内の民族自決運動に圧力をかける目的もあった。更には、経済力、軍事力を蓄えたドイツが同盟を申し出ていたこともあった。

かつて、ソ連邦(現在のロシア)から分離独立したウクライナだが、そのウクライナがNATO加盟を示唆した。これに安全保障問題として敏感に反応したのがロシア(旧ソ連邦)だった。安全保障を名目に、国内、周辺地域の不満を押さえつけたい意向が働く。石油、天然ガスのパイプラインというエネルギー問題だけではない民族自決問題も、ウクライナ情勢には横たわっている。ウクライナはロシアに対し、恨み骨髄の過去を持っているからだ。

かつての欧州大戦は、遠くアジアにまで飛び火した。藩閥と揶揄された山縣有朋らが、政権批判を回避するため、日本は参戦。イギリス同盟軍として中国の青島にあるドイツ軍を攻めた。更に、地中海にまで日本海軍の艦艇を派遣した。

北京オリンピックでのメダル獲得、失格、ドーピングに一喜一憂している場合ではない。歴史に学び、欧州の情勢分析を急がなければならない。なぜ、今、この時期に北京オリンピックが開催されるのかに疑問を抱かなければならない。

「右と左の源流を遡る」

右翼の源流は頭山満(とうやま・みつる)、左翼の源流は中江兆民(なかえ・ちょうみん)といわれる。この右翼と左翼は、水と油の関係のように、絶対に交じり合わないとみられる。しかしながら、この右翼と左翼の源流は、実に昵懇の仲であった。この両者の交流の始まりは、来島恒喜が頭山に兆民を紹介したことが機縁。来島が兆民の塾に通っていたことからだった。後の自由民権運動において、頭山と兆民は実に考えが一致していた。

さらに、右翼の源流と呼称される頭山満の親族に無政府主義者の伊藤野枝がいて交流もあった。すぐさま、「信じられない」という言葉が返ってくる。しかし、事実は事実。伊藤と内縁関係にあった大杉栄の『自叙伝 日本脱出記』(岩波文庫)の257ページには、その件が述べてある。あの「右翼の源流」といわれる玄洋社の頭山満と、無政府主義者の伊藤野枝、大杉栄とは交流があり、それも大杉が頭山に借金の申し出をするという場面だ。

この借金話は、頭山から杉山茂丸(頭山満の盟友)を経て、後藤新平へと結びつく。警視庁の尾行がつく無政府主義者の大杉が、のこのこと後藤新平(内相、満鉄総裁、東京市長などを歴任)の家に赴けるのも、頭山、杉山という両名がいたからだった。後藤からの借金話は、大杉との間のエピソードとして紹介されることは多い。しかしながら、その陰に「右翼の源流」と呼ばれる頭山らがいたことは表に出てこない。研究者、ジャーナリズム、評論家などにとって、表ざたにすることに何かマズイ事があるのだろうか。

ちなみに、頭山に兆民を紹介した来島恒喜は、明治22年(1889)10月18日、外務大臣の大隈重信に爆裂弾を投じた玄洋社の人として知られる。大隈が強引にすすめる欧米列強との条約改正は大日本帝国憲法に違反すると世論は糾弾するものの、大隈は聞かず。政府は厳しい言論弾圧体制を敷いた。大隈の行動を止める最終最後の手段としての爆裂弾だった。

現代、インターネットが主流になり、簡単に答えを得ることができる。しかし、その字面だけで物事を結論づけると判断を誤る。物事を論じる際には、その源流にまで遡ってみなければ、真実は見えてこない。

「『名詞』も日本語です」 令和4年2月2日

日常的に使用している「ひらがな」の源流は漢字。「あ」は安、「い」は以、「う」は宇、「え」は衣、「お」は於。これは、漢字の書体の一つである楷書から、行書、草書となって生まれた。

 楷  書:角張った印象があるが、正しく書いた漢字

 行  書:楷書の文字を少し崩した漢字

 草  書:行書の文字をさらに崩した漢字

 ひらがな:草書の崩しようがない最終形

 ゆえに、漢字の最下流が「ひらがな」になる。

今、中国(中華人民共和国)では、日本の「ひらがな」の「の」を商品名に加えることが流行している。「〇〇の〇」などだが、〇の箇所に中国の簡体文字が入る。ちなみに「の」の楷書は乃になる。要は簡体文字も源流は漢字だけに、商品名に漢字の変化形である日本の「ひらがな」が入ることにデザインとしての文字の面白さを感じる。ところが、中国のナショナリズムが反発を示すという。

この話題を読みながら思い出したのは、清朝(満洲族政権の中国)末期の話。明治28年(1895)の日清戦争講和後、日本に留学する清国人が多かった。小国日本が大国清を撃ち破った要因は、日本が洋学(欧米の学問)を取り入れたからと分析。その秘密を探るべく、清国は大量の留学生を日本に送り込んだ。

そして、帰国した清国人留学生は清国政府の新進気鋭の官僚となる。官僚組織では、日本語の単語が役所で飛び交う。日本の知識に感化され、母国を見失うのではと心配する官僚トップが留学組に命令する。

「日本語の名詞を多用するのは、まかりならん」

すかざず、留学組が反論する。「今、口にされた『名詞』という単語も日本語ですけど・・・」

反発を示す中国人には「歴史に学べ」と伝えたい。知らないうちに中国社会に浸透し使用されている日本語は多い。「ひらがな」の「の」の一文字で日本への対抗心を露にするよりも、簡体文字の誕生秘話でも探ってみたらどうだろうか。

尚、『名詞』という日本語の文法用語だが、江戸時代のオランダ通詞である志筑忠雄がオランダ語から翻訳したものである。

「岩波文庫と玄洋社」 令和4年1月30日

宮崎滔天著の『三十三年の夢』(岩波文庫)を読み返してみた。勝海舟とも親しかった福岡県大牟田市出身の宇佐稔来彦(うさ・おきひこ)の事を再確認したかったからだ。文庫本ながら500ページ余の『三十三年の夢』には、玄洋社員、関係者の名前が並ぶ。巻末に人名録があるので、宇佐の箇所も容易に見つけられた。

この『三十三年の夢』では、滔天と関係が深かった無何有郷生こと武田範之(たけだ・はんし)は、巻頭に賛辞を述べる。この武田は内田良平(黒龍会、玄洋社)とともに朝鮮に乗り込み、朝鮮の清国(満洲族政権の中国)からの独立を画策した和尚である。蛇足ながら、武田の叔父は明治四年の久留米藩難事件に連座した島田荘太郎。「自序」のページに登場する雲翁とは玄洋社の総帥である頭山満。いわば、玄洋社を抜きにしては滔天の事績は語れない。

先述の宇佐稔来彦は滔天にとって大事な友人だが、滔天の故郷荒尾(熊本県荒尾市)と宇佐の故郷大牟田とは近い。そんなこんなを確認している時、この『三十三年の夢』を刊行しているのが岩波書店であることに気づいた。岩波書店の創業者は岩波茂雄だが、この岩波が世に出るきっかけを作ったのは杉浦重剛(夏目漱石の師)と杉浦の盟友である頭山満。いわば、滔天の著作が岩波文庫として納まるのも自然の理であり、岩波文庫と玄洋社との深い関係性が見えてくる。

ちなみに、岩波書店といえば夏目漱石の全集を出したところだ。この漱石と玄洋社とも浅からぬ縁がある。

しかし、校注を加えた島田虔次(しまだ・げんじ)、近藤秀樹による玄洋社や宇佐に対する注記の文章はいただけない。しかし、すでに両名とも故人になっているだけに文句のつけようもない。大東亜戦争後(アジア・太平洋戦争)、GHQによる玄洋社に対する言論や種々の弾圧があった。それだけに、この島田、近藤の両者の注記は、権力に迎合する御用学者そのままの姿だ。まさに、「今だけ、カネだけ、自分だけ」。

この『三十三年の夢』は平成5年(1993)に刊行されている。早急に校注を訂正したほうが、両者の名誉になるのではと懸念する

「日本の旧植民地台湾と朝鮮の意識の相違」 令和4年1月28日

大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、かつて日本の植民地であった台湾は中華民国が統治し、朝鮮は北朝鮮と韓国とで分割統治することとなった。その旧植民地である台湾と韓国との日本に対する接し方が異なると言われる。簡単に言えば、「親日の台湾」「反日の韓国」である。この相違の原因はどこにあるのか。

 

 一、島の台湾と半島の韓国

 二、民政の台湾と軍政の韓国

 三、交際の短い台湾と交際の永い韓国

 

台湾は、清国(満洲族政権の中国)から「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。化外とは、清国皇帝の徳が及ばない未開の地という意味。反して、朝鮮は清国の属国であり、支配下にあった。良く言えば、清国皇帝の影響力が及ぶ地域。

台湾が日本領に組み込まれた後、児玉源太郎が総督になった。しかし、実際の治政は後藤新平という医者が民政長官として行った。アヘン撲滅、衛生環境整備、インフラ整備に注力した。アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師が現地で尊敬の対象であったように、衛生環境の整備は地元民に喜ばれる。しかし、併合後の朝鮮では、同じ軍人が総督でも、施政官は陸軍の憲兵司令官。徹底した言論弾圧、統制だった。国境を接するロシア、清国の扇動者を排除する目的があったからだが、統治下の民は息苦しく、反発を覚える。

歴史的に台湾と日本とは、間接的な交易関係。反して、朝鮮とは直接的な関係が永かった。ゆえに、相互に、先入観、固定観念が邪魔をする。百済(くだら)からの亡命者の受け入れ、元寇、秀吉の朝鮮征伐などもあった。ここに、人間(動物)としての感情の行き違いが生じる。

これらを踏まえ、日本と台湾、日本と韓国との関係を見ていくと、「同じ植民地」として論ずることがいかに不毛であることか。親日の台湾、反日の韓国という図式が永遠に続くとも思われない。台湾と韓国との外交をいかに考えるかが重要になってくる。

更に、なぜ、陸軍軍人の明石元二郎が台湾総督として敬慕されるように至ったのか。これはもう、「歴史に学ぶ」しかない。

「歴史認識の相違はどこから」令和4年1月26日

日本の歴史教科書において明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争は「侵略」戦争であると教える。この根源は昭和47年(1972)9月の日本と中華人民共和国(中国)との国交樹立の時に始まる。当時の中国の周恩来首相が「半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略の始まり」として日清戦争(甲午中日戦争)を取り上げたからだ。周恩来首相からすれば、「半世紀」、五十年という「侵略」の長期間を強調したいとの外交的意図(外交交渉で優位に立ちたい)が見える。

しかし、近代中国(中華民国)を建国した国父の孫文は、この日清戦争について日本批判を行っていない。むしろ、日本が「革命戦争」を我々の代わりに戦ってくれたと述べる。そもそも、この中国との戦争でありながら「日清戦争」と呼称する由来は、清国(満洲族政権)との戦争だからだ。1644年から1911年までの260年余、漢民族は満洲族の植民地支配下にあった。ゆえに、漢民族の孫文とすれば。日清戦争は日本が漢民族の革命戦争(政権樹立)を代わりにやってくれたと見ているのだ。

さらに、日本とすれば、清国と結んだ不平等条約改正の戦(いくさ)が日清戦争でもあった。日本史年表には記載されないが、明治17年(1884)、明治19年(1886)の二度に渡り、長崎で清国水兵と日本の警察とがもめた。特に、明治19年の衝突では、多くのけが人、死傷者を出す市街戦を展開している。とはいえ、治外法権下の日本は清国水兵を逮捕、投獄することはできない。当時、この不平等条約改正問題は清国に限ったことではなかったが、大国として武力を誇示する清国は日本にとって脅威だった。

周恩来首相の外交交渉での演説であったかもしれないが、史実の確認もせずに「侵略」戦争として受け入れる。なんと、情けない日本だろうか。国父の孫文と周恩来首相の主張の相違は歴史認識の相違につながる。早急にこの歴史の不平等を解消すべきと考える。

「吉田松陰と古松簡二」 令和4年1月19日

安政元年(1854)、吉田松陰が密航の罪で萩の野山獄にあった時、最年少の松陰は同囚の人々に教育を施した。囚人の中には、48年の永きにわたって牢獄暮らしを送る者もあった。松陰は『孟子』を講じたが、孟子は性善説を述べたという。後に、その松陰の教えを聞いていた獄吏の福川犀之助までが、松陰の弟子となった。

その松陰も安政6年(1859)10月27日、江戸伝馬町の獄で斬首となり、刑場の露と消えた。しかし、現代に至るも、この松陰の教えは語り継がれる。

もう一人、獄中で教育を施した人に古松簡二がいる。古松は、天保6年(1835)、筑後八女(福岡県八女市)の医家に生まれ、明治4年(1871)の「久留米藩難事件」「廣澤正臣暗殺」の嫌疑で獄中にあった。後に廣澤暗殺の嫌疑は晴れ、斬首を免れ終身禁固の身だった。

この古松は、明治10年(1877)の西南戦争で西郷軍に従軍し、獄に投じられた若者たちに教育を施した。主に、神道と民権思想であったが、中国古典も説いていた。あの大久保利通の腹心と称された大警視川路利良までもが、古松を師と仰いだ。その学識の高さがどれほどのものであったかが窺い知れる。

しかし、明治15年(1882)6月10日、医者でもあった古松は獄中で広まったコレラ患者の看護中、自身も罹患して獄中死した。

後年、福岡に自由民権運動団体の玄洋社が発足する。その初代社長に就任した平岡浩太郎も獄中において古松から民権の教えを受けた人だった。

吉田松陰に古松簡二。いずれも、自身の身が朽ち果てると分かっていても、次につなぐという意志は強かった。ここに、教育者としての凄みを感じる。

「中野正剛の初月給」 令和4年1月16日

早稲田大学を卒業し、新聞社(東京日日新聞)に入社した中野正剛。昼食は社員食堂で済ます。この時、世間知らずの中野正剛は、タダで牛鍋や鰻メシの昼飯が食えると喜んだ。しかし、給料日、給料袋を開けてみると、わずかばかり。社員食堂での昼食代が天引きであると知らず・・・。

困った中野。すでに、福岡から両親、兄弟を東京に呼び寄せて、一家の家長として家族を養う立場だった。そこで、窮余の策として、頭山満のところに行く。

「それは、家族も心配なことだろう」

即座に、生活費を中野に渡した頭山だった。


さらに、中野を従え近所の魚屋に。そして、中野の自宅に魚を届けるように店主に伝える。帰宅後、豪勢な「初月給祝い」に賑わった中野家だった。

こういった、玄洋社の頭山満と中野正剛の人間関係が分からなければ、アジア主義の奥深さはわからない。中野が合邦後の朝鮮の人々に対し、いかに尽力したか。中国の革命家たちと激論を戦わし、東洋経綸を実践していたか。全ては、アングロサクソンに蹂躙されたアジアの復興にあった。

天下一人をもって興る。東條英機など、なにするものぞ。そんな中野正剛も、頭山満ら諸先輩によって育てられたのだ。

 
・中野正剛(なかの・せいごう)

明治19年(1886)2月12日~昭和18年(1943)10月27日

福岡県出身、中学修猷館、早稲田大学を卒業後、東京日日、朝日の新聞記者を経て衆議院

議員に、玄洋社員。

昭和11(1936)1月、南京で蒋介石と会見、廣田弘毅に蒋介石との会談を提言。

昭和12(1937)7月、日支事変(日中戦争)、蒋介石の欧米寄りを批判、日支事変

は東亜解放戦争と意義付ける。

昭和16(1941)、頭山満(玄洋社)、蒋介石会談を画策する。

朝日新聞の紙面に「戦時宰相論」を寄稿し、東條英機首相の逆鱗に触れる。後に自宅で自決。義父はジャーナリストの三宅雪嶺、義母は歌人、小説家の三宅花圃、

「亀井少琹の旧居跡を探しに」 令和3年10月11日

浄満寺(福岡市中央区)には儒医の亀井南冥(かめい・なんめい)一族の墓所がある。その一群の中に、南冥の孫にあたる亀井少琹(かめい・しょうきん)の墓もある。今回、その少琹の旧居跡が福岡市西区今宿にあるというので探しに出かけた。

目標とするのは、旧唐津街道に面した二宮神社だ。この二宮神社は、福岡県糸島市にある櫻井神社とともに、ボーカル・グループ嵐にちなんで嵐ファンが訪れる神社ともいう。小さな村の鎮守程度だが、全てを知りたいというファン心理が後押しするのだろう。

二宮神社は旧街道に面して鳥居があり、10メートルほどの距離の細い参道を進むと、拝殿が鎮座している。その参道左手に亀井少琹の旧居跡を示す看板があった。

少琹は亀井昭陽(南冥の嫡男)の娘として誕生し、南冥の門弟である雷首と結婚した。そして、この今宿(福岡市西区)で家塾を開いた。男装の漢詩人・原采蘋(はら・さいひん)と並び称される才女として知られた。

二宮神社の境内を抜けると、そこは今津湾に面した浜辺となっている。視界を遮るのは能古島、志賀島、糸島半島である。唐津街道という幹線道路もさることながら、船を使えば、島々との往来は容易と思えた。電車、バス、車という交通機関が発達したことから、小船での移動にまでは考えが至らない。しかし、江戸時代の人々にとって小船も重要な交通機関だった。少琹の祖父・亀井南名が志賀島で発見された金印(「漢委奴国王」)の解説をしたのも、地勢状の縁なのかと思った。

尚、二宮神社の参道脇に「亀井」という表札の家があった。亀井少琹の子孫の方なのかの確認はしていない。

旧唐津街道に面した二宮神社の鳥居
二宮神社と亀井少琴に関する看板

「戦争遺蹟の長垂公園」 令和3年10月5日

福岡市の中心部から糸島市(福岡県)方面に向かう途中、生の松原(いきのまつばら)という景勝地がある。海原を右手に見ながら進むと、左手に長垂公園(ながたれこうえん)がある。JR九州筑肥線が海岸線に沿って走っているが、その線路がトンネルになる一帯が長垂山であり、その麓の公園がそれになる。

この長垂公園(福岡市西区今宿長垂)の駐車場一画に一枚の看板がある。そこには国指定天然記念物「含紅雲母ペグマタイト岩脈」と記されている。今から75年以上も前の大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)中、ここは陸軍が所管する場所だった。リチュウム、セシウム、ウランを含む珍しい鉱物が採掘され、紫色の石を近くの日本稀有金属(福岡市西区横浜)に運び込み、ハンマーで砕いていたという。戦争が激しくなると、学徒動員の学生が数百人単位で動員された。抽出した物質は軍用飛行機の蛍光塗料の材料にするためと言われていた。今も、この長垂公園を歩くと、キラキラと太陽の光に反射する雲母を含んだ石がころがっている。行楽地に向かう車で道路は渋滞しているが、ほとんどの方は長垂公園に関心はなく、今津湾の海に見とれている。

時折、電子兵器の研究所が糸島市近辺にあったなどとの噂を耳にする。詳細はまったくわからない。もしかしたら、この長垂山で採掘されるウランを使っての兵器開発だったのかもしれない。カナダの外交官であり、GHQの調査分析課長であったハーバート・ノーマン(実は、コミンテルン・スパイでもあった)は、博多湾には巨大な海軍基地があるなどとレポートに書き残していた。確かに、分散して小規模の海軍基地が存在していたが、本来の目的はこの鉱山と秘密兵器を開発する研究所の存在を探知したかったのではないか。


今では、そんなきな臭い話の欠片も感じられない長垂公園。今津湾の海を眺めながら、ころがっている雲母の石コロに想像を膨らませるばかりだった。

雲母の看板
雲母を含んだ石

「原采蘋の私塾跡」令和3年9月13日

亀井少琹(亀井昭陽の娘、亀井南冥の孫)と並び称される才女がいる。それが原采蘋(はら・さいひん)という男装の漢詩人だ。この采蘋の実父は秋月藩(福岡藩の支藩)の藩校稽古館の教師であり、亀井南冥に師事した。南冥の息子、亀井昭陽とは「昭陽の文、古処の詩」として亀門(亀井塾の一門)抜群、双璧と称えられた。

その原古処の娘として、原采蘋は寛政10年(1798)4月、誕生した。幼名を猷(みち)という。原采蘋は父について学んだが、特筆すべきことは男装に身を包み、諸国を行脚して学問の向上を図ったことだ。京都では頼山陽、簗川星巖と交流を持ち、江戸では松崎慊堂の支援を受け、勉学に励んだ。

しかし、実母の体調が優れず、筑前福岡に帰国。嘉永3年(1850)、長崎街道山家宿(やまえじゅく、福岡県筑紫野市)に「宜宜堂(ぎぎどう)」という私塾を開いた。その塾の跡が遺されているが、碑には次のような漢詩が刻まれている。

 

謝人贈魚 原采蘋

千里省親帰草盧

山中供養只菜蔬

謝君情意深於海

忽使寒厨食有魚

 

【意訳】

千里の道も厭わず親元に帰省し、せめての孝行にと思うけども山中だけに野菜しかない。

しかし、台所に行けば魚が用意されていた。あなたの海の如く深い心遣いに感謝します。

 

「原古処の女詩文を能くす書に至ては殊に巧なり、亀井少琹と女流の二巨手と称せられる」(筑前人物志)と評された。その采蘋も安政6年(1859)10月1日、旅の途中、長州萩で亡くなる。62歳だった。

尚、原采蘋の弟子には秋月藩の戸原卯橘(とばら・うきつ)がいる。戸原は文久3年(1863)、平野國臣が主導した「生野の変」に参戦し、事敗れて自決した。

 

【参考文献】

・森政太郎編『筑前人物志』文献出版、昭和54年

・三松荘一著『福岡先賢人名辞典』葦書房、昭和61年

・アクロス福岡文化誌編纂委員会編『福岡県の幕末維新』海鳥社、2015年

・浦辺登著『維新秘話福岡』花乱社、2020年

亀井少琹の墓を訪ねて 令和3年6月18日

九州は男尊女卑と言われる。しかし、そう見るのは間違いだ。とりわけ、筑前福岡藩(現在の福岡県)には、書画詩文に優れた亀井少琹(かめい・しょうきん)、男装の漢詩人原采蘋(はら・さいひん)、勤皇志士の母・野村望東尼、そして、玄洋社生みの親ともいわれる男装の女医・高場乱(たかば・おさむ)を尊重する。今回、これら才女のなかから、亀井少琹をご紹介したい。

亀井少琹(幼名は友)は寛政10年(1798)2月19日、福岡の唐人町(現在の福岡市中央区)に生まれた。父は亀井昭陽、祖父は亀井南冥という著名な儒医(儒者であり医者)の家に生まれた。特に祖父の亀井南冥は福岡藩校甘棠館(かんとうかん)の館主であり、自由闊達な学問の場として福岡藩内外から評判が高かった。更に、亀井昭陽も学者としての名声が高かった。そんな家庭環境もあってか、少琹は幼少から聡明であり、書画詩文に優れた才女として知られた。

「亀井友(少琹)空石(昭陽)の女(むすめ)にして雷首(三苫源吾)の妻たり、今宿(福岡市西区)に住す、扶桑第一(日本一)梅の詩を以て世に知られる、詩文書画に巧みなり、好んで四君子(蘭、菊、梅、竹のこと、気品があるので君子にたとえる)を書く、頗る奇韻(独特の風流)あり、采蘋(原采蘋)と並び称せられる」(『筑前人物志』より)

文化13年(1816)12月3日、父・昭陽の弟子であった三苫源吾と結婚し、別家を建て、今宿で医業と家塾を開く夫の亀井雷首を補佐する。亀井南冥、昭陽父子の弟子である廣瀬淡窓(豊後日田の咸宜園を開いた)、『日本外史』を著し漢詩人として著名な頼山陽も称賛する女性だった。

安政4年(1857)7月6日、60歳にして没したが、求められて描いた書画は今も人気。日本全国から豊後日田の咸宜園には秀才が集ったが、その原点ともいうべき学問所が亀井南冥、昭陽の亀井塾だった。その塾を陰で支えていたのが亀井少琹である。今、少琹は浄満寺(福岡市中央区地行2-3-3)の亀井一族の墓(福岡県文化財)に眠っている。

 

【参考文献】

・森政太郎編『筑前人物志』文献出版、昭和54年

・三松荘一著『福岡先賢人名辞典』葦書房、昭和61年

・アクロス福岡文化誌編纂委員会編『福岡県の幕末維新』海鳥社、2015年

浄満寺山門脇の石碑
左から3つ目の「少琹女史之墓」が亀井少琹の墓

伊藤野枝の墓参  令和3年6月2日

令和3年(2021)2月25日、矢野寛治氏の案内で伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓参に行った。大正12年(1923)9月1日、関東大震災でのどさくさの最中、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の三人は、甘粕正彦憲兵大尉に扼殺された。その三人の墓碑が伊藤の故郷である福岡市西区の某所に遺されている。

伊藤野枝は、明治28年(1895)1月21日、父亀吉、母ムメ(ウメとも)の娘として福岡県糸島郡今宿村大字谷(現在の福岡市西区今宿)に生まれた。裕福な家だったらしいが、近代化の波に晒され、家産は傾いていた。口減らしなのか、野枝は親戚の家や各地を転々とする少女時代を送り、それでも、東京の上野高等女学校を卒業している。実家が貧しいにも関わらず、なぜ、東京の女学校を卒業できたのか・・・詳細は不明だった。

その長年の疑問を解明してくれたのが、矢野寛治氏が平成24年(2012)に刊行した『伊藤野枝と代準介』(弦書房)だった。西日本新聞(福岡市)から書評の依頼があり、「2012年の一冊」として、本書を取り上げた。これが機縁となり、著者の矢野寛治氏との交流が始まった。そこで、矢野氏の先導で伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓参となったのだ。

吉村精高氏が運転する車で福岡市西区某所にある墓に向かった。その昔、墓碑は誰もが知る場所にあったが、某が自宅の庭石に持ち去り、イタズラも絶えないことから、人目につかない山中に安置された。多くの方は、イタズラが絶えないのは、いわゆる「右翼」の仕業と思ってしまう。しかしながら、「右翼」の源流と呼ばれる玄洋社の頭山満と伊藤野枝が親族関係にあり、親交があったことを世間は知らない。伊藤野枝、大杉栄といえば無政府主義者、極左の立場にあり、右翼と左翼は対立するものと思っているからだ。対立するものが共存できる精神は日本の伝統であり、頭山は日本の伝統を身体に染みこませた人士である。左右対立が共存共栄できるなど、信じられない!と思う方は大杉栄の著書を一読いただきたい。

矢野氏に先導していただき、林道を登ること15分程。さらに、脇にそれて進むと、イノシシを捕獲する檻に出くわす。心無い人々にイタズラをされるのを避けるため、こんな寂しい所にあるのだ。吉村氏が持参した花束を傾け、水をかけまわす。矢野氏が線香を捧げる。

伊藤野枝の叔母は実業家である代準介の後妻となった。そこから代準介の後援を得て、野枝は上野高等女学校を卒業した。更に、代準介は頭山満の一族の者であり、代の紹介で野枝は頭山の家に親しく出入りするようになったのだ。

矢野寛治氏の著作によって、従前、フィクションの世界にあった伊藤野枝や大杉栄の実像が浮かび上がった。同時に、筆者の永年の謎も氷解したのだった。願わくば、小説という虚構によって形作られた伊藤野枝の真実の姿が明らかになって欲しい。

伊藤野枝墓

佐座謙三郎(ぞうざ(さざ)・けんざぶろう)の墓 令和3年5月11日

佐座謙三郎は天保11年(1840)、福岡藩士で馬取小頭佐座与平の長男として筑前福岡(現在の福岡市)に生まれた。諱は義直といい、通称として謙三郎と名乗る。一時、大野磯太郎の養子となるが、後に解消している。

性格は実直にして義侠心に富み、文武の道に励んだ。幼い時より月形塾の月形深蔵、月形洗蔵に就いて学んでいる。自宅の近くに菊池寂阿公※(菊池武時)の墳墓があり、勤皇の志から参詣を欠かさなかった。

文久3年(1863)秋、肥前国(佐賀藩、佐賀県)に行って勤皇の同志を訪れ交友。更に、筑後柳川(柳河藩、福岡県柳川市)にも行き、尊皇攘夷についての意見交換をしていた。元治元年(1864)3月、福岡藩筑前勤皇党の同志である中村円太が獄中にある時、円太の破獄(脱獄)を助けたことから、慶応元年(1865)6月、獄に投じられる。同年10月23日、いわゆる「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で斬刑となる。26歳だった。

後年、正五位が贈位された。墓所は『明治維新人名辞典』では正福寺にあると記載されるが、浄満寺(福岡市中央区)の亀井南冥一族の墓の隣にある。

 

※ 菊池寂阿公=南朝方の後醍醐天皇を支持する菊池武時のこと。元弘3年(1333)3月13日、戦死。現在の菊池神社(福岡市城南区)に胴体、「菊池霊社」(福岡市中央区・福岡県護国神社南の鳥居側)に首が埋葬されたという。明治35年(1902)、明治天皇より従一位が贈位される。

佐座謙三郎の墓碑(左端)

江上善述碑(鞆舎江先生之墓)令和3年4月28日

君諱善述、称六右衛門、考苓洲翁以文学興家、君励精武事、兼綜衆藝、以射侍于公臺、文政辛巳、為侍中、天保甲午、進班長、弘化乙巳、賜采百石、叙于上士列、為人重厚、外温内厳、淵嘿而不可犯、自初宦、三十八年、奉職惟慎、屢受賞賜、識者称其奉揚器、仕遭遇寵、而不霣先人之業命也、安政戌午十月四日、卒于武邸、年六十二、長子武述嗣、亦命掌公射之事、墓在麻布天眞寺裡、埋遺髪於斯、使余誌其碑背

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

【譯文】

君諱(いみな)は善述、六右衛門と称す。考苓(れい)洲(しゅう)翁文学を以て家を興す。君武事を励精し、兼て衆藝を綜ぶ。射を以て公臺(こうたい)に侍す。文政辛巳、侍中となり、天保甲午、班長に進む。弘化乙巳、采百石を賜ひ上士の列に叙す。

人となり重厚、外温にして内厳、淵嘿(えんこく)にして犯すべからず。初宦(しょかん)より三十八年、職を奉ずること惟れ慎み、屢屢賞賜を受く。識者其の奉揚の器、遭遇の寵に仕へ、而して先人の業命を霣(お)さざるを称す。安政戌午十月四日、武邸に卒す。年六十二。長子武述嗣ぐ。亦命じて公射の事を掌らしむ。墓は麻布天眞寺裡に在り、遺髪を斯に埋め、余をして其の碑背に誌さしむ。

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

【意訳】

あなたの生前の本名は善述だが、六右衛門ともいう。あなたの父の苓洲翁は文学を以て家を興したが、あなたは武術に精励し、併せて多くの武技もまとめた。弓術の指導者として福岡藩庁に努めた。文政辛巳(文政四年、一八二一)には、藩主の相談役となり、天保甲午(天保五年、一八三四)には組の長となった。弘化乙巳(弘化二年、一八四五)、給付米百石をいただくことになり、上士(上中下の武士階級の上)となった。

性格は重厚で、他者に対しては暖かいが、自分に対しては厳しく律する人だった。ゆえに、大臣の器量を備えるといわれた。初めての仕官から三十八年、真面目に職務に努め、褒賞を受けることはたびたびだった。その職務をよく知る人は、家老にまで出世できるほど藩主の信頼があったという。しかし、父の苓洲翁の家格を継承したのだった。安政戌午(安政五年、一八五八)十月四日、福岡藩江戸藩邸で亡くなる。六十二歳だった。長男の武述が家を継ぎ、武述もまた弓術の指導者となった。墓は麻布天眞寺裡に在るが、遺髪をここ浄満寺に埋め、私、亀井晹洲がその墓碑の裏面に撰文を遺す。

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

諱=いみな、生前の本名

考=父

苓洲=江上苓洲、亀井南冥の高弟の一人

衆=多くの

綜=すべる、まとめる、集める

臺=中央政府の役所

侍中=君主の身近に仕えて政務の相談を受ける役、

班長=組の長

采=領地、給与

重厚=人柄がどっしりとして重みがある

淵嘿=大臣の器量がある

奉揚の器=藩主を補佐する家老の器

遭遇=出世する

寵=君子のお気に入り

霣=落ちる、受け継ぐ

麻布天眞寺=福岡藩第4代藩主黒田綱政の開基、臨済宗大徳寺派、東京都港区南麻布

亀井鐵=亀井鐵次郎(亀井南冥の孫、昭暘の次男)

吉留厚=吉留杏村の関係者か?

 

*浄満寺には江上武述(伝一郎)の墓もあると言われるが、近くには見当たらない。

江上善述の墓(左から2つ目)

平野國臣の父親の墓、顕彰碑

福岡市博多区祇園町4-55の浄土真宗本願寺派順正寺には、平野國臣の父親の墓、顕彰碑がある。

 平野國臣も、幼い頃、母に連れられ順正寺に寺参りに来たという。平野國臣が、歩いた道として、この順正寺を訪ねてみるのも良いかもしれない。

 尚、父の能榮の顕彰碑の内容を記しているので、一読いただけましたら、幸いです。

 

 

平野能榮碑

 

明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、賜告自大坂府裁判所歸縣、泣而告余曰、先考之歿、吾宦於朝、不能會葬、爾後奄忽五歳矣、今始得上壟、欲立碣於墓側、述其生平而寫吾餘哀、子其為吾誌之、余雖不識君、獲交於其諸子、詳君事状、故不辭叙之曰、君諱能榮、稍吉三、三苫氏、姓大中臣右大臣和氣公清麿之遠裔、居筑前國志摩郡田尻邑者、後徒住福岡、父諱宣茂、母安武氏、以寛政十年戌午二月二十日生、文化五年戊辰、十一歳、承舊藩卒平野吉道後、既長以事往返東京、百數十度、其他行役諸國率無虚歳、藩主屢加褒賞、賜金増禄、明治二年己巳、特命烈士籍、四年辛未三月十四日、病終于家、享年七十四、葬於博多順正寺先塋、娶都甲氏、生四男二女、長子乙、出嗣舅氏之家、見為本縣十二等出仕、次國臣、嗣小金丸氏、後復本氏、元治甲子、歿于王事、次即能忍、嗣平山氏、次三郎、分家稍平野氏、次二女、長適中村五平、次適田中源工、而君之後則以都甲乙長子能明為之、於君實嫡孫也、君為人忠直廉潔、治家儉而有法、處事簡而得要、大度善容、臨變不動、人或説以于進、輙託他事辭之、唯孳々盡己職而巳、萬延文久間、次子國臣之密謀勤王也、兄弟同志、連累一家、而君従容處其間、不失所守、此二事可以概見其平素矣、自幼好武、精究剣槍諸技、最熟杖術拳法、藩主命教育少年子弟、天稟強健、及老而不衰、自承父至歿、中間六十四年如一日、是又人之所難得也、配都甲氏、有婦徳、善女工、傍解算書、人称為女鑑、文久二年壬戌八月十七日、先君而終、享年五十八、君之老健服勤、蓋有内助云、嗚呼、平野氏諸子、當朝政維新之日、累受恩旨、名聞於世、是雖賴諸子之立志不變、抑亦有得先考妣之訓誡、則能忍之追慕無措宜矣、而吾知平野氏之福未芠也、銘曰、

木有根本 水有源泉 孝子順孫 令徳不愆 于春于秋 祭祀之虔 魂而有知 安此新阡

福岡縣士族 臼井浅夫 撰

福岡縣士族 塚本 戢 書

碑は福岡市順正寺に在り。別に平野能榮先生墓と表したる碑あり。芥屋石にして方一尺、高さ三尺ばかり。

 

【譯文】

明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、告を賜ひて大阪府裁判所より縣に歸り、泣て余に告げて曰く、先考の歿するや、吾れ朝に宦へて葬に會する能わず。爾後奄忽五歳、今始めて壟に上るを得たり、碣を墓側に立て其の生平を述べて吾餘哀を寫さむと欲す。子其れ吾が為に之を誌せよと。余君を識らずと雖も、其の諸子に交り君の事状を詳かにするを獲たり、故に辭せず、之を叙して曰く。君諱は能榮、吉三と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村に居る。後、徒って福岡に住す。父諱宣茂、母は安武氏、寛政十年戌午二月二十日を以て生る。文化五年戊辰、十一歳、舊藩の卒平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京に往返すること百數十度。其他諸國に行役して率ね虚歳なし。藩主屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年己巳、特に命じて士籍に列す。四年辛未三月十四日、病て家に終る。享年七十四、博多順正寺先塋に葬る。都甲氏を娶り、

四男二女を生む。長子乙出て舅氏の家を嗣ぐ。見に本縣十二等出仕たり。次は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後本氏に復し、元治甲子、王事に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長は中村五平に適き、次は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙の長子能明を以て之を為す。君に於て實に嫡孫なり。

君人となり忠直廉潔、家を治むること儉にして法有り、事を處すること簡にして要を得たり。大度善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于進を以てすれば、輙ち他事に託して之を辭す。唯孳々として己が職を盡すのみ。萬延文久の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連ぬ。而も君従容其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏、婦徳あり、女工を善くし。傍ら書算を解す。人称して女鑑と為す。文久二年壬戌八月十七日、君に先ちて終る。享年五十八。君の老健勤に服す、蓋し内助有りと云ふ。

嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累りに恩旨を受け、名世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑も亦先考妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなきこと宜なり。吾れ平野氏の福未だ艾ざるを知るなり。銘に曰く、

木根本あり、水源泉あり。孝子順孫、令徳愆らず。春に于て秋に于て、祭祀是れ虔しむ。魂にして知るあらば、此の新阡に安ずべし。

 

【意訳】

明治八年(1875)乙亥(十干十二支12番目の年)九月、六等判事、従六位平山能忍君が、告を賜ひて(官吏の休暇)大阪府裁判所より縣(福岡県)に歸り、泣いて余(臼井浅夫)に告げて曰く(言うには)、先考(父親)の歿するや、吾れ(私は)朝(朝廷)に宦(つか)へて(宮仕え)葬に會する能わず。爾(じ)後(ご)奄忽(えんこつ)(その後たちまち)五歳(年)、今始めて壟(つか)(墓)に上る(参り)を得たり、碣(いしぶみ)(石碑)を墓側に立て其の生(せい)平(へい)(平素)を述べて吾餘哀(よあい)(なぐさめきれない悲しさ)を寫(うつ)さむ(絵や文字に表現する)と欲す。子(平山能忍)其れ吾が為に之を誌せよと。余(臼井浅夫)は君(平野能榮)を識(し)らずと雖(いえど)も、其の諸子に交り君の事状(じじょう)(事柄、様子)を詳(つまびら)かにするを獲(え)たり、故に辭せず(断らなかった)、之を叙して曰く。君諱(いみな)(生前の本名)は能榮(よしえ)、吉三(きちぞう)と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿(右大臣和気清麿)の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村(福岡県糸島市志摩)に居る。後、徒って福岡に住す。父諱は宣茂、母は安武氏、寛政十年(1798)戌午(十干十二支の55番目の年)二月二十日を以て生る。文化五年(1808)戊辰(十干十二支5番目の年)、十一歳、舊(きゅう)藩(福岡藩)の卒(足軽)平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京(江戸)に往返すること百數十度。其他諸國(日本全国)に行役(こうえき)(旅行)して率ね虚(きょ)歳(さい)(何事も無い)なし。藩主(黒田斎清、黒田長溥)屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年(1869)己巳(十干十二支6番目の年)、特に命じて士籍(士族)に列す。四年(1871)辛未(十干十二支8番目の年)三月十四日、病て家に終る(病気で自宅にて亡くなる)。享年七十四、博多順正寺先塋(せんえい)(先祖の墓所)に葬る。

都甲氏を娶(めと)り、四男二女を生む。長子(長男)乙は出て舅(きゅう)氏(し)(母の兄弟)の家を嗣(つ)ぐ。見(まみえる)(社会に出て仕える)に本縣(福岡県)十二等出仕たり。次(続いて)は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後で本氏(平野)に復し、元治(元年、1864)甲子(十干十二支1番目の年)、王事(おうじ)(王室、帝室に関する事柄)に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長(長女)は中村五平に適(とつ)き、次(次女)は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙(旧姓・平野乙)の長子能明を以て之を為す。君(平野能榮)に於て實に嫡孫(ちゃくそん)(家をつぐべき孫)なり。

君人となり忠(ちゅう)直(ちょく)(真直ぐなまごころ)廉潔(れんけつ)(心が清らかで行いが正しいこと)、家を治むること儉(つづまやか)(無駄を省き)にして法(おきて)(道理)有り、事を處すること簡(かん)(おおまか)にして要(大事なところをつかむ)を得たり。大度(たいど)(大きな度量)善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于(う)(満足する)進(すすむ)を以てすれば、輙(すなわ)ち(たちまち)他事に託して之を辭す。唯孳々(じじ)として(つとめはげむさま)己が職を盡すのみ。萬延文久(1860)の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連(つら)ぬ(一家もまきぞえをくう)。而(しか)も君従容(しょうよう)(ゆったり落ち着いた様)其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術(神道夢想流)拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟(てんびん)(生まれつきの気質)強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏(妻)、婦徳あり、女工(にょこう)(女子の仕事)を善(よ)くし。傍ら書算(文字を書き計算をする)を解す。人称して女(おんな)鑑(かがみ)(女性の手本)と為す。文久二年(1862)壬戌(十干十二支59番目の年)八月十七日、君に先(さきだ)ちて終る。享年五十八。君の老健勤(つとめ)に服す、蓋(けだ)し内助(妻の助け)有りと云ふ。

嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累(しき)りに恩旨(朝廷の褒賞)を受け、名は世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑もまた先考(父親の能榮)妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなき(計らい)こと宜(ぎ)なり(もっともだ)。吾れ平野氏の福未(いま)だ芠ざる(王室、帝室からの祝福は絶えない)を知るなり。銘に曰く、

木根本あり、水源泉あり。孝子順孫(祖父母に仕える孫)、令徳愆らず。春に于(おい)て秋に于(おい)て、祭祀是れ虔(つつ)しむ。魂(こころ)にして知るあらば、此の新阡(しんせん)(道)に安ずべし。

 

*和気清麿 奈良~平安時代の貴族、宇佐八幡宮でのご神託の話は有名

*順正寺 浄土真宗本願寺派、福岡市博多区

*碑は平野能榮の墓を正面に見て、左脇にある。隣接する墓域の境にはクチナシの樹があるが、これは親交があった久留米水天宮の真木和泉守保臣が蟄居謹慎を命じられていた水田天満宮(福岡県筑後市)の茅屋を「山梔窩(くちなしのや)」と呼んだことによるものと思われる。山梔窩(口を閉じて何も言わない、口無し)にかけている。

 

平野國臣の父・能榮の顕彰碑は墓碑左にある

「日本語を伝達ツールとして見直していく」の講演を聴いて 令和3年3月3日

講師は某外語大学アジア言語学科准教授。パワーポイントを使用しながらの講演だった。

  • 多文化共生の「共生」が目指すところ
  • 「外国人」という用語について
  • 「日本人」のコミュニケーション行動の特徴
  • 共通語としての「日本語」の使い方

以上4つを主にしての話だった。「共生」という概念の解説から始まったが、文化の相違を認め合い、地域社会の構成員として共に生きていくということを意味すると言われる。いわゆるグローバル化なのかと、ここでは理解した。

次に、国外から移動(移住)してくる人々を受けいれている国の割合として、世界標準のパーセンテージから日本が大きく遅れているという。トップはアメリカの15・5%、日本は2・0%。日本では人口減少が問題であり、移民受け入れが急務であるという。しかし、移民の受け入れと、日本語をツールとして見直すという表題と、何の関係があるのか。この、短絡的な展開に、不満が募る。要は、現況の外国人労働者と、語学留学生との相違を理解せずに講師が語っている。日本の将来のために、移民労働者を受け入れましょう。そのためには、多様性が必須で、「やさしい日本語」を教えることのできる日本語教師は大事です。という結果になるが、それは日本語教師の利権のための筋立てではないかと勘繰る。

講演後、挙手をしての質問が無く、司会者が聴衆に促して、ようやく質問があった。しかし、その質問に対し、「政治的なものは分かりません」「法律的なものは分かりません」との回答に失望する。

今や、日本のアニメの影響で、日本語を理解できる外国人は想像以上にいる。その中で、何が不足しているかといえば、日本人自身の歴史、伝統、文化の知識である。たまたま、会場後方でブレイディ・みかこさんの『ブレグジット狂騒曲』という講演録を購入した。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んでいたからだが、「多様性は地雷原を進むがごとく」という言葉は印象的。移民受け入れをイギリスも導入したが、その結果、現在のイギリスにどのような問題が起きているかを如実に述べたもの。ブレイディ・みかこさんの講演録でも「左派はよく『お花畑』と呼ばれますよね。(中略)下部構造、すなわち根のない花は水を吸えないので枯れます。」との言葉が印象に残った。

政治的、法律的な背景が分からず、多文化共生としての日本語ツールと言われても、腑に落ちない。入国審査で、自身の名前すら満足に書けないベトナム人が、家族を支えるために一縷の望みをもって日本に来ている現実を、どうするのか。講師には、ブレイディ・みかこさんの本を熟読して欲しいと思った。
                                              
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「贈従四位亀井南冥追慕碑」を読み説く

福岡市中央区地行の浄満寺には、福岡県指定文化財である亀井南冥一族の墓所がある。その一隅に、明治44年(1911)に建てられた石柱がある。経年劣化から刻まれた文字を読み取ることは容易ではない。さらに、撰文を起草した人物も不明。

これは、「贈従四位亀井南冥追慕碑」。しかし、その刻まれた文の意味が分からなければ、誠に残念に思うので、ここに可能な限り判明した内容を記したいと思います。

 

泮宮甘棠之遺風、後死斯文之托、果不虚矣、迨皇猷維新名器復古乎、可謂先生之志業亦酬歟、

明治四十四年十一月、龍駕西巡之日、聖恩及地下、贈位之特典、光彩照今古矣、今茲大正二年、會先生歿後一百年紀、學統門下士、與裔孫千里氏胥議、得大方高誼諸士之憀力、而營一大祭祀、舊藩主侯家、亦贊其擧、有祭資之奇、茲盡塋域、脩墳墓、建斯碑、而永為敬慕紀念焉、併勒先生為畢生之憾太宰府碑、自書之今尚存者于石、建於都府舊址、以紹其志云

福岡市地行浄満寺に在り。大正二年、先生の遺業たる太宰府址建碑と共に成る。

 

【譯文】

泮宮、甘棠の遺風、後死斯文の托、果して虚しからず。皇猷維れ新に、名器古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年十一月、龍駕西巡の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩今古を照らす。今茲大正二年先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方高誼諸士の憀力を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生の憾みたる太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐと云ふ。

 

【直訳】

泮宮(中国古代の諸侯の学校)、甘棠(立派な為政者に対し国民の敬愛の情が深い事)の遺風、後死斯文(学問の道)の托(まかせる、たよる)、果して虚しからず。皇猷(帝王のはかりごと)維れ新に(王者になるべく受けた天命は新しい)、名器(爵位と車や衣服)古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年(一九一一)十一月、龍駕(天子の車)西巡(九州への巡幸)の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩(あざやかな美しい色)今古を照らす。今茲大正二年(一九一三)先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方(世間のすぐれた人々)高誼(あついよしみ)諸士の憀力(たすけ)を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家(旧福岡藩主の黒田家)も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域(墓地)を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生(終生)の憾みたる(心残り)太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して(彫る)、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐ(受け継ぐ)と云ふ。

 

【意訳】

福岡藩校甘棠館の館長(総裁)であった亀井南冥先生の学問の功績は、甘棠館が廃校になったとはいえ、その思想の系譜は朽ち果ててはいなかった。天皇親政の維新、王政復古となったことで、亀井南冥先生の業績が再評価された。明治四十四年(一九一一)十一月、明治天皇が九州に巡幸された折、故人となっていた亀井南冥先生に贈位の特典をくだされた。昔のこととはいえ、先生の功績が蘇った。今ここに、大正二年(一九一三)亀井南冥先生の歿後一百年紀にあたり、先生の学問の系譜に連なる人々、先生の孫になる千里氏と、この慶事をどうしたものかと相談をした。高名で義理堅い人々の助けを得て、顕彰祭を行うことになった。旧福岡藩主の黒田公爵家からは、その顕彰祭に賛意を示され、祭祀料までいただいた。ここに、浄満寺の墓地を整備して、追慕碑を建て、永く亀井南冥先生を慕うこととなった。同時に、亀井先生が終生、心残りであったであろう大宰府政庁跡の碑が、今も、現存していることも追慕碑に彫って、政庁跡にも建て、亀井南冥先生の志を継承していきたい。

 

*亀井南冥(かめい・なんめい)

寛保3(1743)年8月25日~文化11(1814)年3月2日、福岡藩校甘棠館の総裁、およそ8年を務める。

*甘棠館(かんとうかん)

天明4年(一七八四)、福岡藩によって設けられた藩校、東の修猷館、西の甘棠館と呼ばれた、亀井南冥門下からは、村上仏山、廣瀬淡窓など多くの人材を輩出した。

*明治天皇は明治四十五年(一九一二)七月三十日に薨去された。

*浄満寺(浄土真宗本願寺派)

福岡市中央区地行2丁目3の3

                                                                                                            以上

 

「江上栄之進の墓所を訪ねて」令和3年2月10日

福岡市中央区地行の亀井南冥(1743~1814、寛保3~文化11)の墓参で浄満寺を訪ねた際、亀井一族の墓所の右わきに江上栄(英)之進の墓があるのに気が付いた。

江上栄之進は天保5年(1834)5月1日、100石取りの福岡藩士江上六右衛門善述の次男として、筑前国早良郡鳥飼村に生まれた。祖父の江上源蔵武顕は亀井南冥の高弟・江上苓洲として知られる。父の江上六右衛門善述は射術に優れた武人として知られる。この祖父、実父の影響を受け、栄之進も文武両道の人として知られる。同僚の福岡藩士・万代十兵衛(「乙丑の獄」で切腹)とは特に親しく交わったと伝わるが、万代は栄之進の父・六右衛門善述から射術の指導を受けている。

ちなみに、万代十兵衛の二人の弟である江上述直は西南戦争で戦死し、久光忍太郎は西南戦争に呼応した「福岡の変」で斬首となっています。

万延元年(1860)秋、薩筑同盟を画策して月形洗蔵は福岡藩主黒田長溥に建白書を提出。江上栄之進は浅香市策・中村円太と共に薩摩に赴く。この計画が藩主の怒りをかい、栄之進は文久元年5月(1861)、姫島(福岡県糸島市)に遠島牢居となった。いわゆる辛酉の獄と呼ばれる福岡藩の内訌(内紛)だが、この時、栄之進が起居した牢は後の「乙丑の獄」で島流しとなった野村望東尼が入ることになる。

辛酉の獄での罪を赦された栄之進は、元治元年(1864)4月、藩主黒田長溥の命で長州に赴き三條実美と会談。しかし、この長州行きは出奔との噂もあり、そのためか、帰藩後、実兄の知行地である糟屋郡吉原村で隠棲生活を送ることに。しかしながら、密かに勤皇党としての活動を続けていたと伝わる。

慶応元年(1865)7月、栄之進はふたたび幽閉されました。続く9月、桝小屋(福岡市中央区)の獄舎に移されました。この獄中生活では、栄之進食を絶って死を選択しましたが死なず。さらに、衣類を脱いで凍死を試みるも、これも失敗。ついに、慶応元年10月23日、勤皇党の仲間とともに斬首となる。享年32歳。

明治24年(1891)11月5日、靖国神社に合祀され、明治35年(1902)11月8日には正五位が贈位された。その江上栄之進(武要)の墓が、亀井一族の隣に遺されていることに驚いた。

こういった、江上らの働きがあったからこそ、没後の亀井南冥に贈位があったものと推察される。南冥の墓参の際には、隣の江上栄之進の墓も墓参していただきたい。

尚、福岡市中央区谷にある「福岡陸軍墓地」に「明治維新志士之墓」がある。この墓碑裏面に江上英之進武要として名前が刻まれている。

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江上栄之進(武要)の墓(右から2番目)

「亀井南冥の墓所を参拝」令和3年1月31日

国宝「金印」の鑑定を行ったことで知られる亀井南冥(1743~1814、寛保3~文化11)の墓参に行った。南冥の菩提所は福岡市中央区地行2-3-3の浄満寺(浄土真宗本願寺派)だ。浄満寺の山門脇には「亀井南冥・昭陽両先生墓所」と刻まれた大きな石柱がある。どなたの手跡かと裏面を見るが、経年劣化で詳細に読み取れないのが、残念。

一応、方丈に挨拶を済ませて、隣の真福寺(浄土真宗本願寺派)の境にある亀井南冥先生の墓に向かう。近年、どこの寺院に行っても後継者に恵まれない墓所を目にする。改葬された跡には、新規に墓所を設けることができるという小さな案内の碑があり、無縁墓として処分するとの看板が立っている墓石もある。優遇税制にあるとはいえ、お寺も檀家のお布施などで成り立っているだけに、なんとも心痛む光景だ。

そんな中、亀井南冥一族の墓は福岡県指定の文化財として綺麗に保存されていた。安堵するが、その右手には、亀井一門の高弟であった江上苓州、筑前勤皇党の左座謙三郎の墓碑が立っていた。お寺さんのご厚意で史跡として遺されたようだ。

亀井南冥の身分は高くない。封建的身分制度の時代からすれば成り上がり者の類である。水戸学の中興の祖ともいうべき藤田幽谷も水戸藩では「古着屋の分際」と陰口を叩かれ、天下に名声を誇った子息の藤田東湖は「古着屋の倅」であった。同じく、亀井南冥も福岡藩校「甘棠館」の館主ではあっても低い扱いだった。そのことは、南冥死後、子息の昭陽の処遇を見ても歴然である。しかし、この亀井南冥の思想の系譜は秋月藩の原古処、豊後日田・咸宜園の廣瀬淡窓へとつながっていた。

この学問の系譜について、まだまだ、不明の点は多い。墓碑、顕彰碑から読み解く事々は多いのではと考えている。継続して調査を続け、後世に遺していきたいと考えている。
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亀井一族の墓碑群(南冥を中心に)

「時代の変化に敏感な論説を読みたい」令和2年10月20日

第一次世界大戦後に発足した国際連盟。この連盟規約に人種差別撤廃を日本が提案。それを、真正面から反対したのが、オーストラリアのヒューズ首相だった。白濠(豪)主義(白人優位の思想)のオーストラリアとしては、絶対に認められない日本の提案だった。このヒューズ首相の剛腕ぶりについては、近衛文麿の『戦後欧米見聞録』に詳しい。


そのヒューズ首相が、日英同盟の継続については否定しなかった。むしろ、同盟継続を肯定している。人種差別撤廃に反対したヒューズ首相だが、不思議なことに日英同盟は否定していない。実は、この陰には親日家のマードック(夏目漱石の東京帝国大学時代の師)がいたからだった。ながいこと鹿児島で生活し、西郷どんのような質素倹約の生活をし、ヒューズ首相と親交があった。しかし、結果として、アメリカ、カナダの圧力で大正10年(1921)、日英同盟は廃止となった。


先述の近衛の見聞録では、第一次世界大戦終結前、ボルシェビキ(多数を意味する共産主義)の活動が始まっていた。その影響は大西洋を越えて、カナダを拠点とし、アメリカに浸透していた。第二次世界大戦後、戦争責任はルーズベルト大統領にあるとビーアド博士が糾弾した。その最たるものは、アメリカ大統領府が旧ソ連の意を受けたカナダ系コミンテルンの巣窟だったからだ。


近衛文麿、廣田弘毅、松岡洋右らは、早くからコミンテルンによってアメリカ大統領府が支配され、日米戦争不可避を知っていた。昭和12年(1937)6月、第一次近衛内閣が組閣され、外相として廣田弘毅が入閣した。首相経験者が外相として入閣する意図はどこにあったのか。この年の11月末、廣田はニューヨーク駐在の若杉要から秘電によって、日米戦争不可避を知る。


やはり、同年11月15日、横浜発の船上には南満州鉄道総裁松岡洋右の意を受けた竹田胤雄の姿があった。表面上は満鉄のニューヨーク事務所長としての赴任。しかしながら、ホーンベック博士に接触し、情報を収集することが目的だった。竹田も日米戦争不可避を松岡に打電した。


昭和5年(1930)、第一次世界大戦での五大戦勝国の間での海軍力削減交渉としてのロンドン軍縮会議だった。その実、次の覇権を巡っての肚の内の探り合い。満洲を含む中国大陸での権益、市場を狙っての駆け引きだが、これはそのまま日米戦争の前哨戦でもあった。この頃、しきりに軍縮についての意見を求められたのが、日露戦争日本海海戦での英雄・元帥東郷平八郎だった。明治26年(1898)、邦人保護の為、軍艦「浪速」でハワイ沖に駆け付けた。明治31年(1898)のアメリカによるハワイ侵略をつぶさに見ていた人でもある。ロンドン軍縮会議が日本との戦争準備であると見抜いていたのではないか。


某新聞に「英雄伝説の虚と実」として、東郷が軍縮に反対し、晩節を汚したかのような記述を目にした。参考文献は、『米内光政』(阿川弘之著)であったが、本書は平成6年(1994)の刊行である。四半世紀以上も前の評伝から引用し、組織論、世情、東郷を語っている。しかしながら、戦後75年、歴史が凍結されたままの日本と異なり、刻々と諸外国では機密文書が公開され、事実を追及する研究が進んでいる。機密文書の公開だけではない。日露戦争直後、ロシアが日本への報復として工作員を送りこんでいたことも文献で解説されている。


紙面を読みながら、時代の変化に敏感な、オオっと、注目に値するような論説を読みたいと思ったのだった。


                                                      以上


【参考文献】


・近衛文麿著『戦後欧米見聞録』中公文庫、昭和56年、13ページ


・平川祐弘著『漱石の師マードック先生』講談社学術文庫、1989年、137ページ


・江崎道朗著『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』育鵬社、2020年


・篠原正一著、『久留米人物誌』久留米人物誌観光委員会、昭和56年、714ページ

「なぜ、中国と提携したのか」 令和2年9月17日

現代日本では、明治27年(1894)から始まった日清戦争を、日本による中国「侵略」の始まりと教える。しかし、この戦争の当事国である清は満洲族政権であり、現代中国の根幹を成す漢民族は満州族に支配される植民地の民であった。満洲族に支配される漢民族は、およそ260年にわたり、韃慮(だつりょ)と蔑む満洲族に従うしかなかった。一般の日本人が中国人に抱く印象としての辮髪(おさげ髪)、チャイナ服にチャイナ帽は、満洲族が漢民族に強制した満洲族の風習である。

イギリスは清国から茶を輸入していた。しかし、清国はイギリスから何も輸入する物がない。輸入超過に陥ったイギリスは、インドで栽培したアヘンを清国に売りつけ、茶の代金と相殺する方法をとった。アヘンの輸入超過、国民がアヘン中毒者になっても、何の痛みも感じない清国だった。取り巻き官僚の驕り、封建的身分制度による特権、腐敗の極にあった。この状況に危機感を抱いたのは、日本の志士たちだった。特に、自由民権運動団体の志士たちは、アジアを侵略する欧米列強に対抗するには、漢民族との連携が必須と考えた。

朝鮮の政治改革に取り組んだ日本だが、清国(満洲族政権)の属国に甘んじる朝鮮に、危機感はない。大国の清を過信し、文化程度の低い日本の忠告を疎ましく思っていた朝鮮だった。この状況認識の乖離から、いくつもの摩擦が日本と朝鮮との間に発生した。

そこで、日本の志士たちは、日中(漢民族)が連携し、政権が変われば朝鮮の政権も変化するとして、漢民族との共闘を模索した。それが、孫文、黄興の革命を支援する機縁になる。日清戦争勃発のニュースに、孫文は、漢民族の政権樹立の革命戦争到来と狂喜した。

明治37年(1904)の日露戦争は、アジアを侵略するロシアの脅威を取り除く安全保障の戦争だった。当然、そこには、清国、朝鮮が含まれてのことだった。しかし、当時の李氏朝鮮は、封建的身分制度の国であり、農民たちは奴隷に等しく、生殺与奪権を持つ支配層の両班(ヤンパン)に苦しめられていた。李氏朝鮮の「今だけ、金だけ、自分だけ」の両班には、自分たちの生活が保障されれば、ロシアの植民地になろうが、まったく関係なかった。

 現代、明治以降の日本はアジア侵略、支配を画策したとして糾弾される。しかし、それは、アジアを侵略した欧米列強(ロシアを含む)の詭弁に過ぎない。いわば、濡れ衣を着せられて戦後75年。今だ、ゆがんだ歴史教育が行われているのが日本である。
                                                              以上

参考文献・資料

浦辺 登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 12」令和2年9月2日

昭和43年(1968)4月23日、三島由紀夫は「銅像との対話 西郷隆盛」という小文を産経新聞に発表した。ここでいう銅像とは、あの上野の西郷さんを指すが、三島が西郷隆盛について「解かった」と述べたものだ。

ある時、玉利斎氏に電話をすると、「ちょうど良い。今度、憂国忌で話をするから、聞いてくれ」と言って、受話器越しに「銅像との対話」の朗読を聞く羽目になった。一人謁に入って朗々と語る玉利氏。

三島は、なぜ、西郷隆盛について新聞に寄稿したのか。この背景には、実に、不思議な玉利家三代との縁がある。玉利氏は三島さんにボディ・ビルをレッスンし、玉利氏の父・三之助は三島さんに剣道の稽古をつけた。その三之助の父、玉利氏の祖父は玉利喜造といって、日本初の農学博士である。この玉利喜造が鹿児島に居る時、西郷隆盛と関係があった。時代は、明治10年(1877)の西南戦争前のことだが、鹿児島では新政府に対する不満が充満し、政府は政府で、反政府の要衝となる鹿児島の制圧を考えていた。そんな中、一人、黙々と勉学に励む玉利喜造。西郷さんの下に結集しない玉利喜造を仲間が引き立て、西郷さんの前で釈明させた。その玉利喜造の話を黙って聞いていた西郷は、玉利喜造に上京しての勉学を勧めた。もし、西郷隆盛が、玉利喜造に勉学を勧めなかったら、玉利喜造は世に出ることも無く、逆に戦場で命を落としていたことだろう。

当初、三島さんは、「若い者を引き連れて、最期は腹を切って・・・」と西郷隆盛を評価していなかった。しかし、考えてみれば、「楯の會」の若い者を引き連れ、城山ならぬ陸上自衛隊東部方面総監室で三島さんは腹を切るのだから、人の生きざまは分からないものだと玉利氏は語った。

玉利斎氏は、三島さんとボディ・ビルを通じて親交があったが、よく、討論もしたという。陽明学、武士道、そして、西郷隆盛についても。肉体が変化していくとともに、武士の生きざまも精神も、三島さんの身体に染みこんでいったという。

玉利斎氏が急逝した後、平成30年(2018)11月23日、私自身が「福岡憂国忌」(福岡市東区箱崎の筥崎宮)で玉利家三代と三島さんについて語ることになった。存命であったなら、「君が西郷さんと、三島さんを語るのか。そりゃあ、実に、面白い!」と玉利斎氏は豪快に笑ったことだろう。当日、玉利斎氏への追悼の意味も込めて、「福岡憂国忌」で「三島由紀夫と玉利家三代」について語った。

                                                      以上

【参考文献】

・『玉利喜造伝』玉利喜造伝記編纂事業会編、昭和49年、私家版

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 11」令和2年8月30日

三島由紀夫に剣道の稽古をつけたこともある玉利斎氏の父・三之助は剣道九段範士だった。玉利斎氏の話は、時折、剣道の話にも及んだが、著名な剣の達人、剣道の名手を「知らない」と言うと、いかにも驚いたように、がっかりしたような表情をされる。玄洋社の歴史を記録する人間(筆者)が、斎村五郎を知らないのか・・・、島田虎之助は知っているよな?など、ボディ・ビル以外にも話は及んだ。

剣道だけではなく、柔道の話にも及んだが、玉利斎氏はボディ・ビルを始める前には、柔道をやっていた。ある日、大学(早稲田)柔道部の道場に見知らぬ人が稽古着を着て座っている。一年生は道場の掃除などをしなければばらないので、早めに行く。どこの誰かは知らないが、大学のOBだろうと思って挨拶だけはした。すると、「おい、そこの一年坊主、俺の相手をしろ」と言う。自分は、まだ、一年生で稽古の相手にもなりませんと断ったが、「構わん」と言われ、稽古の相手をした。なんの、こんな小さなジイサン、と思って組んでみたら、びくともしない。そこで、力いっぱい、道着を掴んで投げ飛ばそうとした瞬間、逆に畳にひっくり返っていた。今度こそ、と思ってムキになればなるほど、瞬時に投げ飛ばされている。そんなことが続き、息があがり始めた頃、「じゃ、今日は、ありがとう」と言って、その人は去っていった。あっけにとられて、ただ、頭を下げて見送るしかなかった。

しばらくしてから、玉利氏は思い出したそうだ。もしかして、あの人は、牛島辰熊では・・・と。牛島辰熊とは、あの「世紀のプロレス対決」とも、「プロレスの巌流島の戦い」ともいわれる力道山、木村政彦の試合で、力道山のセコンドについたのが牛島辰熊だった。玉利氏の父・三之助と牛島辰熊は、戦前の天覧試合で剣道代表、柔道代表で出場した仲だった。以後、何かと気が合い、戦後も長く親交があったという。牛島辰熊は弟子である木村政彦の敵手のセコンドについた。この場面は、後のテレビアニメ『巨人の星』の星一徹、飛雄馬親子が敵対関係になる場面に重なる。

玉利氏が語るには、あの玉利三之助の息子が柔道をやっていると小耳に挟んだのだろう。玉利(三之助)の息子が、どれほどの腕かを試しにきたんじゃないのか・・・。「それにしても、組んでも、岩のようにビクともしないのには、恐れ入ったねぇ・・・」。遠くを見るような表情で、懐かしそうに語ってくれた。

平成23年(2011)11月6日付の熊本日日新聞に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著)の書評を寄稿した。分厚い一冊だったが、実に面白かったので玉利斎氏にプレゼントした。「インド(ボディ・ビルの世界大会)に行く飛行機の中で読み耽ったよ・・・。実に、面白い本だった」と玉利氏は語った。
                                                      以上

・玄洋社 明治12年(1879)に創立した福岡発祥の自由民権運動団体

・斎村五郎(1887~1969)剣道十段範士、「剣聖十段」の異名を持つ

・島田虎之助(1814~1852)豊前中津藩出身、勝海舟の剣の師としてしられる

・牛島辰熊(1904~1985)柔道家、九段

・木村政彦(1917~1993)柔道家、七段、プロレスラー、総合格闘技家

・力道山(1924~1964)元大相撲関取、プロレスラー、

・「巨人の星」梶原一騎原作、川崎のぼる原画のテレビアニメ、スポーツ根性ドラマ

 

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 10」令和2年8月19日

三島さんが自決したあと、葬式にも供養にも行かなかった。しかし、お焼香をさせてくださいと、三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)に電話をした。

「ご立派な最期でしたね」とお母さんに言ったら、「玉利さん、そう思われますか。それを聞いて、倅がどれほど喜ぶことでしょう」と言われた。

三島さんは文で評価された人だけど、「戒名には文を入れないで、武だけにしたい。」

「ジジイが元気になることを教えてくれ」とも言っていた。

ある時は、「僕には幕臣(永井尚志)の血が流れてるんだ」と言って、子供のように、嬉しそうに語ったのを思い出すね。

渋谷に一緒に映画を見に行ったんだけど、それが「原子怪獣」とかいうやつだった。三島さんが、ゲラゲラ笑って観てるんだ。UFO(未確認飛行物体)にも、関心もってたね。純粋な人だった。善も悪も評価する人で、インチキを嫌った。

玉利斎氏は、ことあるごとに、ポツポツ、断片的に思い出した事々を口にした。

ある時など、九段下の「九段会館」のある交差点で急に立ち止まり、じっと、空を見上げていた。その日、東京にしては珍しく空が青く澄み、雲一つなかった。

「三島さんが、腹切ったのは、こんな空が澄んでいた日だった」

絞り出すように口にして、玉利氏は、じっと、空を見上げていた。仕方ないので、その側で一緒に空を見上げていたが、きっと、周囲の歩行者、往来の車列の人々からは、奇妙な光景に見えたことだったとう。

またある春の夕暮れ時、玉利斎氏と夕食を兼ねて飲んでいた。無心にビーフ・シチューか何かを口にする玉利氏だった。すると、「やってるな、玉利さん」と声が聞こえた。誰か、玉利氏の友人が来たと思ったら、誰もいない。玉利氏の隣を見ると、茶色の小さな物体が見えた。あれっ?と思い、背後の窓ガラスを見ると、玉利氏の背中しか映っていない。再び、玉利氏の隣を見ると、その茶色の物体は消えていた。

後日、玉利氏にその謎の場面を話すと、「君には、見えたのか・・・」と言う。時折、三島さんは、玉利斎氏のところにやって来るようなのだ。

 いまもって、この不思議な空間体験の真相はわからない。

 

*永井尚志(1816~1891)父方の高祖父、長崎海軍伝習所総監理などを歴任

*戒名は「彰武院文鑑公威居士」として多磨霊園平岡家の墓碑銘に刻まれている

                                                      以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 9」 令和2年8月17日

「もう、いいよ」(ボディ・ビルの個人レッスン)ということで、三島さんとの縁は絶えていたんだけど、『文化防衛論』か『英霊の聲』を出した頃、三島さんと再会したんだ。オヤジ(玉利三之助・嘉章)の使いで三島さんに竹刀を届けにいったけど、後楽園ボディビルセンターだったと思う。その時、三島さんの身体に精神力が伴っていると感じた。三島さんは「社会人として行動すべきではないか?」と俺に言うんだ。

また、「現代社会に、価値があるのかい?」とも口にしたね。

現代社会に身体が媚びる必要はない。経済、カネに振り回されている。時代に媚びない。身体側の論理、それが武士道だと言う。武士道とは?と質問したら、「勇気、正義だ」という。観念の人だと思った。この頃から、(三島さんは)日本回帰していた。

しばらくは疎遠状態だったけど、その間に三島さんは行動の世界「楯の會」を立ち上げた。この時、理屈抜きで三島さんに近寄ったのが、森田(必勝)だった。三島さんは、芸術的、政治行動としての玉砕を考えていたのだろう。あの自決は。舞台設定を自らした、天才の感受性だった。

三島さんが自決したあと、しばらく、三島さんの呪縛から抜けられなかった。ある時、三島さんが夢に出てきたんだ。小高い山があって、その上の方に神社があった。その途中、石段の途中に踊り場があって、そこに五、六人の人がいる。その中に、三島さんが居たんだ。「生きてた!」と思った。そうしたら、三島さんが足を出せという。足を出したら、墨汁が入ったバケツがあって、それに足を入れて、そばの紙に足形をとるんだ。それが終わると、「俺は、もう、行かなきゃいけない」と言って、消えてしまった。その夢だけど、(意味を考えて)「現実に足を踏まえて生きていけ」という三島さんのメッセージだと思った。

この夢の話のあと、玉利斎氏は、文と武は日本対世界。個と組織は東洋対西洋と言う。玉利氏独自の、なんらかの世界観があったのだろうが、今となっては、その深い意味を知る(確認)ことはできない。ただ、西郷隆盛については、三島さんとよくやった(論争)と言っていた。振り返れば、それが、『銅像との対話 西郷隆盛』という小文につながったと考える。

・『文化防衛論』昭和43年(1968)「中央公論」掲載、翌年、新潮社より刊行

・『英霊の聲』昭和41年(1966)初出、河出書房新社より同年に刊行

・玉利三之助は自身で竹林に入り「嘉章」の号で竹刀を作っていた

・「楯の會」昭和43年10月5日創設~昭和46年2月28日解散

                                                                                                                                                                                                 以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 8」令和2年8月5日

オヤジ(玉利三之助・剣道九段範士)の使いで、時々、青山二郎の会に行っていたんだ。小林秀雄とか白洲次郎とかが仲間にいたな。白洲のバアサン(正子)はいたかもしれないなぁ。

「刀剣美術保存協会」というのがあって、初代会長が有馬頼寧だった。オヤジが刀の目利きもするんで、使いに行っていた。ワカモト(整腸薬)社長の長尾ヨネさんが銀座に小料理屋をもっていて、そこがサロンみたいになってたな。

ある時、若造だから、末席で酒を飲んでいたら、青山二郎がやってきて、文句を言うんだ。こっちは、オヤジの使いで来てるのに、「なんだ、この野郎」と思ってたが・・・。こんな話を三島さんにしたら、「本物に会うようになったね・・・」と言うんだ。「分からんよなぁ、そんな一介の学生に本物がどうだか何だか・・・。」

そういや、オヤジは、日夏耿之助さんと仲が良かった。日夏さんとの酒飲みの会を作っていて、そこに幸田文さんも来ていた。

三島さんと一緒の時、三島さんは本屋によく足を運んでいたね。そして、新刊ものを見ていた。ユング(心理学者)に興味を持っていた、集合的無意識とか。

三島さんはボディ・ビルは終生止めていなかったけど、(半年ほどで)個人レッスンは「もう、いいよ」ということで会う事がなくなった。しかし、オヤジが参議院会館の剣道場で三島さんと会ったので挨拶にいった。「いつも、息子がお世話になっています」と。そしたら、稽古をつけてくれと言われたそうだ。オヤジが言うには、三島さんの剣道は固い、ガチガチ。だけど、「機鋒が鋭い」と言っていた。八田さん(八田一朗、参議院議員、1964東京オリンピックでのレスリング日本代表監督)に、剣道の師範としてオヤジが呼ばれていたころと思う。

玉利斎氏の話は、いつも、筋道だっていたが、時に横道にそれる。しかし、その外れた話に面白み、興味深いものが多かった。

*青山二郎(1901~1979)美術評論家

*小林秀雄(1902~1983)文芸評論家、作家

*白洲次郎(1902~1985)実業家

*白洲正子(1910~1998)随筆家

*有馬頼寧(1884~1957)農林大臣、JRA理事長、第15代有馬家当主

*日夏耿之助(1890~1971)詩人

*幸田文(1904~1990)随筆家、小説家

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 7」令和2年8月1日

三島さんとの付き合いは、ボディ・ビルのレッスンだけじゃなかった。歌舞伎の舞台稽古なんかにも連れていってもらったね。確か、歌舞伎の台本か何かを書いていた時だった。歌舞伎の女形というのは、私生活も女なのには、驚いたね。文士劇にも連れて行ってもらったし、洋品店でネクタイを買ってくれたこともあった。「玉利さんは、文学青年じゃないから安心だ」と言うんだよ。文学論を振り回さないから。そうそう、サラリーマンになってはいけないとも言われたね。なぜかは、知らんが。

身体ができてくると、三島さんは「動くスポーツがやりたい」と言い出した。それなら剣道が良い、年齢をとってもできるからと薦めたんだが、「あまり日本的だ。西欧的スポーツ、外国のスポーツをやりたい」というんだ。ただ、テニスはスノッブ(上品ぶっている)と言っていたね。

そして、「やらない」と言っていたボクシングを背いてやってしまった。しかし、スパーリングの相手が、もし、三島さんの頭を叩いてしまったら大変なことになる。ということで、本気で相手をしないので、三島さんから止めてしまった。

そしたら、「日本的だ」と言った手前、隠れて剣道をやって、何人か師を巡ったようだね。ある警視庁の剣道の師範についていたけど、この師範はオヤジ(玉利斎氏の父は剣道九段範士の玉利三之助)から、精神が無い、バタついた剣道をすると評される人だった。

いずれにしても、半年間、みっちりと(ボディ・ビルの)トレーニングをしたことから、身体と共に精神構造にも変化が出て、行動の変化につながった。

銀座にサンケイ・ボディビル・クラブがあったけど、どこに行っても見劣りしない身体になった。確か、祐天寺(東京都目黒区)にいた頃と思うけど、『鏡子の家』にボディ・ビルについて書いていたと思う。

しかし、三島さんは身体のことは叶わないと、(常々)コンプレックスを持っていた。そういえば、「平凡パンチ」の編集長(椎根和さん)は三島さんの剣道の弟子を自認していたねと、玉利斎氏は語ってくれた。
 

*歌舞伎 三島は幼少の頃、祖母に連れられ歌舞伎の観劇をした影響もあり、「鰯売恋曳網」などの脚本を書いた。

*三島がテニスを「スノッブ」と評したのには、別の訳があるともいわれる。

*『鏡子の家』 「戦後は終わった」と言われた昭和33年(1958)頃の作品。

 

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 6」 令和2年8月1日

三島さんは、(ボディ・ビルによって)半年で身体ができた。青春の謳歌もない三島さんだったが、この身体ができたことで青春を取り戻したんだ。

ある時、「鉢の木会」という大岡昇平、吉田健一、福田恒存らがメンバーの文人の会があって、そこで三島さんは福田から「マグロになりたいのか。干物には干物の価値がある」と呵々大笑されたというんだ。三島さんが、ボディ・ビルを始めたと聞いて、福田はからかったんだ。

ボディ・ビルのレッスンが終わってから、三島さんの朝飯が始まるんだけど、三島さんのお母さんが手作りの料理を出してくれた。ビーフシチュー、具がたくさん入ったオムレツなんかが出たね。三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)がお給仕してくれるんだ。当時、ボディ・ビルをやってる連中は、タンパク質を摂らなければいけないといって、たいてい、そんなにカネがあるわけじゃないから、納豆に、煮干しだよ。だから、三島さんの家で出される食事は良かったね。お母さんが、三島さんの為にと、一所懸命だったんだろうね。時には、家で食事をしないで、そのまま歩いて駅まで行って、(東急)東横線に乗って食事にいくこともあった。文春倶楽部というのがあって、そこに文人が集まるんだけど、三島さんは丁寧にそれぞれに挨拶をされていた。高見順とか、堀田善衛とがいたけど、三島さんは嫌いな人がいると「出よう」と言って、さっさと出ていくんだ。三島さんは堀田善衛が大嫌いだった。

外で食べる時も、バランスよく、タンパク質を考えて選んでいた。三信ビル(東京都千代田区有楽町)の「ピーターズ(レストラン)」に行ったし、新宿に行くこともあった。全部、三島さんもちだった。三島さんからは、(ボディ・ビルの)レッスン料はいくらでも良いと言われた。当時はまだ学生だし、カネは欲しいけど、こちらも誇りがあった。「天下の三島由紀夫からカネは受け取れません」と言ったから、食事代なんか、全部、出してくれたね。

幼少の頃に実母を亡くした玉利斎さんにとって、倭文重さんの料理は思い出深いもののようで、懐かしそうに、当時の思い出を語ってくれたのだった。

*「鉢の木会」昭和24年(1949)にできた文人の会。戦後の物資不足の中、ありあわせの物でも良いから会を開くという主旨。

*大岡昇平(1909~1988)小説家、代表作は『俘虜記』『レイテ戦記』

*吉田健一(1912~1977)文芸評論家、小説家

*福田恒存(1912~1994)文芸評論家、劇作家

*高見順(1907~1965)小説家、詩人

*堀田善衛(1918~1998)小説家、評論家

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 5」

三島さんへのレッスンは、晴れた日は庭でやってたなぁ

レッスンを始めたのは、会って、数日後からだった。東急(東京急行)東横線「都立大駅」近くに、お父さんの平岡梓さんの家があった。中の上(クラス)ほどの家だった。レッスンを始めようにも、ベンチが売っていない。そこで、梓さんが出入りの大工さんに作らせた。バーベルも特注で、50キロのものがあった。ダンベルは、どうだったかなぁ。

 三島さんの胸は細く、薄い。ただ、胸毛はたくましかった。

レッスンを始めるにあたって、三島さんと約束した事があった。まず、健康診断を受けること。当時の三島さんは、不眠症、胃弱だった。冷やかしはダメ、本気でやること。継続すること。自分勝手な練習をしないこと。レッスンには、スケジュールを立てたね。

三島さんの家には、週二回、火曜と木曜に行った。三島さんは、夜の8時から書き始めて、朝の5時にはやめてた。そして、だいたい、朝11時に起きるんだ。練習は昼の12時から始めるから、食事なしだった。行くと、三島さんは海水パンツで待っている。

まず、柔軟体操を10分から15分ほどやって、カールというバーベル、シャフトだけで10キロのものに、1.25キロの重りを左右に付けて、合計で12.5キロで始めた。これは、型を覚えさせるためだった。次に、ベンチ、スクワット、それに呼吸法も大事。

ちょうど、取材のジャーナリストが来ていて、からかうんだ、三島さんを。しかし、三島さんは怒らない。男が何かをやる時は、批判は覚悟。死ぬときも一緒で、批判覚悟だよと。

 英雄的行為ができる身体になる。


三島さんのレッスン開始前の写真があるけど、(他人に)見せたら絶交だ!と冗談でいっていたけど、半年ほどして軽口が言える関係になったね。三島さんが死んでから、あの写真(ガリガリに痩せた肉体)を見せるようになったけどね。

 

*レッスン開始は昭和30年(1955)9月16日。ゆえに、玉利斎氏が三島に初めて会ったのは、9月13日頃になる。

 

【参考文献】

『武人 甦る三島由紀夫』(晋遊舎)

『東京の片隅から見た近代日本』(浦辺登著、弦書房)

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 4」令和2年7月9日

「三島さんがボディ・ビルに興味を抱いたのは、1年か2年前に世界旅行に行って、ボディ・ビルの雑誌を目にしたのがきっかけらしい。たぶん、ウィダーが出している雑誌だと思うけど。」玉利斎氏は、そう語り始めた。

いろいろ話を聞いてみると、三島さんは子供のころから身体が弱かった。朝礼の時は、貧血で倒れる。体育は見学。男だから体育はやってみたい。しかし、身体が丈夫じゃないから、本ばっかり読んでいて、将来、小説家になるしかない。それ以外、道が無かった。

三島さんは丙種で兵隊にとられたけど、即刻、帰郷を命じられたほどの身体さった。しかし、ヘミングウェイなんかは、内向的な作品だが、その生活は健康的で明るい。その点、日本の作家は、せいぜい、女と心中するのが多い。例えば太宰(治)、芥川(龍之介)。

あのピカソ(画家、1881~1973)だって、80歳なのに、裸で絵を描いて、若い女と付き合っている。私生活は健全でありたい。精神まで虚構に没累、虚構の産物に自分を埋めることはない。足腰立たなくなって、それでもベッドごとテレビ局に行って、ヘタレ口たたいてやる。そう三島さんは語っていた。引目鉤鼻が平安朝の色男だが、日本の作家の生きざまをしたくない。ボディ・ビルによって自分の小説が、どう変化するか実験したい。

玉利斎氏は、三島さんと出会った時の話を記憶の限り、語ってくれた。しかし、マッチョ好みの丸山明宏さん(美輪明宏)に、三島さんが肉体を揶揄されたからという話はご存じなかったようだ。

 

*三島由紀夫は昭和26年(1951)12月25日から、翌年の5月10日(8日とも)まで世界一周旅行に行った。朝日新聞の招待旅行であったと玉利氏は語ったが、当時、海外旅行は規制されており、三島は朝日新聞の特別通信員という肩書だった。

*ウィダーはボディ・ビルダーのためのプロテイン飲料などのメーカー。「シェイプ」「マッスル&フィットネス」「フレックス」の出版部門もあった。日本では森永製菓が「ウィダー・イン・ゼリー」として販売していた。

*三島には昭和3年(1928)生まれの妹、昭和5年(1930)生まれの弟がいる。

*三島が学習院初等科に入学したのは、昭和6年(1931)4月8日。

*三島は昭和19年(1944)5月16日、兵隊検査では第二乙種合格。昭和20年(1945)2月6日に入営通知を受けたことから身体検査を受けるが、右肺浸潤で即日帰郷となった。


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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 3」

三島由紀夫との出会いについて、あらためて玉利斎氏に話を聞いたのは平成25年(2013)7月29日のことだった。それまでは、断片的に、時間ができると語ってくれるのを聞くだけだった。

ある時、読売新聞の塩田丸男氏(1924~)が電話をかけてきた。ある作家がボディ・ビルに興味を持っている。何かは分からないが、ボディ・ビルの基本トレーニングの記事を見たという。軽い気持ちかもしれないけど、ボディ・ビルに興味をもっているので対応して欲しいという。「ある作家」ということだったけど、「良いですよ」と返事をした。

その「ある作家」というのが、『仮面の告白』(昭和24年、1949)などの作品で知られ、天才作家とも言われる三島さん(由紀夫)だった。三島さんはボディ・ビルに興味をもっただろうけど、こちらは違う世界の人として、逆に関心をもった。そこで、塩田さんに自宅の電話番号を教えたら、翌日には電話がきた。

「三島です!」と、その一言に驚いた。作家といえば、青白いという印象だったから。

そこで、今のペニンシュラ・ホテル東京(東京都千代田区有楽町)、昔の日活ホテル(日比谷ホテル)に、夕方4時くらいに待ち合わせの約束をした。日活ホテルは石原裕次郎が結婚式を挙げたことで有名だった。時間は正確だった。三島さんは「浮世のしきたりだから」と言う。初対面で「あれっ?」と思った。内向的な人と思ったら違っていた。同性愛(『仮面の告白』)の小説を書く人と思っていたから、少し、嫌悪感があったからかもしれない。しかし、その声は朗々と響く声で話す。

三島さんは大正15年か14年の生まれで、こっちは昭和8年(1933)生まれの、まだ早稲田(大学)の学生だよ。その若造に、三島さんは立って、深々とお辞儀をしたんだよ。会ったのは、昭和30年(1955)の夏だったと思う。互いに、上着は着ていなかった。

俺は、白のYシャツだったと思う。三島さんはスーツじゃなかったから、ラフな格好だったと思う。三島さんの声は大きく、そして、目が輝いていたのが印象的だったね。光を放つというか、目に力が有る人だった。礼儀正しさは、もって生まれた品の良さだと思う。

 

 *塩田丸男氏は読売新聞記者。週刊読売にボディ・ビルの特集記事が出たことが縁

 *三島由紀夫は、大正14年1月14日生まれ

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「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 2」令和2年6月11日

「楯の會」のどなたの話であったかは記憶に無い。三島由紀夫が自決したとのニュースが流れ、市ヶ谷の陸上自衛隊周辺は騒然としていた。報道陣、警視庁機動隊、野次馬がぐるりと取り囲む中、封鎖された正門前で暴れている男がいた。

 「俺は、海軍主計大尉だ!開けろ!」


 時代錯誤も甚だしい。すでに、旧軍が日本から消滅してから四半世紀になろうかとしていた。海軍主計大尉も何もあったものではない。しかし、村上一郎(1920~1975)は真剣だったという話だ。

村上は三島が自決してから五年後の昭和50年(1975)3月29日、自身の愛刀でもって自決した。村上は三島に敬意を表していたという。市ヶ谷に駆け付け、暴れたのも、その意識の一つといえる。

村上が三島に敬意を表していたのも、三島が村上の作品を評価していたからという。このことは、岡田哲也氏の『憂しと見し世ぞ』(花乱社)の7ページからの件に記されている。三島は、村上の小説『広瀬海軍中佐』を「人は少なくともまごころがなければ、これほど下手に書くことはできない」と評した。三島は、村上を褒めているのか、けなしているのか、解らない。ただ、「まごころ」という言葉が、村上の琴線に触れたのだろう。岡田氏は村上が主宰する同人誌に寄稿し、村上に師事した人とである。

他方、三島は村上の『北一輝論』を評価していたという話も「楯の會」の方から聞いた。岡田氏の内容と異なるが、いずれにしても、三島が村上の作品を読んでいたのは確かだ。大正14年(1925)生まれの三島に対し、村上は大正9年(1920)生まれ。年齢的には村上が年長であり、軍歴の有無からいえば、村上に軍配があがる。しかしながら、文壇での三島の存在は別格だった。

村上は、元治元年(1864)の「禁門の変(蛤御門の変)」で決起した真木和泉守を否定している。その村上も真木と同じく自決した。異なるのは、三島、真木のように決起ではなかったということである。

残念ながら、この村上一郎の人物について、玉利斎氏から聞きそびれてしまった。もしかしたら、語ってくれたのかもしれないが、私の受信装置が鈍感だったので、結果は同じことだっただろう。

ただ、北一輝の『日本改造法案大綱』などを読んだら、青年将校らはイチコロで感化されるでしょうねと、玉利さんを相手に語ったことは覚えている。

 

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「玉利斎さんとの思い出 三島由紀夫」令和2年6月7日

三島由紀夫が自決した時、私は中学二年生だった。同級生に、頭を怪我して白い包帯をハチマキのように巻いているのがいた。早速、三島の演説の真似をしてウケていた。三島が、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面統監室前のバルコニーから、ハチマキ姿で演説していたからだった。田舎町に一軒しかない本屋に立ち寄ると、三島の文庫本の棚はがら空きで、わずかに数冊しか残っていなかった。その一冊を買い求めたが、今となっては、その題名が何であったか、まったく記憶にない。

再び、三島が登場してきたのは、大学に入学してからだった。二浪の末に入学してきた同級生が、三島の心酔者だった。読め、読めと薦める。時には、「楯の會」のメンバーであった人を紹介してくれたが、さしたる興味も抱かなかった。友人が、「楯の會」メンバーを崇敬の眼差しで見つめていたのは覚えている。

今もって、全ての三島作品を読破したわけではない。しかし、好きも嫌いもなく、三島の人となりを耳にする機会がやってきた。縁あって、三島にボディ・ビルをレッスンした玉利斎氏と仕事を共にすることになったからだ。初対面ながら、「これは、手もとに一冊しかないけど、君にあげよう」と言って、ボディ・ビルの記念誌、剣道九段範士の実父(玉利三之助、嘉章)の記念冊子をくれた。ボディ・ビルの記念誌には、当然、三島との対談が収まっていた。

時折、一時間から二時間、玉利斎氏はスポーツの歴史、ボディ・ビルの歴史、玄洋社に関する歴史を語ってくれた。私はといえば、ノートに一字一句を書き留めていくのが精いっぱい。後で読み返すと意味不明の箇所もあるが、「読書百篇、意自ずから通ず」の言葉通り、次第に系統だった理解ができるようになった。

そして、三島との思い出話が折々に混じる。突然、三島が自宅に電話をかけてきたこと。軟弱な印象を三島にもっていたが、意に反し、その声は太く、強かった。「三島です!」と元気が良かった。機先を制されたとでもいう状態。自身の脇が甘かったとまでは口にされたかは覚えていないが、玉利氏は似たような言葉を口にされた。

人との出会いは、一瞬の油断から生まれる交差点での事故のようなもの。玉利氏の話を聞きながら、そんな風に思った。

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 *三島由紀夫、森田必勝は昭和45年(1975)11月25日に自決した。

No.36「南満州鉄道のはじまり」 令和2年4月18日

拙著の『玄洋社とは何者か』を購読された方から、第21話について質問があった。


日露戦争のポーツマス講和会議では、東清鉄道の権利をロシアが日本に譲渡することになった。これが後の南満洲鉄道になるが、この鉄道を小村寿太郎は日清共同運行でと考えていた。この日清共同運行について記された文献の照会、並びに共同運行にならなかった経緯についてであった。

この日清共同運行については、『山座圓次郎伝』(一又正雄 編、原書房、昭和49年)に記述されている。資料編として「韓満施設綱領」(未定稿)(極秘)があり、ポーツマス会議を終えた小村寿太郎が、一便先に帰国する随員の山座圓次郎に託した書類である。

この「韓満施設綱領」中に「満洲鉄道」という章があり、「名義上日清両国の協同事業となし、日本法律の下に一つの会社を組織し、該鉄道(東清鉄道のこと)及び付属財産の実価を以って、帝国政府の持ち株とし、清国政府の出資はその希望に任せ、(中略)日清両国人は勿論一般外人よりも株金を募集し、右等の資金を合わして、会社の資本となし・・・・」と出ている。つまり、小村寿太郎は、南満州鉄道を日清共同での運行を考えていた。

しかしながら、共同運行に至らなかった背景として、日清間に政治的不信感があったと考えられる。特に、露清条約、密約(賄賂の見返りに満洲の土地をロシアに譲渡する)、さらに、日英同盟下のイギリスが満洲での権益を求めて日清共同運行を阻害したりなどが考えられる。

南満洲鉄道設立後、大陸に適した機関車、客車、貨車はアメリカから購入した。これに対し、イギリスが日英同盟としての戦勝メリットが無いと、日本政府に注文をつけた。仕方なく、イギリスからも機関車などを購入したが、レール幅の相違(現在のJRのレール幅はイギリス仕様、新幹線のレール幅はアメリカ仕様)が、影響している。日露戦争中も日本軍の列車のレール幅とロシアが敷設したレール幅に相違があり、最前線への物資、兵員の輸送に苦慮した日本軍だった。満洲という大陸では、アメリカ大陸仕様のレール幅でなければ、使用に耐えられない。

蛇足ながら、この山座圓次郎(福岡出身、玄洋社員)という外交官は、後に中華公使として北京に赴任するも、謎の死を遂げている。権益を巡ってのイギリスとの暗闘が原因ともいわれている。

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【参考文献】

・御厨貴編『時代の先覚者後藤新平』(藤原書店、2004年)

・浦辺登著『東京の片隅からみた近代日本』(弦書房、2012年)