福岡市中央区地行の浄満寺には、福岡県指定文化財である亀井南冥一族の墓所がある。その一隅に、明治44年(1911)に建てられた石柱がある。経年劣化から刻まれた文字を読み取ることは容易ではない。さらに、撰文を起草した人物も不明。
これは、「贈従四位亀井南冥追慕碑」。しかし、その刻まれた文の意味が分からなければ、誠に残念に思うので、ここに可能な限り判明した内容を記したいと思います。
泮宮甘棠之遺風、後死斯文之托、果不虚矣、迨皇猷維新名器復古乎、可謂先生之志業亦酬歟、
明治四十四年十一月、龍駕西巡之日、聖恩及地下、贈位之特典、光彩照今古矣、今茲大正二年、會先生歿後一百年紀、學統門下士、與裔孫千里氏胥議、得大方高誼諸士之憀力、而營一大祭祀、舊藩主侯家、亦贊其擧、有祭資之奇、茲盡塋域、脩墳墓、建斯碑、而永為敬慕紀念焉、併勒先生為畢生之憾太宰府碑、自書之今尚存者于石、建於都府舊址、以紹其志云
福岡市地行浄満寺に在り。大正二年、先生の遺業たる太宰府址建碑と共に成る。
【譯文】
泮宮、甘棠の遺風、後死斯文の托、果して虚しからず。皇猷維れ新に、名器古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年十一月、龍駕西巡の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩今古を照らす。今茲大正二年先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方高誼諸士の憀力を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生の憾みたる太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐと云ふ。
【直訳】
泮宮(中国古代の諸侯の学校)、甘棠(立派な為政者に対し国民の敬愛の情が深い事)の遺風、後死斯文(学問の道)の托(まかせる、たよる)、果して虚しからず。皇猷(帝王のはかりごと)維れ新に(王者になるべく受けた天命は新しい)、名器(爵位と車や衣服)古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年(一九一一)十一月、龍駕(天子の車)西巡(九州への巡幸)の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩(あざやかな美しい色)今古を照らす。今茲大正二年(一九一三)先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方(世間のすぐれた人々)高誼(あついよしみ)諸士の憀力(たすけ)を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家(旧福岡藩主の黒田家)も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域(墓地)を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生(終生)の憾みたる(心残り)太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して(彫る)、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐ(受け継ぐ)と云ふ。
【意訳】
福岡藩校甘棠館の館長(総裁)であった亀井南冥先生の学問の功績は、甘棠館が廃校になったとはいえ、その思想の系譜は朽ち果ててはいなかった。天皇親政の維新、王政復古となったことで、亀井南冥先生の業績が再評価された。明治四十四年(一九一一)十一月、明治天皇が九州に巡幸された折、故人となっていた亀井南冥先生に贈位の特典をくだされた。昔のこととはいえ、先生の功績が蘇った。今ここに、大正二年(一九一三)亀井南冥先生の歿後一百年紀にあたり、先生の学問の系譜に連なる人々、先生の孫になる千里氏と、この慶事をどうしたものかと相談をした。高名で義理堅い人々の助けを得て、顕彰祭を行うことになった。旧福岡藩主の黒田公爵家からは、その顕彰祭に賛意を示され、祭祀料までいただいた。ここに、浄満寺の墓地を整備して、追慕碑を建て、永く亀井南冥先生を慕うこととなった。同時に、亀井先生が終生、心残りであったであろう大宰府政庁跡の碑が、今も、現存していることも追慕碑に彫って、政庁跡にも建て、亀井南冥先生の志を継承していきたい。
*亀井南冥(かめい・なんめい)
寛保3(1743)年8月25日~文化11(1814)年3月2日、福岡藩校甘棠館の総裁、およそ8年を務める。
*甘棠館(かんとうかん)
天明4年(一七八四)、福岡藩によって設けられた藩校、東の修猷館、西の甘棠館と呼ばれた、亀井南冥門下からは、村上仏山、廣瀬淡窓など多くの人材を輩出した。
*明治天皇は明治四十五年(一九一二)七月三十日に薨去された。
*浄満寺(浄土真宗本願寺派)
福岡市中央区地行2丁目3の3
以上