浦辺登のコラム

  • Home
  • 浦辺登のコラム

亀井少琹の墓を訪ねて 令和3年6月18日

九州は男尊女卑と言われる。しかし、そう見るのは間違いだ。とりわけ、筑前福岡藩(現在の福岡県)には、書画詩文に優れた亀井少琹(かめい・しょうきん)、男装の漢詩人原采蘋(はら・さいひん)、勤皇志士の母・野村望東尼、そして、玄洋社生みの親ともいわれる男装の女医・高場乱(たかば・おさむ)を尊重する。今回、これら才女のなかから、亀井少琹をご紹介したい。

亀井少琹(幼名は友)は寛政10年(1798)2月19日、福岡の唐人町(現在の福岡市中央区)に生まれた。父は亀井昭陽、祖父は亀井南冥という著名な儒医(儒者であり医者)の家に生まれた。特に祖父の亀井南冥は福岡藩校甘棠館(かんとうかん)の館主であり、自由闊達な学問の場として福岡藩内外から評判が高かった。更に、亀井昭陽も学者としての名声が高かった。そんな家庭環境もあってか、少琹は幼少から聡明であり、書画詩文に優れた才女として知られた。

「亀井友(少琹)空石(昭陽)の女(むすめ)にして雷首(三苫源吾)の妻たり、今宿(福岡市西区)に住す、扶桑第一(日本一)梅の詩を以て世に知られる、詩文書画に巧みなり、好んで四君子(蘭、菊、梅、竹のこと、気品があるので君子にたとえる)を書く、頗る奇韻(独特の風流)あり、采蘋(原采蘋)と並び称せられる」(『筑前人物志』より)

文化13年(1816)12月3日、父・昭陽の弟子であった三苫源吾と結婚し、別家を建て、今宿で医業と家塾を開く夫の亀井雷首を補佐する。亀井南冥、昭陽父子の弟子である廣瀬淡窓(豊後日田の咸宜園を開いた)、『日本外史』を著し漢詩人として著名な頼山陽も称賛する女性だった。

安政4年(1857)7月6日、60歳にして没したが、求められて描いた書画は今も人気。日本全国から豊後日田の咸宜園には秀才が集ったが、その原点ともいうべき学問所が亀井南冥、昭陽の亀井塾だった。その塾を陰で支えていたのが亀井少琹である。今、少琹は浄満寺(福岡市中央区地行2-3-3)の亀井一族の墓(福岡県文化財)に眠っている。

 

【参考文献】

・森政太郎編『筑前人物志』文献出版、昭和54年

・三松荘一著『福岡先賢人名辞典』葦書房、昭和61年

・アクロス福岡文化誌編纂委員会編『福岡県の幕末維新』海鳥社、2015年

浄満寺山門脇の石碑
左から3つ目の「少琹女史之墓」が亀井少琹の墓

伊藤野枝の墓参  令和3年6月2日

令和3年(2021)2月25日、矢野寛治氏の案内で伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓参に行った。大正12年(1923)9月1日、関東大震災でのどさくさの最中、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の三人は、甘粕正彦憲兵大尉に扼殺された。その三人の墓碑が伊藤の故郷である福岡市西区の某所に遺されている。

伊藤野枝は、明治28年(1895)1月21日、父亀吉、母ムメ(ウメとも)の娘として福岡県糸島郡今宿村大字谷(現在の福岡市西区今宿)に生まれた。裕福な家だったらしいが、近代化の波に晒され、家産は傾いていた。口減らしなのか、野枝は親戚の家や各地を転々とする少女時代を送り、それでも、東京の上野高等女学校を卒業している。実家が貧しいにも関わらず、なぜ、東京の女学校を卒業できたのか・・・詳細は不明だった。

その長年の疑問を解明してくれたのが、矢野寛治氏が平成24年(2012)に刊行した『伊藤野枝と代準介』(弦書房)だった。西日本新聞(福岡市)から書評の依頼があり、「2012年の一冊」として、本書を取り上げた。これが機縁となり、著者の矢野寛治氏との交流が始まった。そこで、矢野氏の先導で伊藤野枝、大杉栄、橘宗一の墓参となったのだ。

吉村精高氏が運転する車で福岡市西区某所にある墓に向かった。その昔、墓碑は誰もが知る場所にあったが、某が自宅の庭石に持ち去り、イタズラも絶えないことから、人目につかない山中に安置された。多くの方は、イタズラが絶えないのは、いわゆる「右翼」の仕業と思ってしまう。しかしながら、「右翼」の源流と呼ばれる玄洋社の頭山満と伊藤野枝が親族関係にあり、親交があったことを世間は知らない。伊藤野枝、大杉栄といえば無政府主義者、極左の立場にあり、右翼と左翼は対立するものと思っているからだ。対立するものが共存できる精神は日本の伝統であり、頭山は日本の伝統を身体に染みこませた人士である。左右対立が共存共栄できるなど、信じられない!と思う方は大杉栄の著書を一読いただきたい。

矢野氏に先導していただき、林道を登ること15分程。さらに、脇にそれて進むと、イノシシを捕獲する檻に出くわす。心無い人々にイタズラをされるのを避けるため、こんな寂しい所にあるのだ。吉村氏が持参した花束を傾け、水をかけまわす。矢野氏が線香を捧げる。

伊藤野枝の叔母は実業家である代準介の後妻となった。そこから代準介の後援を得て、野枝は上野高等女学校を卒業した。更に、代準介は頭山満の一族の者であり、代の紹介で野枝は頭山の家に親しく出入りするようになったのだ。

矢野寛治氏の著作によって、従前、フィクションの世界にあった伊藤野枝や大杉栄の実像が浮かび上がった。同時に、筆者の永年の謎も氷解したのだった。願わくば、小説という虚構によって形作られた伊藤野枝の真実の姿が明らかになって欲しい。

伊藤野枝墓

佐座謙三郎(ぞうざ(さざ)・けんざぶろう)の墓 令和3年5月11日

佐座謙三郎は天保11年(1840)、福岡藩士で馬取小頭佐座与平の長男として筑前福岡(現在の福岡市)に生まれた。諱は義直といい、通称として謙三郎と名乗る。一時、大野磯太郎の養子となるが、後に解消している。

性格は実直にして義侠心に富み、文武の道に励んだ。幼い時より月形塾の月形深蔵、月形洗蔵に就いて学んでいる。自宅の近くに菊池寂阿公※(菊池武時)の墳墓があり、勤皇の志から参詣を欠かさなかった。

文久3年(1863)秋、肥前国(佐賀藩、佐賀県)に行って勤皇の同志を訪れ交友。更に、筑後柳川(柳河藩、福岡県柳川市)にも行き、尊皇攘夷についての意見交換をしていた。元治元年(1864)3月、福岡藩筑前勤皇党の同志である中村円太が獄中にある時、円太の破獄(脱獄)を助けたことから、慶応元年(1865)6月、獄に投じられる。同年10月23日、いわゆる「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で斬刑となる。26歳だった。

後年、正五位が贈位された。墓所は『明治維新人名辞典』では正福寺にあると記載されるが、浄満寺(福岡市中央区)の亀井南冥一族の墓の隣にある。

 

※ 菊池寂阿公=南朝方の後醍醐天皇を支持する菊池武時のこと。元弘3年(1333)3月13日、戦死。現在の菊池神社(福岡市城南区)に胴体、「菊池霊社」(福岡市中央区・福岡県護国神社南の鳥居側)に首が埋葬されたという。明治35年(1902)、明治天皇より従一位が贈位される。

佐座謙三郎の墓碑(左端)

江上善述碑(鞆舎江先生之墓)令和3年4月28日

君諱善述、称六右衛門、考苓洲翁以文学興家、君励精武事、兼綜衆藝、以射侍于公臺、文政辛巳、為侍中、天保甲午、進班長、弘化乙巳、賜采百石、叙于上士列、為人重厚、外温内厳、淵嘿而不可犯、自初宦、三十八年、奉職惟慎、屢受賞賜、識者称其奉揚器、仕遭遇寵、而不霣先人之業命也、安政戌午十月四日、卒于武邸、年六十二、長子武述嗣、亦命掌公射之事、墓在麻布天眞寺裡、埋遺髪於斯、使余誌其碑背

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

【譯文】

君諱(いみな)は善述、六右衛門と称す。考苓(れい)洲(しゅう)翁文学を以て家を興す。君武事を励精し、兼て衆藝を綜ぶ。射を以て公臺(こうたい)に侍す。文政辛巳、侍中となり、天保甲午、班長に進む。弘化乙巳、采百石を賜ひ上士の列に叙す。

人となり重厚、外温にして内厳、淵嘿(えんこく)にして犯すべからず。初宦(しょかん)より三十八年、職を奉ずること惟れ慎み、屢屢賞賜を受く。識者其の奉揚の器、遭遇の寵に仕へ、而して先人の業命を霣(お)さざるを称す。安政戌午十月四日、武邸に卒す。年六十二。長子武述嗣ぐ。亦命じて公射の事を掌らしむ。墓は麻布天眞寺裡に在り、遺髪を斯に埋め、余をして其の碑背に誌さしむ。

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

【意訳】

あなたの生前の本名は善述だが、六右衛門ともいう。あなたの父の苓洲翁は文学を以て家を興したが、あなたは武術に精励し、併せて多くの武技もまとめた。弓術の指導者として福岡藩庁に努めた。文政辛巳(文政四年、一八二一)には、藩主の相談役となり、天保甲午(天保五年、一八三四)には組の長となった。弘化乙巳(弘化二年、一八四五)、給付米百石をいただくことになり、上士(上中下の武士階級の上)となった。

性格は重厚で、他者に対しては暖かいが、自分に対しては厳しく律する人だった。ゆえに、大臣の器量を備えるといわれた。初めての仕官から三十八年、真面目に職務に努め、褒賞を受けることはたびたびだった。その職務をよく知る人は、家老にまで出世できるほど藩主の信頼があったという。しかし、父の苓洲翁の家格を継承したのだった。安政戌午(安政五年、一八五八)十月四日、福岡藩江戸藩邸で亡くなる。六十二歳だった。長男の武述が家を継ぎ、武述もまた弓術の指導者となった。墓は麻布天眞寺裡に在るが、遺髪をここ浄満寺に埋め、私、亀井晹洲がその墓碑の裏面に撰文を遺す。

亀井鐵 撰

吉留厚 書

 

諱=いみな、生前の本名

考=父

苓洲=江上苓洲、亀井南冥の高弟の一人

衆=多くの

綜=すべる、まとめる、集める

臺=中央政府の役所

侍中=君主の身近に仕えて政務の相談を受ける役、

班長=組の長

采=領地、給与

重厚=人柄がどっしりとして重みがある

淵嘿=大臣の器量がある

奉揚の器=藩主を補佐する家老の器

遭遇=出世する

寵=君子のお気に入り

霣=落ちる、受け継ぐ

麻布天眞寺=福岡藩第4代藩主黒田綱政の開基、臨済宗大徳寺派、東京都港区南麻布

亀井鐵=亀井鐵次郎(亀井南冥の孫、昭暘の次男)

吉留厚=吉留杏村の関係者か?

 

*浄満寺には江上武述(伝一郎)の墓もあると言われるが、近くには見当たらない。

江上善述の墓(左から2つ目)

平野國臣の父親の墓、顕彰碑

福岡市博多区祇園町4-55の浄土真宗本願寺派順正寺には、平野國臣の父親の墓、顕彰碑がある。

 平野國臣も、幼い頃、母に連れられ順正寺に寺参りに来たという。平野國臣が、歩いた道として、この順正寺を訪ねてみるのも良いかもしれない。

 尚、父の能榮の顕彰碑の内容を記しているので、一読いただけましたら、幸いです。

 

 

平野能榮碑

 

明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、賜告自大坂府裁判所歸縣、泣而告余曰、先考之歿、吾宦於朝、不能會葬、爾後奄忽五歳矣、今始得上壟、欲立碣於墓側、述其生平而寫吾餘哀、子其為吾誌之、余雖不識君、獲交於其諸子、詳君事状、故不辭叙之曰、君諱能榮、稍吉三、三苫氏、姓大中臣右大臣和氣公清麿之遠裔、居筑前國志摩郡田尻邑者、後徒住福岡、父諱宣茂、母安武氏、以寛政十年戌午二月二十日生、文化五年戊辰、十一歳、承舊藩卒平野吉道後、既長以事往返東京、百數十度、其他行役諸國率無虚歳、藩主屢加褒賞、賜金増禄、明治二年己巳、特命烈士籍、四年辛未三月十四日、病終于家、享年七十四、葬於博多順正寺先塋、娶都甲氏、生四男二女、長子乙、出嗣舅氏之家、見為本縣十二等出仕、次國臣、嗣小金丸氏、後復本氏、元治甲子、歿于王事、次即能忍、嗣平山氏、次三郎、分家稍平野氏、次二女、長適中村五平、次適田中源工、而君之後則以都甲乙長子能明為之、於君實嫡孫也、君為人忠直廉潔、治家儉而有法、處事簡而得要、大度善容、臨變不動、人或説以于進、輙託他事辭之、唯孳々盡己職而巳、萬延文久間、次子國臣之密謀勤王也、兄弟同志、連累一家、而君従容處其間、不失所守、此二事可以概見其平素矣、自幼好武、精究剣槍諸技、最熟杖術拳法、藩主命教育少年子弟、天稟強健、及老而不衰、自承父至歿、中間六十四年如一日、是又人之所難得也、配都甲氏、有婦徳、善女工、傍解算書、人称為女鑑、文久二年壬戌八月十七日、先君而終、享年五十八、君之老健服勤、蓋有内助云、嗚呼、平野氏諸子、當朝政維新之日、累受恩旨、名聞於世、是雖賴諸子之立志不變、抑亦有得先考妣之訓誡、則能忍之追慕無措宜矣、而吾知平野氏之福未芠也、銘曰、

木有根本 水有源泉 孝子順孫 令徳不愆 于春于秋 祭祀之虔 魂而有知 安此新阡

福岡縣士族 臼井浅夫 撰

福岡縣士族 塚本 戢 書

碑は福岡市順正寺に在り。別に平野能榮先生墓と表したる碑あり。芥屋石にして方一尺、高さ三尺ばかり。

 

【譯文】

明治八年乙亥九月、六等判事、従六位平山君能忍、告を賜ひて大阪府裁判所より縣に歸り、泣て余に告げて曰く、先考の歿するや、吾れ朝に宦へて葬に會する能わず。爾後奄忽五歳、今始めて壟に上るを得たり、碣を墓側に立て其の生平を述べて吾餘哀を寫さむと欲す。子其れ吾が為に之を誌せよと。余君を識らずと雖も、其の諸子に交り君の事状を詳かにするを獲たり、故に辭せず、之を叙して曰く。君諱は能榮、吉三と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村に居る。後、徒って福岡に住す。父諱宣茂、母は安武氏、寛政十年戌午二月二十日を以て生る。文化五年戊辰、十一歳、舊藩の卒平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京に往返すること百數十度。其他諸國に行役して率ね虚歳なし。藩主屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年己巳、特に命じて士籍に列す。四年辛未三月十四日、病て家に終る。享年七十四、博多順正寺先塋に葬る。都甲氏を娶り、

四男二女を生む。長子乙出て舅氏の家を嗣ぐ。見に本縣十二等出仕たり。次は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後本氏に復し、元治甲子、王事に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長は中村五平に適き、次は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙の長子能明を以て之を為す。君に於て實に嫡孫なり。

君人となり忠直廉潔、家を治むること儉にして法有り、事を處すること簡にして要を得たり。大度善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于進を以てすれば、輙ち他事に託して之を辭す。唯孳々として己が職を盡すのみ。萬延文久の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連ぬ。而も君従容其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏、婦徳あり、女工を善くし。傍ら書算を解す。人称して女鑑と為す。文久二年壬戌八月十七日、君に先ちて終る。享年五十八。君の老健勤に服す、蓋し内助有りと云ふ。

嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累りに恩旨を受け、名世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑も亦先考妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなきこと宜なり。吾れ平野氏の福未だ艾ざるを知るなり。銘に曰く、

木根本あり、水源泉あり。孝子順孫、令徳愆らず。春に于て秋に于て、祭祀是れ虔しむ。魂にして知るあらば、此の新阡に安ずべし。

 

【意訳】

明治八年(1875)乙亥(十干十二支12番目の年)九月、六等判事、従六位平山能忍君が、告を賜ひて(官吏の休暇)大阪府裁判所より縣(福岡県)に歸り、泣いて余(臼井浅夫)に告げて曰く(言うには)、先考(父親)の歿するや、吾れ(私は)朝(朝廷)に宦(つか)へて(宮仕え)葬に會する能わず。爾(じ)後(ご)奄忽(えんこつ)(その後たちまち)五歳(年)、今始めて壟(つか)(墓)に上る(参り)を得たり、碣(いしぶみ)(石碑)を墓側に立て其の生(せい)平(へい)(平素)を述べて吾餘哀(よあい)(なぐさめきれない悲しさ)を寫(うつ)さむ(絵や文字に表現する)と欲す。子(平山能忍)其れ吾が為に之を誌せよと。余(臼井浅夫)は君(平野能榮)を識(し)らずと雖(いえど)も、其の諸子に交り君の事状(じじょう)(事柄、様子)を詳(つまびら)かにするを獲(え)たり、故に辭せず(断らなかった)、之を叙して曰く。君諱(いみな)(生前の本名)は能榮(よしえ)、吉三(きちぞう)と稍す。三苫氏、姓は大中臣右大臣和氣公清麿(右大臣和気清麿)の遠裔なり。筑前國志摩郡田尻村(福岡県糸島市志摩)に居る。後、徒って福岡に住す。父諱は宣茂、母は安武氏、寛政十年(1798)戌午(十干十二支の55番目の年)二月二十日を以て生る。文化五年(1808)戊辰(十干十二支5番目の年)、十一歳、舊(きゅう)藩(福岡藩)の卒(足軽)平野吉道の後を承ぐ。既に長じて事を以て東京(江戸)に往返すること百數十度。其他諸國(日本全国)に行役(こうえき)(旅行)して率ね虚(きょ)歳(さい)(何事も無い)なし。藩主(黒田斎清、黒田長溥)屢々褒賞を加え、金を賜ひ、禄を増す。明治二年(1869)己巳(十干十二支6番目の年)、特に命じて士籍(士族)に列す。四年(1871)辛未(十干十二支8番目の年)三月十四日、病て家に終る(病気で自宅にて亡くなる)。享年七十四、博多順正寺先塋(せんえい)(先祖の墓所)に葬る。

都甲氏を娶(めと)り、四男二女を生む。長子(長男)乙は出て舅(きゅう)氏(し)(母の兄弟)の家を嗣(つ)ぐ。見(まみえる)(社会に出て仕える)に本縣(福岡県)十二等出仕たり。次(続いて)は國臣、小金丸氏を嗣ぎ、後で本氏(平野)に復し、元治(元年、1864)甲子(十干十二支1番目の年)、王事(おうじ)(王室、帝室に関する事柄)に歿す。次は即ち能忍、平山氏を嗣ぐ。次は三郎、家を分ちて平野氏を稍す。次二女。長(長女)は中村五平に適(とつ)き、次(次女)は田中源工に適く。而して君の後は、則ち都甲乙(旧姓・平野乙)の長子能明を以て之を為す。君(平野能榮)に於て實に嫡孫(ちゃくそん)(家をつぐべき孫)なり。

君人となり忠(ちゅう)直(ちょく)(真直ぐなまごころ)廉潔(れんけつ)(心が清らかで行いが正しいこと)、家を治むること儉(つづまやか)(無駄を省き)にして法(おきて)(道理)有り、事を處すること簡(かん)(おおまか)にして要(大事なところをつかむ)を得たり。大度(たいど)(大きな度量)善く容れ、變に臨みて動かず、人或は説くに于(う)(満足する)進(すすむ)を以てすれば、輙(すなわ)ち(たちまち)他事に託して之を辭す。唯孳々(じじ)として(つとめはげむさま)己が職を盡すのみ。萬延文久(1860)の間、次子國臣の密かに勤王を謀るや、兄弟志を同くし、累を一家に連(つら)ぬ(一家もまきぞえをくう)。而(しか)も君従容(しょうよう)(ゆったり落ち着いた様)其の間に處して守る所を失はず。此二事以て其の平素を概見すべし。幼より武を好み、剣槍の諸技を精究し、最も杖術(神道夢想流)拳法に熟す。藩主命じて少年子弟を教育せしむ。天稟(てんびん)(生まれつきの気質)強健、老に及びて衰へず、父に承ぎてより歿するに至るまで、中間六十四年一日の如し。是れ又人の得難き所なり。配都甲氏(妻)、婦徳あり、女工(にょこう)(女子の仕事)を善(よ)くし。傍ら書算(文字を書き計算をする)を解す。人称して女(おんな)鑑(かがみ)(女性の手本)と為す。文久二年(1862)壬戌(十干十二支59番目の年)八月十七日、君に先(さきだ)ちて終る。享年五十八。君の老健勤(つとめ)に服す、蓋(けだ)し内助(妻の助け)有りと云ふ。

嗚呼、平野氏の諸子、朝政維新の日に當り、累(しき)りに恩旨(朝廷の褒賞)を受け、名は世に聞ゆ。是れ諸子の立志變せずるに頼ると雖も、抑もまた先考(父親の能榮)妣の訓誡に得ることあり。則ち能忍の追慕措くなき(計らい)こと宜(ぎ)なり(もっともだ)。吾れ平野氏の福未(いま)だ芠ざる(王室、帝室からの祝福は絶えない)を知るなり。銘に曰く、

木根本あり、水源泉あり。孝子順孫(祖父母に仕える孫)、令徳愆らず。春に于(おい)て秋に于(おい)て、祭祀是れ虔(つつ)しむ。魂(こころ)にして知るあらば、此の新阡(しんせん)(道)に安ずべし。

 

*和気清麿 奈良~平安時代の貴族、宇佐八幡宮でのご神託の話は有名

*順正寺 浄土真宗本願寺派、福岡市博多区

*碑は平野能榮の墓を正面に見て、左脇にある。隣接する墓域の境にはクチナシの樹があるが、これは親交があった久留米水天宮の真木和泉守保臣が蟄居謹慎を命じられていた水田天満宮(福岡県筑後市)の茅屋を「山梔窩(くちなしのや)」と呼んだことによるものと思われる。山梔窩(口を閉じて何も言わない、口無し)にかけている。

 

平野國臣の父・能榮の顕彰碑は墓碑左にある

「日本語を伝達ツールとして見直していく」の講演を聴いて 令和3年3月3日

講師は某外語大学アジア言語学科准教授。パワーポイントを使用しながらの講演だった。

  • 多文化共生の「共生」が目指すところ
  • 「外国人」という用語について
  • 「日本人」のコミュニケーション行動の特徴
  • 共通語としての「日本語」の使い方

以上4つを主にしての話だった。「共生」という概念の解説から始まったが、文化の相違を認め合い、地域社会の構成員として共に生きていくということを意味すると言われる。いわゆるグローバル化なのかと、ここでは理解した。

次に、国外から移動(移住)してくる人々を受けいれている国の割合として、世界標準のパーセンテージから日本が大きく遅れているという。トップはアメリカの15・5%、日本は2・0%。日本では人口減少が問題であり、移民受け入れが急務であるという。しかし、移民の受け入れと、日本語をツールとして見直すという表題と、何の関係があるのか。この、短絡的な展開に、不満が募る。要は、現況の外国人労働者と、語学留学生との相違を理解せずに講師が語っている。日本の将来のために、移民労働者を受け入れましょう。そのためには、多様性が必須で、「やさしい日本語」を教えることのできる日本語教師は大事です。という結果になるが、それは日本語教師の利権のための筋立てではないかと勘繰る。

講演後、挙手をしての質問が無く、司会者が聴衆に促して、ようやく質問があった。しかし、その質問に対し、「政治的なものは分かりません」「法律的なものは分かりません」との回答に失望する。

今や、日本のアニメの影響で、日本語を理解できる外国人は想像以上にいる。その中で、何が不足しているかといえば、日本人自身の歴史、伝統、文化の知識である。たまたま、会場後方でブレイディ・みかこさんの『ブレグジット狂騒曲』という講演録を購入した。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んでいたからだが、「多様性は地雷原を進むがごとく」という言葉は印象的。移民受け入れをイギリスも導入したが、その結果、現在のイギリスにどのような問題が起きているかを如実に述べたもの。ブレイディ・みかこさんの講演録でも「左派はよく『お花畑』と呼ばれますよね。(中略)下部構造、すなわち根のない花は水を吸えないので枯れます。」との言葉が印象に残った。

政治的、法律的な背景が分からず、多文化共生としての日本語ツールと言われても、腑に落ちない。入国審査で、自身の名前すら満足に書けないベトナム人が、家族を支えるために一縷の望みをもって日本に来ている現実を、どうするのか。講師には、ブレイディ・みかこさんの本を熟読して欲しいと思った。
                                              
                                          以上

「贈従四位亀井南冥追慕碑」を読み説く

福岡市中央区地行の浄満寺には、福岡県指定文化財である亀井南冥一族の墓所がある。その一隅に、明治44年(1911)に建てられた石柱がある。経年劣化から刻まれた文字を読み取ることは容易ではない。さらに、撰文を起草した人物も不明。

これは、「贈従四位亀井南冥追慕碑」。しかし、その刻まれた文の意味が分からなければ、誠に残念に思うので、ここに可能な限り判明した内容を記したいと思います。

 

泮宮甘棠之遺風、後死斯文之托、果不虚矣、迨皇猷維新名器復古乎、可謂先生之志業亦酬歟、

明治四十四年十一月、龍駕西巡之日、聖恩及地下、贈位之特典、光彩照今古矣、今茲大正二年、會先生歿後一百年紀、學統門下士、與裔孫千里氏胥議、得大方高誼諸士之憀力、而營一大祭祀、舊藩主侯家、亦贊其擧、有祭資之奇、茲盡塋域、脩墳墓、建斯碑、而永為敬慕紀念焉、併勒先生為畢生之憾太宰府碑、自書之今尚存者于石、建於都府舊址、以紹其志云

福岡市地行浄満寺に在り。大正二年、先生の遺業たる太宰府址建碑と共に成る。

 

【譯文】

泮宮、甘棠の遺風、後死斯文の托、果して虚しからず。皇猷維れ新に、名器古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年十一月、龍駕西巡の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩今古を照らす。今茲大正二年先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方高誼諸士の憀力を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生の憾みたる太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐと云ふ。

 

【直訳】

泮宮(中国古代の諸侯の学校)、甘棠(立派な為政者に対し国民の敬愛の情が深い事)の遺風、後死斯文(学問の道)の托(まかせる、たよる)、果して虚しからず。皇猷(帝王のはかりごと)維れ新に(王者になるべく受けた天命は新しい)、名器(爵位と車や衣服)古に復するに迨び、先生の志業亦酬いらると謂うべきか。明治四十四年(一九一一)十一月、龍駕(天子の車)西巡(九州への巡幸)の日、聖恩地下に及び、贈位の特典あり、光彩(あざやかな美しい色)今古を照らす。今茲大正二年(一九一三)先生の歿後一百年紀に會す、學統門の下士、裔孫千里氏と胥議り、大方(世間のすぐれた人々)高誼(あついよしみ)諸士の憀力(たすけ)を得て、一大祭祀を營む。舊藩主侯家(旧福岡藩主の黒田家)も亦其の擧を贊し、祭資の奇あり。茲に塋域(墓地)を盡して墳墓を脩めて斯碑を建て、永く敬慕紀念と為し、併せて先生畢生(終生)の憾みたる(心残り)太宰府碑、自書の今尚存するものを石に勒して(彫る)、都府の舊址に建て、以て其の志を紹ぐ(受け継ぐ)と云ふ。

 

【意訳】

福岡藩校甘棠館の館長(総裁)であった亀井南冥先生の学問の功績は、甘棠館が廃校になったとはいえ、その思想の系譜は朽ち果ててはいなかった。天皇親政の維新、王政復古となったことで、亀井南冥先生の業績が再評価された。明治四十四年(一九一一)十一月、明治天皇が九州に巡幸された折、故人となっていた亀井南冥先生に贈位の特典をくだされた。昔のこととはいえ、先生の功績が蘇った。今ここに、大正二年(一九一三)亀井南冥先生の歿後一百年紀にあたり、先生の学問の系譜に連なる人々、先生の孫になる千里氏と、この慶事をどうしたものかと相談をした。高名で義理堅い人々の助けを得て、顕彰祭を行うことになった。旧福岡藩主の黒田公爵家からは、その顕彰祭に賛意を示され、祭祀料までいただいた。ここに、浄満寺の墓地を整備して、追慕碑を建て、永く亀井南冥先生を慕うこととなった。同時に、亀井先生が終生、心残りであったであろう大宰府政庁跡の碑が、今も、現存していることも追慕碑に彫って、政庁跡にも建て、亀井南冥先生の志を継承していきたい。

 

*亀井南冥(かめい・なんめい)

寛保3(1743)年8月25日~文化11(1814)年3月2日、福岡藩校甘棠館の総裁、およそ8年を務める。

*甘棠館(かんとうかん)

天明4年(一七八四)、福岡藩によって設けられた藩校、東の修猷館、西の甘棠館と呼ばれた、亀井南冥門下からは、村上仏山、廣瀬淡窓など多くの人材を輩出した。

*明治天皇は明治四十五年(一九一二)七月三十日に薨去された。

*浄満寺(浄土真宗本願寺派)

福岡市中央区地行2丁目3の3

                                                                                                            以上

 

「江上栄之進の墓所を訪ねて」令和3年2月10日

福岡市中央区地行の亀井南冥(1743~1814、寛保3~文化11)の墓参で浄満寺を訪ねた際、亀井一族の墓所の右わきに江上栄(英)之進の墓があるのに気が付いた。

江上栄之進は天保5年(1834)5月1日、100石取りの福岡藩士江上六右衛門善述の次男として、筑前国早良郡鳥飼村に生まれた。祖父の江上源蔵武顕は亀井南冥の高弟・江上苓洲として知られる。父の江上六右衛門善述は射術に優れた武人として知られる。この祖父、実父の影響を受け、栄之進も文武両道の人として知られる。同僚の福岡藩士・万代十兵衛(「乙丑の獄」で切腹)とは特に親しく交わったと伝わるが、万代は栄之進の父・六右衛門善述から射術の指導を受けている。

ちなみに、万代十兵衛の二人の弟である江上述直は西南戦争で戦死し、久光忍太郎は西南戦争に呼応した「福岡の変」で斬首となっています。

万延元年(1860)秋、薩筑同盟を画策して月形洗蔵は福岡藩主黒田長溥に建白書を提出。江上栄之進は浅香市策・中村円太と共に薩摩に赴く。この計画が藩主の怒りをかい、栄之進は文久元年5月(1861)、姫島(福岡県糸島市)に遠島牢居となった。いわゆる辛酉の獄と呼ばれる福岡藩の内訌(内紛)だが、この時、栄之進が起居した牢は後の「乙丑の獄」で島流しとなった野村望東尼が入ることになる。

辛酉の獄での罪を赦された栄之進は、元治元年(1864)4月、藩主黒田長溥の命で長州に赴き三條実美と会談。しかし、この長州行きは出奔との噂もあり、そのためか、帰藩後、実兄の知行地である糟屋郡吉原村で隠棲生活を送ることに。しかしながら、密かに勤皇党としての活動を続けていたと伝わる。

慶応元年(1865)7月、栄之進はふたたび幽閉されました。続く9月、桝小屋(福岡市中央区)の獄舎に移されました。この獄中生活では、栄之進食を絶って死を選択しましたが死なず。さらに、衣類を脱いで凍死を試みるも、これも失敗。ついに、慶応元年10月23日、勤皇党の仲間とともに斬首となる。享年32歳。

明治24年(1891)11月5日、靖国神社に合祀され、明治35年(1902)11月8日には正五位が贈位された。その江上栄之進(武要)の墓が、亀井一族の隣に遺されていることに驚いた。

こういった、江上らの働きがあったからこそ、没後の亀井南冥に贈位があったものと推察される。南冥の墓参の際には、隣の江上栄之進の墓も墓参していただきたい。

尚、福岡市中央区谷にある「福岡陸軍墓地」に「明治維新志士之墓」がある。この墓碑裏面に江上英之進武要として名前が刻まれている。

                                以上

江上栄之進(武要)の墓(右から2番目)

「亀井南冥の墓所を参拝」令和3年1月31日

国宝「金印」の鑑定を行ったことで知られる亀井南冥(1743~1814、寛保3~文化11)の墓参に行った。南冥の菩提所は福岡市中央区地行2-3-3の浄満寺(浄土真宗本願寺派)だ。浄満寺の山門脇には「亀井南冥・昭陽両先生墓所」と刻まれた大きな石柱がある。どなたの手跡かと裏面を見るが、経年劣化で詳細に読み取れないのが、残念。

一応、方丈に挨拶を済ませて、隣の真福寺(浄土真宗本願寺派)の境にある亀井南冥先生の墓に向かう。近年、どこの寺院に行っても後継者に恵まれない墓所を目にする。改葬された跡には、新規に墓所を設けることができるという小さな案内の碑があり、無縁墓として処分するとの看板が立っている墓石もある。優遇税制にあるとはいえ、お寺も檀家のお布施などで成り立っているだけに、なんとも心痛む光景だ。

そんな中、亀井南冥一族の墓は福岡県指定の文化財として綺麗に保存されていた。安堵するが、その右手には、亀井一門の高弟であった江上苓州、筑前勤皇党の左座謙三郎の墓碑が立っていた。お寺さんのご厚意で史跡として遺されたようだ。

亀井南冥の身分は高くない。封建的身分制度の時代からすれば成り上がり者の類である。水戸学の中興の祖ともいうべき藤田幽谷も水戸藩では「古着屋の分際」と陰口を叩かれ、天下に名声を誇った子息の藤田東湖は「古着屋の倅」であった。同じく、亀井南冥も福岡藩校「甘棠館」の館主ではあっても低い扱いだった。そのことは、南冥死後、子息の昭陽の処遇を見ても歴然である。しかし、この亀井南冥の思想の系譜は秋月藩の原古処、豊後日田・咸宜園の廣瀬淡窓へとつながっていた。

この学問の系譜について、まだまだ、不明の点は多い。墓碑、顕彰碑から読み解く事々は多いのではと考えている。継続して調査を続け、後世に遺していきたいと考えている。
                                以上                                                                                                                                                                                                                                                                            

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

亀井一族の墓碑群(南冥を中心に)

「時代の変化に敏感な論説を読みたい」令和2年10月20日

第一次世界大戦後に発足した国際連盟。この連盟規約に人種差別撤廃を日本が提案。それを、真正面から反対したのが、オーストラリアのヒューズ首相だった。白濠(豪)主義(白人優位の思想)のオーストラリアとしては、絶対に認められない日本の提案だった。このヒューズ首相の剛腕ぶりについては、近衛文麿の『戦後欧米見聞録』に詳しい。


そのヒューズ首相が、日英同盟の継続については否定しなかった。むしろ、同盟継続を肯定している。人種差別撤廃に反対したヒューズ首相だが、不思議なことに日英同盟は否定していない。実は、この陰には親日家のマードック(夏目漱石の東京帝国大学時代の師)がいたからだった。ながいこと鹿児島で生活し、西郷どんのような質素倹約の生活をし、ヒューズ首相と親交があった。しかし、結果として、アメリカ、カナダの圧力で大正10年(1921)、日英同盟は廃止となった。


先述の近衛の見聞録では、第一次世界大戦終結前、ボルシェビキ(多数を意味する共産主義)の活動が始まっていた。その影響は大西洋を越えて、カナダを拠点とし、アメリカに浸透していた。第二次世界大戦後、戦争責任はルーズベルト大統領にあるとビーアド博士が糾弾した。その最たるものは、アメリカ大統領府が旧ソ連の意を受けたカナダ系コミンテルンの巣窟だったからだ。


近衛文麿、廣田弘毅、松岡洋右らは、早くからコミンテルンによってアメリカ大統領府が支配され、日米戦争不可避を知っていた。昭和12年(1937)6月、第一次近衛内閣が組閣され、外相として廣田弘毅が入閣した。首相経験者が外相として入閣する意図はどこにあったのか。この年の11月末、廣田はニューヨーク駐在の若杉要から秘電によって、日米戦争不可避を知る。


やはり、同年11月15日、横浜発の船上には南満州鉄道総裁松岡洋右の意を受けた竹田胤雄の姿があった。表面上は満鉄のニューヨーク事務所長としての赴任。しかしながら、ホーンベック博士に接触し、情報を収集することが目的だった。竹田も日米戦争不可避を松岡に打電した。


昭和5年(1930)、第一次世界大戦での五大戦勝国の間での海軍力削減交渉としてのロンドン軍縮会議だった。その実、次の覇権を巡っての肚の内の探り合い。満洲を含む中国大陸での権益、市場を狙っての駆け引きだが、これはそのまま日米戦争の前哨戦でもあった。この頃、しきりに軍縮についての意見を求められたのが、日露戦争日本海海戦での英雄・元帥東郷平八郎だった。明治26年(1898)、邦人保護の為、軍艦「浪速」でハワイ沖に駆け付けた。明治31年(1898)のアメリカによるハワイ侵略をつぶさに見ていた人でもある。ロンドン軍縮会議が日本との戦争準備であると見抜いていたのではないか。


某新聞に「英雄伝説の虚と実」として、東郷が軍縮に反対し、晩節を汚したかのような記述を目にした。参考文献は、『米内光政』(阿川弘之著)であったが、本書は平成6年(1994)の刊行である。四半世紀以上も前の評伝から引用し、組織論、世情、東郷を語っている。しかしながら、戦後75年、歴史が凍結されたままの日本と異なり、刻々と諸外国では機密文書が公開され、事実を追及する研究が進んでいる。機密文書の公開だけではない。日露戦争直後、ロシアが日本への報復として工作員を送りこんでいたことも文献で解説されている。


紙面を読みながら、時代の変化に敏感な、オオっと、注目に値するような論説を読みたいと思ったのだった。


                                                      以上


【参考文献】


・近衛文麿著『戦後欧米見聞録』中公文庫、昭和56年、13ページ


・平川祐弘著『漱石の師マードック先生』講談社学術文庫、1989年、137ページ


・江崎道朗著『日本外務省はソ連の対米工作を知っていた』育鵬社、2020年


・篠原正一著、『久留米人物誌』久留米人物誌観光委員会、昭和56年、714ページ

「なぜ、中国と提携したのか」 令和2年9月17日

現代日本では、明治27年(1894)から始まった日清戦争を、日本による中国「侵略」の始まりと教える。しかし、この戦争の当事国である清は満洲族政権であり、現代中国の根幹を成す漢民族は満州族に支配される植民地の民であった。満洲族に支配される漢民族は、およそ260年にわたり、韃慮(だつりょ)と蔑む満洲族に従うしかなかった。一般の日本人が中国人に抱く印象としての辮髪(おさげ髪)、チャイナ服にチャイナ帽は、満洲族が漢民族に強制した満洲族の風習である。

イギリスは清国から茶を輸入していた。しかし、清国はイギリスから何も輸入する物がない。輸入超過に陥ったイギリスは、インドで栽培したアヘンを清国に売りつけ、茶の代金と相殺する方法をとった。アヘンの輸入超過、国民がアヘン中毒者になっても、何の痛みも感じない清国だった。取り巻き官僚の驕り、封建的身分制度による特権、腐敗の極にあった。この状況に危機感を抱いたのは、日本の志士たちだった。特に、自由民権運動団体の志士たちは、アジアを侵略する欧米列強に対抗するには、漢民族との連携が必須と考えた。

朝鮮の政治改革に取り組んだ日本だが、清国(満洲族政権)の属国に甘んじる朝鮮に、危機感はない。大国の清を過信し、文化程度の低い日本の忠告を疎ましく思っていた朝鮮だった。この状況認識の乖離から、いくつもの摩擦が日本と朝鮮との間に発生した。

そこで、日本の志士たちは、日中(漢民族)が連携し、政権が変われば朝鮮の政権も変化するとして、漢民族との共闘を模索した。それが、孫文、黄興の革命を支援する機縁になる。日清戦争勃発のニュースに、孫文は、漢民族の政権樹立の革命戦争到来と狂喜した。

明治37年(1904)の日露戦争は、アジアを侵略するロシアの脅威を取り除く安全保障の戦争だった。当然、そこには、清国、朝鮮が含まれてのことだった。しかし、当時の李氏朝鮮は、封建的身分制度の国であり、農民たちは奴隷に等しく、生殺与奪権を持つ支配層の両班(ヤンパン)に苦しめられていた。李氏朝鮮の「今だけ、金だけ、自分だけ」の両班には、自分たちの生活が保障されれば、ロシアの植民地になろうが、まったく関係なかった。

 現代、明治以降の日本はアジア侵略、支配を画策したとして糾弾される。しかし、それは、アジアを侵略した欧米列強(ロシアを含む)の詭弁に過ぎない。いわば、濡れ衣を着せられて戦後75年。今だ、ゆがんだ歴史教育が行われているのが日本である。
                                                              以上

参考文献・資料

浦辺 登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 12」令和2年9月2日

昭和43年(1968)4月23日、三島由紀夫は「銅像との対話 西郷隆盛」という小文を産経新聞に発表した。ここでいう銅像とは、あの上野の西郷さんを指すが、三島が西郷隆盛について「解かった」と述べたものだ。

ある時、玉利斎氏に電話をすると、「ちょうど良い。今度、憂国忌で話をするから、聞いてくれ」と言って、受話器越しに「銅像との対話」の朗読を聞く羽目になった。一人謁に入って朗々と語る玉利氏。

三島は、なぜ、西郷隆盛について新聞に寄稿したのか。この背景には、実に、不思議な玉利家三代との縁がある。玉利氏は三島さんにボディ・ビルをレッスンし、玉利氏の父・三之助は三島さんに剣道の稽古をつけた。その三之助の父、玉利氏の祖父は玉利喜造といって、日本初の農学博士である。この玉利喜造が鹿児島に居る時、西郷隆盛と関係があった。時代は、明治10年(1877)の西南戦争前のことだが、鹿児島では新政府に対する不満が充満し、政府は政府で、反政府の要衝となる鹿児島の制圧を考えていた。そんな中、一人、黙々と勉学に励む玉利喜造。西郷さんの下に結集しない玉利喜造を仲間が引き立て、西郷さんの前で釈明させた。その玉利喜造の話を黙って聞いていた西郷は、玉利喜造に上京しての勉学を勧めた。もし、西郷隆盛が、玉利喜造に勉学を勧めなかったら、玉利喜造は世に出ることも無く、逆に戦場で命を落としていたことだろう。

当初、三島さんは、「若い者を引き連れて、最期は腹を切って・・・」と西郷隆盛を評価していなかった。しかし、考えてみれば、「楯の會」の若い者を引き連れ、城山ならぬ陸上自衛隊東部方面総監室で三島さんは腹を切るのだから、人の生きざまは分からないものだと玉利氏は語った。

玉利斎氏は、三島さんとボディ・ビルを通じて親交があったが、よく、討論もしたという。陽明学、武士道、そして、西郷隆盛についても。肉体が変化していくとともに、武士の生きざまも精神も、三島さんの身体に染みこんでいったという。

玉利斎氏が急逝した後、平成30年(2018)11月23日、私自身が「福岡憂国忌」(福岡市東区箱崎の筥崎宮)で玉利家三代と三島さんについて語ることになった。存命であったなら、「君が西郷さんと、三島さんを語るのか。そりゃあ、実に、面白い!」と玉利斎氏は豪快に笑ったことだろう。当日、玉利斎氏への追悼の意味も込めて、「福岡憂国忌」で「三島由紀夫と玉利家三代」について語った。

                                                      以上

【参考文献】

・『玉利喜造伝』玉利喜造伝記編纂事業会編、昭和49年、私家版

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 11」令和2年8月30日

三島由紀夫に剣道の稽古をつけたこともある玉利斎氏の父・三之助は剣道九段範士だった。玉利斎氏の話は、時折、剣道の話にも及んだが、著名な剣の達人、剣道の名手を「知らない」と言うと、いかにも驚いたように、がっかりしたような表情をされる。玄洋社の歴史を記録する人間(筆者)が、斎村五郎を知らないのか・・・、島田虎之助は知っているよな?など、ボディ・ビル以外にも話は及んだ。

剣道だけではなく、柔道の話にも及んだが、玉利斎氏はボディ・ビルを始める前には、柔道をやっていた。ある日、大学(早稲田)柔道部の道場に見知らぬ人が稽古着を着て座っている。一年生は道場の掃除などをしなければばらないので、早めに行く。どこの誰かは知らないが、大学のOBだろうと思って挨拶だけはした。すると、「おい、そこの一年坊主、俺の相手をしろ」と言う。自分は、まだ、一年生で稽古の相手にもなりませんと断ったが、「構わん」と言われ、稽古の相手をした。なんの、こんな小さなジイサン、と思って組んでみたら、びくともしない。そこで、力いっぱい、道着を掴んで投げ飛ばそうとした瞬間、逆に畳にひっくり返っていた。今度こそ、と思ってムキになればなるほど、瞬時に投げ飛ばされている。そんなことが続き、息があがり始めた頃、「じゃ、今日は、ありがとう」と言って、その人は去っていった。あっけにとられて、ただ、頭を下げて見送るしかなかった。

しばらくしてから、玉利氏は思い出したそうだ。もしかして、あの人は、牛島辰熊では・・・と。牛島辰熊とは、あの「世紀のプロレス対決」とも、「プロレスの巌流島の戦い」ともいわれる力道山、木村政彦の試合で、力道山のセコンドについたのが牛島辰熊だった。玉利氏の父・三之助と牛島辰熊は、戦前の天覧試合で剣道代表、柔道代表で出場した仲だった。以後、何かと気が合い、戦後も長く親交があったという。牛島辰熊は弟子である木村政彦の敵手のセコンドについた。この場面は、後のテレビアニメ『巨人の星』の星一徹、飛雄馬親子が敵対関係になる場面に重なる。

玉利氏が語るには、あの玉利三之助の息子が柔道をやっていると小耳に挟んだのだろう。玉利(三之助)の息子が、どれほどの腕かを試しにきたんじゃないのか・・・。「それにしても、組んでも、岩のようにビクともしないのには、恐れ入ったねぇ・・・」。遠くを見るような表情で、懐かしそうに語ってくれた。

平成23年(2011)11月6日付の熊本日日新聞に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著)の書評を寄稿した。分厚い一冊だったが、実に面白かったので玉利斎氏にプレゼントした。「インド(ボディ・ビルの世界大会)に行く飛行機の中で読み耽ったよ・・・。実に、面白い本だった」と玉利氏は語った。
                                                      以上

・玄洋社 明治12年(1879)に創立した福岡発祥の自由民権運動団体

・斎村五郎(1887~1969)剣道十段範士、「剣聖十段」の異名を持つ

・島田虎之助(1814~1852)豊前中津藩出身、勝海舟の剣の師としてしられる

・牛島辰熊(1904~1985)柔道家、九段

・木村政彦(1917~1993)柔道家、七段、プロレスラー、総合格闘技家

・力道山(1924~1964)元大相撲関取、プロレスラー、

・「巨人の星」梶原一騎原作、川崎のぼる原画のテレビアニメ、スポーツ根性ドラマ

 

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 10」令和2年8月19日

三島さんが自決したあと、葬式にも供養にも行かなかった。しかし、お焼香をさせてくださいと、三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)に電話をした。

「ご立派な最期でしたね」とお母さんに言ったら、「玉利さん、そう思われますか。それを聞いて、倅がどれほど喜ぶことでしょう」と言われた。

三島さんは文で評価された人だけど、「戒名には文を入れないで、武だけにしたい。」

「ジジイが元気になることを教えてくれ」とも言っていた。

ある時は、「僕には幕臣(永井尚志)の血が流れてるんだ」と言って、子供のように、嬉しそうに語ったのを思い出すね。

渋谷に一緒に映画を見に行ったんだけど、それが「原子怪獣」とかいうやつだった。三島さんが、ゲラゲラ笑って観てるんだ。UFO(未確認飛行物体)にも、関心もってたね。純粋な人だった。善も悪も評価する人で、インチキを嫌った。

玉利斎氏は、ことあるごとに、ポツポツ、断片的に思い出した事々を口にした。

ある時など、九段下の「九段会館」のある交差点で急に立ち止まり、じっと、空を見上げていた。その日、東京にしては珍しく空が青く澄み、雲一つなかった。

「三島さんが、腹切ったのは、こんな空が澄んでいた日だった」

絞り出すように口にして、玉利氏は、じっと、空を見上げていた。仕方ないので、その側で一緒に空を見上げていたが、きっと、周囲の歩行者、往来の車列の人々からは、奇妙な光景に見えたことだったとう。

またある春の夕暮れ時、玉利斎氏と夕食を兼ねて飲んでいた。無心にビーフ・シチューか何かを口にする玉利氏だった。すると、「やってるな、玉利さん」と声が聞こえた。誰か、玉利氏の友人が来たと思ったら、誰もいない。玉利氏の隣を見ると、茶色の小さな物体が見えた。あれっ?と思い、背後の窓ガラスを見ると、玉利氏の背中しか映っていない。再び、玉利氏の隣を見ると、その茶色の物体は消えていた。

後日、玉利氏にその謎の場面を話すと、「君には、見えたのか・・・」と言う。時折、三島さんは、玉利斎氏のところにやって来るようなのだ。

 いまもって、この不思議な空間体験の真相はわからない。

 

*永井尚志(1816~1891)父方の高祖父、長崎海軍伝習所総監理などを歴任

*戒名は「彰武院文鑑公威居士」として多磨霊園平岡家の墓碑銘に刻まれている

                                                      以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 9」 令和2年8月17日

「もう、いいよ」(ボディ・ビルの個人レッスン)ということで、三島さんとの縁は絶えていたんだけど、『文化防衛論』か『英霊の聲』を出した頃、三島さんと再会したんだ。オヤジ(玉利三之助・嘉章)の使いで三島さんに竹刀を届けにいったけど、後楽園ボディビルセンターだったと思う。その時、三島さんの身体に精神力が伴っていると感じた。三島さんは「社会人として行動すべきではないか?」と俺に言うんだ。

また、「現代社会に、価値があるのかい?」とも口にしたね。

現代社会に身体が媚びる必要はない。経済、カネに振り回されている。時代に媚びない。身体側の論理、それが武士道だと言う。武士道とは?と質問したら、「勇気、正義だ」という。観念の人だと思った。この頃から、(三島さんは)日本回帰していた。

しばらくは疎遠状態だったけど、その間に三島さんは行動の世界「楯の會」を立ち上げた。この時、理屈抜きで三島さんに近寄ったのが、森田(必勝)だった。三島さんは、芸術的、政治行動としての玉砕を考えていたのだろう。あの自決は。舞台設定を自らした、天才の感受性だった。

三島さんが自決したあと、しばらく、三島さんの呪縛から抜けられなかった。ある時、三島さんが夢に出てきたんだ。小高い山があって、その上の方に神社があった。その途中、石段の途中に踊り場があって、そこに五、六人の人がいる。その中に、三島さんが居たんだ。「生きてた!」と思った。そうしたら、三島さんが足を出せという。足を出したら、墨汁が入ったバケツがあって、それに足を入れて、そばの紙に足形をとるんだ。それが終わると、「俺は、もう、行かなきゃいけない」と言って、消えてしまった。その夢だけど、(意味を考えて)「現実に足を踏まえて生きていけ」という三島さんのメッセージだと思った。

この夢の話のあと、玉利斎氏は、文と武は日本対世界。個と組織は東洋対西洋と言う。玉利氏独自の、なんらかの世界観があったのだろうが、今となっては、その深い意味を知る(確認)ことはできない。ただ、西郷隆盛については、三島さんとよくやった(論争)と言っていた。振り返れば、それが、『銅像との対話 西郷隆盛』という小文につながったと考える。

・『文化防衛論』昭和43年(1968)「中央公論」掲載、翌年、新潮社より刊行

・『英霊の聲』昭和41年(1966)初出、河出書房新社より同年に刊行

・玉利三之助は自身で竹林に入り「嘉章」の号で竹刀を作っていた

・「楯の會」昭和43年10月5日創設~昭和46年2月28日解散

                                                                                                                                                                                                 以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 8」令和2年8月5日

オヤジ(玉利三之助・剣道九段範士)の使いで、時々、青山二郎の会に行っていたんだ。小林秀雄とか白洲次郎とかが仲間にいたな。白洲のバアサン(正子)はいたかもしれないなぁ。

「刀剣美術保存協会」というのがあって、初代会長が有馬頼寧だった。オヤジが刀の目利きもするんで、使いに行っていた。ワカモト(整腸薬)社長の長尾ヨネさんが銀座に小料理屋をもっていて、そこがサロンみたいになってたな。

ある時、若造だから、末席で酒を飲んでいたら、青山二郎がやってきて、文句を言うんだ。こっちは、オヤジの使いで来てるのに、「なんだ、この野郎」と思ってたが・・・。こんな話を三島さんにしたら、「本物に会うようになったね・・・」と言うんだ。「分からんよなぁ、そんな一介の学生に本物がどうだか何だか・・・。」

そういや、オヤジは、日夏耿之助さんと仲が良かった。日夏さんとの酒飲みの会を作っていて、そこに幸田文さんも来ていた。

三島さんと一緒の時、三島さんは本屋によく足を運んでいたね。そして、新刊ものを見ていた。ユング(心理学者)に興味を持っていた、集合的無意識とか。

三島さんはボディ・ビルは終生止めていなかったけど、(半年ほどで)個人レッスンは「もう、いいよ」ということで会う事がなくなった。しかし、オヤジが参議院会館の剣道場で三島さんと会ったので挨拶にいった。「いつも、息子がお世話になっています」と。そしたら、稽古をつけてくれと言われたそうだ。オヤジが言うには、三島さんの剣道は固い、ガチガチ。だけど、「機鋒が鋭い」と言っていた。八田さん(八田一朗、参議院議員、1964東京オリンピックでのレスリング日本代表監督)に、剣道の師範としてオヤジが呼ばれていたころと思う。

玉利斎氏の話は、いつも、筋道だっていたが、時に横道にそれる。しかし、その外れた話に面白み、興味深いものが多かった。

*青山二郎(1901~1979)美術評論家

*小林秀雄(1902~1983)文芸評論家、作家

*白洲次郎(1902~1985)実業家

*白洲正子(1910~1998)随筆家

*有馬頼寧(1884~1957)農林大臣、JRA理事長、第15代有馬家当主

*日夏耿之助(1890~1971)詩人

*幸田文(1904~1990)随筆家、小説家

                                                      以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 7」令和2年8月1日

三島さんとの付き合いは、ボディ・ビルのレッスンだけじゃなかった。歌舞伎の舞台稽古なんかにも連れていってもらったね。確か、歌舞伎の台本か何かを書いていた時だった。歌舞伎の女形というのは、私生活も女なのには、驚いたね。文士劇にも連れて行ってもらったし、洋品店でネクタイを買ってくれたこともあった。「玉利さんは、文学青年じゃないから安心だ」と言うんだよ。文学論を振り回さないから。そうそう、サラリーマンになってはいけないとも言われたね。なぜかは、知らんが。

身体ができてくると、三島さんは「動くスポーツがやりたい」と言い出した。それなら剣道が良い、年齢をとってもできるからと薦めたんだが、「あまり日本的だ。西欧的スポーツ、外国のスポーツをやりたい」というんだ。ただ、テニスはスノッブ(上品ぶっている)と言っていたね。

そして、「やらない」と言っていたボクシングを背いてやってしまった。しかし、スパーリングの相手が、もし、三島さんの頭を叩いてしまったら大変なことになる。ということで、本気で相手をしないので、三島さんから止めてしまった。

そしたら、「日本的だ」と言った手前、隠れて剣道をやって、何人か師を巡ったようだね。ある警視庁の剣道の師範についていたけど、この師範はオヤジ(玉利斎氏の父は剣道九段範士の玉利三之助)から、精神が無い、バタついた剣道をすると評される人だった。

いずれにしても、半年間、みっちりと(ボディ・ビルの)トレーニングをしたことから、身体と共に精神構造にも変化が出て、行動の変化につながった。

銀座にサンケイ・ボディビル・クラブがあったけど、どこに行っても見劣りしない身体になった。確か、祐天寺(東京都目黒区)にいた頃と思うけど、『鏡子の家』にボディ・ビルについて書いていたと思う。

しかし、三島さんは身体のことは叶わないと、(常々)コンプレックスを持っていた。そういえば、「平凡パンチ」の編集長(椎根和さん)は三島さんの剣道の弟子を自認していたねと、玉利斎氏は語ってくれた。
 

*歌舞伎 三島は幼少の頃、祖母に連れられ歌舞伎の観劇をした影響もあり、「鰯売恋曳網」などの脚本を書いた。

*三島がテニスを「スノッブ」と評したのには、別の訳があるともいわれる。

*『鏡子の家』 「戦後は終わった」と言われた昭和33年(1958)頃の作品。

 

                                                      以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 6」 令和2年8月1日

三島さんは、(ボディ・ビルによって)半年で身体ができた。青春の謳歌もない三島さんだったが、この身体ができたことで青春を取り戻したんだ。

ある時、「鉢の木会」という大岡昇平、吉田健一、福田恒存らがメンバーの文人の会があって、そこで三島さんは福田から「マグロになりたいのか。干物には干物の価値がある」と呵々大笑されたというんだ。三島さんが、ボディ・ビルを始めたと聞いて、福田はからかったんだ。

ボディ・ビルのレッスンが終わってから、三島さんの朝飯が始まるんだけど、三島さんのお母さんが手作りの料理を出してくれた。ビーフシチュー、具がたくさん入ったオムレツなんかが出たね。三島さんのお母さん(倭文重:しずえ)がお給仕してくれるんだ。当時、ボディ・ビルをやってる連中は、タンパク質を摂らなければいけないといって、たいてい、そんなにカネがあるわけじゃないから、納豆に、煮干しだよ。だから、三島さんの家で出される食事は良かったね。お母さんが、三島さんの為にと、一所懸命だったんだろうね。時には、家で食事をしないで、そのまま歩いて駅まで行って、(東急)東横線に乗って食事にいくこともあった。文春倶楽部というのがあって、そこに文人が集まるんだけど、三島さんは丁寧にそれぞれに挨拶をされていた。高見順とか、堀田善衛とがいたけど、三島さんは嫌いな人がいると「出よう」と言って、さっさと出ていくんだ。三島さんは堀田善衛が大嫌いだった。

外で食べる時も、バランスよく、タンパク質を考えて選んでいた。三信ビル(東京都千代田区有楽町)の「ピーターズ(レストラン)」に行ったし、新宿に行くこともあった。全部、三島さんもちだった。三島さんからは、(ボディ・ビルの)レッスン料はいくらでも良いと言われた。当時はまだ学生だし、カネは欲しいけど、こちらも誇りがあった。「天下の三島由紀夫からカネは受け取れません」と言ったから、食事代なんか、全部、出してくれたね。

幼少の頃に実母を亡くした玉利斎さんにとって、倭文重さんの料理は思い出深いもののようで、懐かしそうに、当時の思い出を語ってくれたのだった。

*「鉢の木会」昭和24年(1949)にできた文人の会。戦後の物資不足の中、ありあわせの物でも良いから会を開くという主旨。

*大岡昇平(1909~1988)小説家、代表作は『俘虜記』『レイテ戦記』

*吉田健一(1912~1977)文芸評論家、小説家

*福田恒存(1912~1994)文芸評論家、劇作家

*高見順(1907~1965)小説家、詩人

*堀田善衛(1918~1998)小説家、評論家

                                                                                                                                                                                  以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 5」

三島さんへのレッスンは、晴れた日は庭でやってたなぁ

レッスンを始めたのは、会って、数日後からだった。東急(東京急行)東横線「都立大駅」近くに、お父さんの平岡梓さんの家があった。中の上(クラス)ほどの家だった。レッスンを始めようにも、ベンチが売っていない。そこで、梓さんが出入りの大工さんに作らせた。バーベルも特注で、50キロのものがあった。ダンベルは、どうだったかなぁ。

 三島さんの胸は細く、薄い。ただ、胸毛はたくましかった。

レッスンを始めるにあたって、三島さんと約束した事があった。まず、健康診断を受けること。当時の三島さんは、不眠症、胃弱だった。冷やかしはダメ、本気でやること。継続すること。自分勝手な練習をしないこと。レッスンには、スケジュールを立てたね。

三島さんの家には、週二回、火曜と木曜に行った。三島さんは、夜の8時から書き始めて、朝の5時にはやめてた。そして、だいたい、朝11時に起きるんだ。練習は昼の12時から始めるから、食事なしだった。行くと、三島さんは海水パンツで待っている。

まず、柔軟体操を10分から15分ほどやって、カールというバーベル、シャフトだけで10キロのものに、1.25キロの重りを左右に付けて、合計で12.5キロで始めた。これは、型を覚えさせるためだった。次に、ベンチ、スクワット、それに呼吸法も大事。

ちょうど、取材のジャーナリストが来ていて、からかうんだ、三島さんを。しかし、三島さんは怒らない。男が何かをやる時は、批判は覚悟。死ぬときも一緒で、批判覚悟だよと。

 英雄的行為ができる身体になる。


三島さんのレッスン開始前の写真があるけど、(他人に)見せたら絶交だ!と冗談でいっていたけど、半年ほどして軽口が言える関係になったね。三島さんが死んでから、あの写真(ガリガリに痩せた肉体)を見せるようになったけどね。

 

*レッスン開始は昭和30年(1955)9月16日。ゆえに、玉利斎氏が三島に初めて会ったのは、9月13日頃になる。

 

【参考文献】

『武人 甦る三島由紀夫』(晋遊舎)

『東京の片隅から見た近代日本』(浦辺登著、弦書房)

                                                                                                             以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 4」令和2年7月9日

「三島さんがボディ・ビルに興味を抱いたのは、1年か2年前に世界旅行に行って、ボディ・ビルの雑誌を目にしたのがきっかけらしい。たぶん、ウィダーが出している雑誌だと思うけど。」玉利斎氏は、そう語り始めた。

いろいろ話を聞いてみると、三島さんは子供のころから身体が弱かった。朝礼の時は、貧血で倒れる。体育は見学。男だから体育はやってみたい。しかし、身体が丈夫じゃないから、本ばっかり読んでいて、将来、小説家になるしかない。それ以外、道が無かった。

三島さんは丙種で兵隊にとられたけど、即刻、帰郷を命じられたほどの身体さった。しかし、ヘミングウェイなんかは、内向的な作品だが、その生活は健康的で明るい。その点、日本の作家は、せいぜい、女と心中するのが多い。例えば太宰(治)、芥川(龍之介)。

あのピカソ(画家、1881~1973)だって、80歳なのに、裸で絵を描いて、若い女と付き合っている。私生活は健全でありたい。精神まで虚構に没累、虚構の産物に自分を埋めることはない。足腰立たなくなって、それでもベッドごとテレビ局に行って、ヘタレ口たたいてやる。そう三島さんは語っていた。引目鉤鼻が平安朝の色男だが、日本の作家の生きざまをしたくない。ボディ・ビルによって自分の小説が、どう変化するか実験したい。

玉利斎氏は、三島さんと出会った時の話を記憶の限り、語ってくれた。しかし、マッチョ好みの丸山明宏さん(美輪明宏)に、三島さんが肉体を揶揄されたからという話はご存じなかったようだ。

 

*三島由紀夫は昭和26年(1951)12月25日から、翌年の5月10日(8日とも)まで世界一周旅行に行った。朝日新聞の招待旅行であったと玉利氏は語ったが、当時、海外旅行は規制されており、三島は朝日新聞の特別通信員という肩書だった。

*ウィダーはボディ・ビルダーのためのプロテイン飲料などのメーカー。「シェイプ」「マッスル&フィットネス」「フレックス」の出版部門もあった。日本では森永製菓が「ウィダー・イン・ゼリー」として販売していた。

*三島には昭和3年(1928)生まれの妹、昭和5年(1930)生まれの弟がいる。

*三島が学習院初等科に入学したのは、昭和6年(1931)4月8日。

*三島は昭和19年(1944)5月16日、兵隊検査では第二乙種合格。昭和20年(1945)2月6日に入営通知を受けたことから身体検査を受けるが、右肺浸潤で即日帰郷となった。


                                                      以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 3」

三島由紀夫との出会いについて、あらためて玉利斎氏に話を聞いたのは平成25年(2013)7月29日のことだった。それまでは、断片的に、時間ができると語ってくれるのを聞くだけだった。

ある時、読売新聞の塩田丸男氏(1924~)が電話をかけてきた。ある作家がボディ・ビルに興味を持っている。何かは分からないが、ボディ・ビルの基本トレーニングの記事を見たという。軽い気持ちかもしれないけど、ボディ・ビルに興味をもっているので対応して欲しいという。「ある作家」ということだったけど、「良いですよ」と返事をした。

その「ある作家」というのが、『仮面の告白』(昭和24年、1949)などの作品で知られ、天才作家とも言われる三島さん(由紀夫)だった。三島さんはボディ・ビルに興味をもっただろうけど、こちらは違う世界の人として、逆に関心をもった。そこで、塩田さんに自宅の電話番号を教えたら、翌日には電話がきた。

「三島です!」と、その一言に驚いた。作家といえば、青白いという印象だったから。

そこで、今のペニンシュラ・ホテル東京(東京都千代田区有楽町)、昔の日活ホテル(日比谷ホテル)に、夕方4時くらいに待ち合わせの約束をした。日活ホテルは石原裕次郎が結婚式を挙げたことで有名だった。時間は正確だった。三島さんは「浮世のしきたりだから」と言う。初対面で「あれっ?」と思った。内向的な人と思ったら違っていた。同性愛(『仮面の告白』)の小説を書く人と思っていたから、少し、嫌悪感があったからかもしれない。しかし、その声は朗々と響く声で話す。

三島さんは大正15年か14年の生まれで、こっちは昭和8年(1933)生まれの、まだ早稲田(大学)の学生だよ。その若造に、三島さんは立って、深々とお辞儀をしたんだよ。会ったのは、昭和30年(1955)の夏だったと思う。互いに、上着は着ていなかった。

俺は、白のYシャツだったと思う。三島さんはスーツじゃなかったから、ラフな格好だったと思う。三島さんの声は大きく、そして、目が輝いていたのが印象的だったね。光を放つというか、目に力が有る人だった。礼儀正しさは、もって生まれた品の良さだと思う。

 

 *塩田丸男氏は読売新聞記者。週刊読売にボディ・ビルの特集記事が出たことが縁

 *三島由紀夫は、大正14年1月14日生まれ

                                                                                                                                                                                                 以上

「玉利斎氏との思い出 三島由紀夫 2」令和2年6月11日

「楯の會」のどなたの話であったかは記憶に無い。三島由紀夫が自決したとのニュースが流れ、市ヶ谷の陸上自衛隊周辺は騒然としていた。報道陣、警視庁機動隊、野次馬がぐるりと取り囲む中、封鎖された正門前で暴れている男がいた。

 「俺は、海軍主計大尉だ!開けろ!」


 時代錯誤も甚だしい。すでに、旧軍が日本から消滅してから四半世紀になろうかとしていた。海軍主計大尉も何もあったものではない。しかし、村上一郎(1920~1975)は真剣だったという話だ。

村上は三島が自決してから五年後の昭和50年(1975)3月29日、自身の愛刀でもって自決した。村上は三島に敬意を表していたという。市ヶ谷に駆け付け、暴れたのも、その意識の一つといえる。

村上が三島に敬意を表していたのも、三島が村上の作品を評価していたからという。このことは、岡田哲也氏の『憂しと見し世ぞ』(花乱社)の7ページからの件に記されている。三島は、村上の小説『広瀬海軍中佐』を「人は少なくともまごころがなければ、これほど下手に書くことはできない」と評した。三島は、村上を褒めているのか、けなしているのか、解らない。ただ、「まごころ」という言葉が、村上の琴線に触れたのだろう。岡田氏は村上が主宰する同人誌に寄稿し、村上に師事した人とである。

他方、三島は村上の『北一輝論』を評価していたという話も「楯の會」の方から聞いた。岡田氏の内容と異なるが、いずれにしても、三島が村上の作品を読んでいたのは確かだ。大正14年(1925)生まれの三島に対し、村上は大正9年(1920)生まれ。年齢的には村上が年長であり、軍歴の有無からいえば、村上に軍配があがる。しかしながら、文壇での三島の存在は別格だった。

村上は、元治元年(1864)の「禁門の変(蛤御門の変)」で決起した真木和泉守を否定している。その村上も真木と同じく自決した。異なるのは、三島、真木のように決起ではなかったということである。

残念ながら、この村上一郎の人物について、玉利斎氏から聞きそびれてしまった。もしかしたら、語ってくれたのかもしれないが、私の受信装置が鈍感だったので、結果は同じことだっただろう。

ただ、北一輝の『日本改造法案大綱』などを読んだら、青年将校らはイチコロで感化されるでしょうねと、玉利さんを相手に語ったことは覚えている。

 

                                                      以上

「玉利斎さんとの思い出 三島由紀夫」令和2年6月7日

三島由紀夫が自決した時、私は中学二年生だった。同級生に、頭を怪我して白い包帯をハチマキのように巻いているのがいた。早速、三島の演説の真似をしてウケていた。三島が、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面統監室前のバルコニーから、ハチマキ姿で演説していたからだった。田舎町に一軒しかない本屋に立ち寄ると、三島の文庫本の棚はがら空きで、わずかに数冊しか残っていなかった。その一冊を買い求めたが、今となっては、その題名が何であったか、まったく記憶にない。

再び、三島が登場してきたのは、大学に入学してからだった。二浪の末に入学してきた同級生が、三島の心酔者だった。読め、読めと薦める。時には、「楯の會」のメンバーであった人を紹介してくれたが、さしたる興味も抱かなかった。友人が、「楯の會」メンバーを崇敬の眼差しで見つめていたのは覚えている。

今もって、全ての三島作品を読破したわけではない。しかし、好きも嫌いもなく、三島の人となりを耳にする機会がやってきた。縁あって、三島にボディ・ビルをレッスンした玉利斎氏と仕事を共にすることになったからだ。初対面ながら、「これは、手もとに一冊しかないけど、君にあげよう」と言って、ボディ・ビルの記念誌、剣道九段範士の実父(玉利三之助、嘉章)の記念冊子をくれた。ボディ・ビルの記念誌には、当然、三島との対談が収まっていた。

時折、一時間から二時間、玉利斎氏はスポーツの歴史、ボディ・ビルの歴史、玄洋社に関する歴史を語ってくれた。私はといえば、ノートに一字一句を書き留めていくのが精いっぱい。後で読み返すと意味不明の箇所もあるが、「読書百篇、意自ずから通ず」の言葉通り、次第に系統だった理解ができるようになった。

そして、三島との思い出話が折々に混じる。突然、三島が自宅に電話をかけてきたこと。軟弱な印象を三島にもっていたが、意に反し、その声は太く、強かった。「三島です!」と元気が良かった。機先を制されたとでもいう状態。自身の脇が甘かったとまでは口にされたかは覚えていないが、玉利氏は似たような言葉を口にされた。

人との出会いは、一瞬の油断から生まれる交差点での事故のようなもの。玉利氏の話を聞きながら、そんな風に思った。

                                                     以上

 *三島由紀夫、森田必勝は昭和45年(1975)11月25日に自決した。

No.36「南満州鉄道のはじまり」 令和二年四月十八日

拙著の『玄洋社とは何者か』を購読された方から、第21話について質問があった。


日露戦争のポーツマス講和会議では、東清鉄道の権利をロシアが日本に譲渡することになった。これが後の南満洲鉄道になるが、この鉄道を小村寿太郎は日清共同運行でと考えていた。この日清共同運行について記された文献の照会、並びに共同運行にならなかった経緯についてであった。

この日清共同運行については、『山座圓次郎伝』(一又正雄 編、原書房、昭和49年)に記述されている。資料編として「韓満施設綱領」(未定稿)(極秘)があり、ポーツマス会議を終えた小村寿太郎が、一便先に帰国する随員の山座圓次郎に託した書類である。

この「韓満施設綱領」中に「満洲鉄道」という章があり、「名義上日清両国の協同事業となし、日本法律の下に一つの会社を組織し、該鉄道(東清鉄道のこと)及び付属財産の実価を以って、帝国政府の持ち株とし、清国政府の出資はその希望に任せ、(中略)日清両国人は勿論一般外人よりも株金を募集し、右等の資金を合わして、会社の資本となし・・・・」と出ている。つまり、小村寿太郎は、南満州鉄道を日清共同での運行を考えていた。

しかしながら、共同運行に至らなかった背景として、日清間に政治的不信感があったと考えられる。特に、露清条約、密約(賄賂の見返りに満洲の土地をロシアに譲渡する)、さらに、日英同盟下のイギリスが満洲での権益を求めて日清共同運行を阻害したりなどが考えられる。

南満洲鉄道設立後、大陸に適した機関車、客車、貨車はアメリカから購入した。これに対し、イギリスが日英同盟としての戦勝メリットが無いと、日本政府に注文をつけた。仕方なく、イギリスからも機関車などを購入したが、レール幅の相違(現在のJRのレール幅はイギリス仕様、新幹線のレール幅はアメリカ仕様)が、影響している。日露戦争中も日本軍の列車のレール幅とロシアが敷設したレール幅に相違があり、最前線への物資、兵員の輸送に苦慮した日本軍だった。満洲という大陸では、アメリカ大陸仕様のレール幅でなければ、使用に耐えられない。

蛇足ながら、この山座圓次郎(福岡出身、玄洋社員)という外交官は、後に中華公使として北京に赴任するも、謎の死を遂げている。権益を巡ってのイギリスとの暗闘が原因ともいわれている。

                                                                                                                                                                                                  以上

【参考文献】

・御厨貴編『時代の先覚者後藤新平』(藤原書店、2004年)

・浦辺登著『東京の片隅からみた近代日本』(弦書房、2012年)