浦辺登のコラム2(2026年8月~)

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「歴史伝統文化は民族の歴史」

10月の中旬、インターネットのニュースサイトを賑わせたのは、フランスでの高校生デモだった。半世紀前の日本でも高校生がデモに参加し、学園封鎖をするなどがニュースになったが、現代の高校生が!と驚いた。デモの要因は教育予算が大幅に削減され、教員、教室、設備が大幅に不足したことに対する抗議だった。隊列を組み、プラカードを掲げてのデモだったが、問題はその直後の光景だった。黒づくめの集団が商店を襲撃し、略奪に及んだのだ。高校生のデモ隊とは無関係の集団のようだが、その光景も動画に収められていた。手慣れた、統率のとれた集団だった。

ここで想起するのが、欧州における移民問題である。高福祉国家の欧州だが、その予算を枯渇させた一因に移民がある。EUに対し、人道的見地からドイツの元首相メルケル氏が移民受け入れを提唱した。いま、その反動が表面化しているのではないか。そこで、次の書評から、現実の欧州における移民問題をみていただきたい。

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『誠実な日本人が信じるドイツ神話にイタリア幻想』川口マーン惠美、ヴィズマーラ恵子著、ワニブックス
「月刊日本」令和8年(2026)10月号掲載

本書はドイツに在住する川口マーン惠美氏、イタリアに在住するヴィズマーラ恵子氏による対談本だ。読了後、これは現今日本が抱える問題解決の参考になると確信した。先の大戦では同盟国として日・独・伊は連合国と戦い、敗れた。そして、いまだ、各国が敗戦の陰を引きずっている。独・伊の現状を知ることで、日本の課題、解決策が見えてくる。

特に印象的なのは、欧州の深刻な移民問題だ。アフリカ大陸から地中海を超えてイタリア沿岸にたどり着く不法移民の数は尋常ではない。人道的対処として受け入れるが、強制送還や福祉に莫大なコストを要し、納税者の不満は限界に達している。イタリアの総人口の1割弱を生産性の低い移民で占めれば、国家財政を蝕み、治安は悪化。退廃的な空気すら蔓延する。ドイツも同様に、国の価値が下がり、「らしさ」が失われており、これは他人事ではない。

ここで考えさせられるのが、ヒトラーやムッソリーニというかつての指導者の評価だ。国民に益をもたらした側面もあるが、現代世論では絶対悪と断定され、語ることすら憚られる。これは人々が固定観念に囚われ、思考が停止している証左ではないか。同様の構図は、戦後のGHQによる圧力から、自己検閲という歪な情報操作を続ける日本にも当てはまる。

全7章の中でも、第7章の「日・独・伊、3つの『敗戦国』を分ける歴史教育」は必読だ。222頁からの『帰ってきたヒトラー』の論評において、批判的な着地点なしには作品は成立せず、ドイツ言論界の限界という言葉は意味深である。246頁の「ドイツの自国の歴史否定の教育は限界に達しつつあり」という指摘は、日本にも重なる。戦後日本の歴史教育は暗記ものに堕落し、「なぜ」との疑問を抱かせない。本来、歴史は人間の本質を追及するものであり、単なる自虐的な反省材料ではないはずだ。混迷する現代において、我々が自国を捉え直すために今こそ読まれるべき警世の一冊である。          (終)
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この欧州における移民だが、遡れば第二次世界大戦後の西ドイツにある。ドイツは422万余の戦死者を出し、東西に国は分断された。そして、西ドイツは英米仏、東ドイツはソ連(現在のロシア)の影響下に置かれた。もともとドイツは工業製品に定評があったが、工場労働者となる男子の多くは戦死。そこで、この工場労働者、清掃などの屋外労働者が慢性的に不足したことからトルコからのガスト・アルバイター(ゲスト・ワーカー)を受け入れた。

私自身、今から半世紀前の西ドイツを旅した時、列車内で大きな荷物を抱えたトルコからのガスト・アルバイターと頻繁に遭遇した。街頭で清掃作業をしているのは、どう見ても色浅黒く、髭の濃い男たちだった。このガスト・アルバイターは一時的な出稼ぎ労働にとどまらず、家族を呼び寄せるようになった。枯渇した労働力の補填としてガスト・アルバイターを活用した西ドイツ政府だったが、やがて、ガスト・アルバイターは定住を始めるようになった。

余談ながら、この膨大な戦死者がもたらしたのは労働者不足だけではなかった。適齢期のドイツ人女性が結婚できないのだ。そこで、西ドイツに駐留したアメリカ軍兵士と結婚し。アメリカに渡ったドイツ人女性も多い。戦争花嫁は日本女性だけではなかったのだ。

私は、このガスト・アルバイターと、もう少しでもめ事になる寸前という一幕があった。確か、西ドイツ中部のフランクフルトのユース・ホステルでのことだった。二段式の金属ベッドが居並ぶ部屋を移動している時、むんずと行く手を阻まれた。トルコの青年たちが多数いるなとは思っていたが、その一人だった。ふと見ると、別の青年が床に正座して祈りを捧げている。まったく気づかず、その祈っている青年の前を私は横切ろうとしていたのだ。慌てて、謝罪の意味を表す合掌礼をすると、行く手を阻んだ青年が「いいよ、いいよ、大丈夫だよ」とばかりに笑った。お祈りが終わった青年のところに行って、さっきは申し訳なかったと、ここでも合掌礼でお詫びした。言葉は通じなくとも、やはり、ニコリと笑って「大丈夫だよ」と手で制してくれた。

ただ、先々、この西ドイツは大きな負債を抱えるだろうなと思った。ドイツの工業力は職人気質の頑固と精密さが生む品質の高さだ。しかし、移民が工場労働者として入ってくると、製品に対する品質維持において「抜け」が生まれる。産業というものは、その国の歴史や伝統文化、ひいては共同体が生み出すものだからだ。異なる文化、宗教が他地域に融合するには相当の年数を必要とする。

フランスでの高校生デモの余波はイタリアにも飛び火した。メローニ首相は毅然として暴徒を取り締まると宣言した。今頃、警官隊に取り囲まれ、制圧を受けた暴徒からは、「イターリア(痛いや!)」という叫び声が挙がっていることだろう。

「日台抜きで配られたブリッジのカード」

9月23日から25日まで、中国(中華人民共和国)の習近平国家主席が国賓としてアメリカを訪問した。その歓迎ぶりに、なりふり構わぬビジネスの魂胆が丸見えだった。習近平氏の訪米前、高市首相がアメリカを訪問したが、そっけないを通り越し、虚しさを感じるものだった。こういった対応の乖離は戦後80年余、いつものことだけに、期待も何もしてはいなかった。だが、しかし、トランプ大統領、習近平国家主席の談話内容が報道されると、耳を疑いたくなるような、首をかしげる内容だった。

それは、アメリカと中国とが、ともに日本帝国主義と戦ったという事だった。中国(中華人民共和国)が建国されたのは、昭和24年(1949)である。すでに、日本の連合国軍を相手にした戦争は終わっている。どうやって、中国は日本と戦争したのだろうか。昭和25年に始まった朝鮮戦争に、日本は参戦もしていないが。

考えられるのは、昭和47年(1972)9月29日、日中共同声明による国交樹立によって、中華民国が持っていた権利を継承したからと言っているのだろう。昭和53年(1978)8月12日、日中平和条約が締結されたが、どうにも歴史認識がかみ合わない。第一、中華民国を継承したのならば、中国はアジアの敵ということになる。インド独立の闘志チャンドラ・ボースは中華民国の蒋介石を「アジアの敵」と呼んでいたからだ。チャンドラ・ボースも蒋介石も故人なので、「死人に口なし」で、なんでも発言して良いとは限らないはずだが。

そんな歴史認識の矛盾を反芻している時に思いだしたのが、日本と中華民国の戦い、いわゆる「日中戦争」での秘話だ。その話については次の書評で概要を理解していただきたい。

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『人間の条件 1942』劉震雲著、劉燕子訳、集広舎
・民の真実は権力者によって葬られる

不思議なことに、本書には、同一内容の小説、映画の脚本が収められている。訝りながらも読了したのだが、理解が及ばない「空白」があった。それは、この作品が抱える問題が複雑、多岐にわたっているからだ。

舞台は1942年の中国大陸の河南省。日本では昭和17年にあたる。当時、日本と中国は戦闘状態だった。中国国民党からいえば日本は「侵略者」。日本からいえば中国国民党はアジアの治安を乱した欧米の走狗。国民党トップの蒋介石は、米国、英国、ソ連などの連合国軍の一員でもあった。

事件は中国国民党支配下の河南省で起きた。大旱魃で3000万人が難民となり、300万人が餓死したという。直ちに難民救済を進めるべきだが、蒋介石は連合国軍における地位保全が最重要課題だった。日本軍との戦闘において戦功を挙げることが急務。国際世論に自国の難民救済を要請することは、面子が許さない。3000万人の難民、300万人の餓死者という事実は、蒋介石の思考が「無かった」こととして処理した。逆に、蒋介石の忠実な部下は軍費調達のため、過酷な徴税を河南省に課すのだった。

しかし、蒋介石が「無かった」ことにした難民は、日本軍が放出した救援物資によって救われた。「貨幣に色(善悪)はついていない」といって世間は揶揄するが、餓死寸前の難民にとって、食糧の色の識別は不可能。売国奴と罵られようが、危機を救ってくれるものが「善」である。敵対する日本軍が中国民衆を救援したという事実は、本書で初めて知った。従前、日本軍は中国を蹂躙した「侵略者」と教えられてきた。それだけに、驚きだった。

驚愕するのは、難民の実態である。すでに、樹皮、雑草の類までをも食べつくしていた難民は、娘や若い妻を娼妓として人買いに売り渡す。それも、わずかな穀物と引き換えにである。売り渡す肉親を持たない難民は餓死し、野犬の御馳走になるだけ。大旱魃は1942年だけではない。341ページから347ページにわたって旱魃による悲劇がズラリと並んでいる。その悲劇の陰には、蒋介石夫妻の喜劇ともいうべき飽食が彩を添えているのだ。

冒頭、小説と脚本の二部構成になっていると述べた。その重複の理由については「訳者あとがき」に詳しい。解説を兼ねる一文からは、想像を超えた事実が判明する。台湾に逃亡した蒋介石。その後をうけ、毛沢東の共産党軍が政権を握った。その施政において、河南省の難民に劣らぬ、いや、それ以上の餓死者が発生していたというのだ。読了後、頭を悩ます「空白」の正体は、為政者が「無かったこと」として歴史の襞に押し込めた「事実」であり、民を顧みる事の無い「傲慢」だった。この「空白」には、主義主張、宗教すらも割り込む隙がない。本書が私たちに示唆する問題は複雑多岐と述べたが、人間とは何ぞや、人間の条件とは何ぞや。次々と問いかけてくるからだ。

言論統制下、真実は小説や映画でしか表現できない。状況によっては曖昧な表現も致し方ない。なぜ、本書が二部構成なのか。その隠れた意図を、是非、掴んで欲しい。(終)
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この作品が表に出てきた背景には、中国国民党がいかに過酷な治世を敷いていたかを喧伝するために作られた。ところが、その中国国民党の失政を補ったのが、日本軍だった。面白いことに、その事実が述べられている。 

今回の米中会談のように、日本の帝国主義に対し、アメリカと中国が共に戦ったというのであれば、蒋介石による失策も継承するということになる。更に遡れば、満洲族政権の清朝を倒し、漢民族の独立を支援し、中華民国建国を成し遂げた日本の功績も認知するということである。中華民国建国後、日本を訪れた革命の父、国父である孫文は演説で「革命成就は日本人のおかげ。特に、九州人のおかげ」と演説をした。当時の新聞記事にも掲載されている事実だ。

「井戸の水を飲むときは、その井戸を掘った人のことを忘れてはならない」と田中角栄首相(当時)の英断を中国は称賛した。そのことに、多くの日本人は礼節の国として中国を見ていた。しかし、何やら、金満大国アメリカの模倣に走り、余裕を失っている。

さて、今回のトランプ大統領と習近平主席との会談は、コントラクト・ブリッジで勝負に出たのだろうか。さすれば、日本と台湾も加わらねば面白みに欠けるのでは?

「インカ帝国の怒り」

ジャガイモが日本に入ってきたのは江戸時代初期、オランダ商館(長崎)のオランダ人が持ち込んだものと伝わる。オランダの植民地インドネシアのジャガタラから伝わった芋として、ジャガタラ芋が転じてジャガイモとなった。

そのジャガイモが今、日米間の貿易交渉の材料にされている。生ジャガイモの輸入拡大という市場開放を日本は求められている。少子高齢化で人口減少が問題視されている日本人の胃袋に、米国産ジャガイモを更に詰め込めと言ってきている。すでに、1970年代から、ファミレスなどのフライドポテトは米国産のジャガイモだ。植物検疫法の関係から、加工して日本市場に出回っている。しかし、それでは日米間の貿易不均衡は解消できないとして生のジャガイモも買えと言ってくるのだ。

ここで問題なのは、日本国内のジャガイモ農家が打撃を受けるだけではなく、米国産ジャガイモが持ち込まれることでの土壌汚染だ。国産ジャガイモが米国産ジャガイモの菌によって全滅する可能性があるのだ。カロリーベースで約38%、実質10%未満の日本の食糧自給率が、さらに下がる。価格においてアメリカ産ポテトにかなわない北海道のジャガイモ農家は廃業間違いなしとなる。

この米国産ジャガイモだが、アメリカの過剰生産が止められないことに原因がある。つまり、大量生産、大量販売することでアメリカの農業は維持されてきたのだ。その大規模農業を支えたのがトラクターである。日本の農家が利用するものとは異なる、巨大なトラクターによる農業だ。質や多様な品種は別にして、巨大トラクターによって単一農産物の大量生産を可能にしたのだ。

そのトラクターついては、次の書評で問題点を理解していただきたい。

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『トラクターの世界史』藤原辰史著 中公新書
 ・人類の歴史を変えた馬たち
  2017年(平成29)10月22日(日)付 西日本新聞掲載

田植機、稲刈機など、いまや日本の農業に機械は欠かせない。黙々と作業を進める農業機械に感心するが、その技術の先駆がトラクターである。その誕生秘話、発展に至る苦難の事実を詳細に検証したのが本書になる。

驚くのは、農業が世界変動に大きく影響を及ぼすという事実。資源を求めての近代の戦争に鍬持つ農民が駆り出されたのは、歴史が証明している。当然、農業は非力な女性、老人が中心となる。その労働力不足の解消、食糧増産の救世主がトラクターだった。しかし、そのトラクターの履帯と呼ばれるキャタピラが戦車を誕生させたのは、皮肉としか言いようがない。

さらに、トラクターの重量が土壌破壊を招き、化学肥料を多用することにもなった。本来、農民の過重労働からの解放が機械化だったが、新たな環境問題を生み出し、ディーゼル・エンジンの振動による健康被害も発生した。加えて、農産物の生産性が向上したことで価格が低迷、トラクター購入費用が農家の経済を圧迫した。間接的とはいえ、1929年(昭和4年)の世界恐慌の要因が、トラクター出現にあるとの指摘には目を見張った。

深刻なトラクター話だけではない。スポーツ・カーの代名詞であるポルシェ、ベンツ、フィアット、ランボルギーニの技術がトラクターに応用されていた。あの世界的ミュージシャンであるエルビス・プレスリーがトラクターのコレクターであったという秘話に、農業大国アメリカの余裕すら垣間見える。

翻って、日本におけるトラクターの発展については、ヤンマー、クボタ、井関、三菱農機の技術革新が稲作に貢献したと述べる。この件には、日本人の国民性を再認識させられた。狩猟型の欧米、循環型の日本という、農業に対する根本的な思想の相違、トラクターを通じてのイデオロギーの比較ができる一書だった。全6章、単なるトラクターの発展史として読むと、とんでもない意趣返しを食らうので、要注意だ。    (終)
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巨大トラクターを駆使しての大規模農業を営むアメリカだが、その歴史をさかのぼると一人の日本人に行きつく。それが牛島謹爾(1864~1926)だ。アメリカでは「ポテト・キング」と呼ばれた。牛島は現在の福岡県久留米市梅満町出身だが、若き日、江崎済(儒学者)の北汭義塾(ほくぜいぎじゅく)に学んだ。この塾からは三越百貨店を興した日比翁助、陸軍大将に昇進した仁田原重行を輩出しており、牛島、日比、仁田原は北汭義塾の三傑と呼ばれた。

牛島は、明治21年(1888)師走、英語を学ぶために渡米。カリフォルニアで15エーカー(東京ドーム1・3個分の広さ)からジャガイモづくりを始める。なぜ、ジャガイモなのかといえば、白人にとって「米の飯」に匹敵するのがジャガイモだからだ。牛島はアメリカ人が見向きもしないサンフランシスコ湾に面したデルタ地帯を開拓し、明治29年(1896)ころ、45600エーカー(小豆島ほどの広さ)を開拓した。湿地帯に堤防を作り、地面を乾燥させ、畑にした。もともと、草木が腐敗して堆積した泥濘地であったことから5年から6年は肥料不要の肥沃な畑だった。これによってカリフォルニアのジャガイモ生産量の80%を牛島が生産したのだ。最盛期には60000エーカー(大阪市ほどの広さ)の畑でジャガイモ、玉ねぎを生産していた。

しかし、明治29年頃、サンフランシスコ市長が排日を主張し始める。勤勉な日本人がアメリカ西海岸の経済を掌握していたからだ。更に、日系移民がカリフォルニアでの柑橘類の栽培にも意欲を見せたことから、アメリカ世論が「西海岸は日本の植民地になる!」と騒ぎ始めた。日米交渉が続けられたが、排日土地法が議会で承認され、続く昭和16年(1941)の日米戦争勃発で日系人が開拓した畑はタダ同然で取り上げられてしまった。この日系移民から奪った畑を巨大トラクターで大量生産しているのが、今回問題となっているジャガイモだ。

もともと、ジャガイモはスペイン人がインカ帝国を侵略したことで欧州に伝わった。トウモロコシも先住民族であるインディアンの食べ物だったものが欧州に伝わった。生ジャガイモをめぐる日米間の問題だが、神からいただいた食べ物を政治の道具に使ってインカ(いいんか?)帝国。

「久方ぶりの大阪を歩いてオッペケペー!」

9月15日の午後、大阪・岸和田市の岸和田健老大学の招きで講演を行った。岸和田といえば全国的に「岸和田だんじり祭」で有名だが、訪れた日は祭の準備中で、市中に興奮を感じるものだった。講演前日は大阪・堺市に前泊していた。大学時代の友人が堺に住んでいて、久しぶりに会おうとなったからだ。

私は今から30年以上も前、大阪・吹田に5年ほど住んでいたので、土地勘はある。久しぶりだなぁ・・・で、新大阪駅に降り立ったが、暑い!なんじゃ、この暑さ。湿度の高い大阪独特の熱気に歓迎された。まあ、それにしても、インバウンドの多いこと、多いこと。地下鉄御堂筋線も、南海電鉄「なんば駅」からの電車もインバウンドだらけ。車窓からの風景を眺めながら、昔の記憶と現実とを擦り合わせながら、インバウンドの国籍などを確認していた。

南海電鉄「堺駅」に到着。チェックインまで時間があるのでホテルに荷物を預けたが、受付は日本語を話す東南アジア系の人だった。ここは日本か?

友人との待ち合わせ時間があるので、森鷗外の短編小説「堺事件」の現場を歩く。明治の初期、堺の港を守護する土佐藩士とフランス水兵との騒乱事件が「堺事件」だが、フランス側に死傷者が出たことから謝罪を求められた日本政府。賠償金と土佐藩士20人の切腹で決着した。その切腹現場が堺市の日蓮宗妙国寺である。切腹時、土佐藩士が躊躇なく死に臨むので、検視(死)役のフランス人が恐れをなした。以降はネタバレになるので、小説の一読をお願いします。

その後、ホテルにチェックインすると、なんと、側に「堺事件」の現場を示す石碑がある。翌朝、その石碑を確認すると、その傍に「大和挙兵天誅組の変」での志士たちが上陸したことを示す石碑もあった。あの久留米水天宮の真木和泉守の門弟や筑前の吉田重蔵(田中重二郎)も「天誅組の変」に参加している。筑前、筑後(福岡県)との因縁に、感慨深いものがあった。

この「天誅組の変」での筑前、筑後との関係を次の書評で知っていただきたい。

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『天誅組の変』舟久保藍著、中公新書

・「天狗党の変」「禁門の変」にまで繋げて解説して欲しかった。
 本書は武力による倒幕維新の魁として注目される「天誅組の変」についての研究書だ。前章、終章を加え全6章、210頁余で構成されている。本書の狙いは文久2年(1862)の「伏見挙兵」、翌年の「天誅組の変」、「生野の変」が一連の事件として繋がっていることを証明するものだ。その中心人物として平野國臣を置いている。

この平野國臣が活躍した時代の福岡藩主は黒田斉溥(長溥)だが、薩摩島津家からの養嗣子だ。父は蘭癖大名として名高い島津重豪であり、名君の誉高い島津斉彬とは2歳違い。江戸の薩摩藩邸では斉溥・斉彬は兄弟のようにして育てられた。この島津斉彬が藩主就任前に起きた事件がいわゆる「お由羅騒動」だが、この時、4人の薩摩藩士が福岡藩に亡命してきた。黒田斉溥としても、斉彬派の者であるならばと庇護下に置いた。その亡命者の一人が北条右門(木村仲之丞)であり、平野國臣に時勢を説いた人だった。入国が難しい薩摩に平野が入国できたのも、この平田篤胤派の北条右門の存在があったからだが、この北条右門の妻女は福岡藩の吉永源八郎の養女である。更に、亡命者の一人である葛城彦一は海を介して馬関(下関)の白石正一郎ともつながっていた。

こういった縦横の人間関係に加え、久留米・水天宮の真木和泉守と平野とが結びついていれば、伏見(寺田屋)挙兵、天誅組の変、生野の変が連鎖反応を起こすのは自然の理である。ただ、ここで、なぜ、天誅組の変に真木和泉守の門下生が参画しているかだが、これは、後醍醐天皇を祖とする南朝の残滓が強く関係している。真木が南朝の忠臣・楠木正成を崇拝していたのは有名な話だが、天誅組の変が起きた奈良の吉野も南朝の故地だ。懐良親王の墓所、良成親王の陵墓がある福岡県八女市と吉野町は姉妹都市の関係である。吉野町の地形と八女市の地形が酷似していることに驚きを覚えるが、年初、良成親王は吉野の方角に向けて遥拝していたという。

そういった事情のもとに本書を読み進んでいったが、いかに「天誅組の変」における挙兵に大きな意味が含まれていたが理解できた。加えて、先人たちの苦難の足跡にも、哀惜の情を覚えずにはいられなかった。波状的に挙兵が起きたことで、徳川幕府の屋台骨を揺るがせ、最終的には維新に至ったことを思えば、「伏見挙兵」「天誅組の変」「生野の変」を繋げるという展開は当然、あってしかるべきものだった。

終章210頁に平野國臣が宮内庁に献納したという『回天管見策』だが、平成26年(2014)に平野の遺族関係者から、「献納させられた」との報告がなされている。平野の弟である平山能忍は政府の官吏であったことから、献納という形式を選択せざるを得なかったのだろう。「思想は為政者によって焚書される」というが、なんとも胸の痛む話だ。

できれば、伏見挙兵に関わった真木和泉守だけに、「天狗党の変」「禁門の変」にまで繋げて解説して欲しかった。     (終)
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ただ、ここで、なぜ、天誅組は京都から淀川を下り、大阪湾に出て、堺港に上陸し、山を越えて大和の吉野に入ったのだろうかという疑問が湧きおこる。

ここで吉野ということから考えると、『古事記』に出てくるように、大海人皇子(おおあまのみこ)が皇太子の地位を捨て、出家のために吉野山に籠った伝説にちなんでいるのではと考えた。大海人皇子は天武天皇になるが、いわば、復活の聖地が吉野だったのではないだろうか。同じく、後醍醐天皇も吉野に籠って復活の時期を待っていたことを考えると、天誅組も吉野から挙兵し、天皇親政をと考えていたのではと想像する。

大阪滞在三日目、帰路の新幹線乗車前、時間があったので大阪市北区の真言宗太融寺に行った。ここは境内に自由民権運動の碑、国会開設期成同盟会の碑がある。碑の確認が先であり、雨だったので気付かなかったが、山門を出たすぐ前はラブホ街だった。昼の日中から、どこも営業中。

これも自由民権運動の成果なのか・・・。オッぺケペー!(by川上音二郎)

「客室満杯で乾杯?」

日本、世界に話題を振りまく福岡県議会だが、その最中、しれーっと「市長、辞めます」宣言をしたのが高島宗一郎福岡市長。その直後から、雨後の筍状態で立候補する方々が続いた。そこで思い出すのは前回の福岡市長選挙である。福岡大学経済学部教授の木下敏之氏が立候補するのではとの動きがみられた。平成11年(1999)から2期、佐賀市長も務めた木下氏だけに、福岡市政についての見解も書籍になっていた。これが、立候補?と見られたのだ。今回、4年前のものだが、木下氏著書の書評を読んでいただきたい。

尚、木下敏之氏は令和8年(2026)2月の衆議院議員総選挙において参政党から立候補され当選。現在は衆議院議員として国政の場で活躍されている。

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 『データが示す福岡市の不都合な真実』木下敏之著、梓書院

・福岡市は最強でも、スゴイわけでもない

本書は題名が示す通り、九州の中核となる福岡市についての解説だ。第1部「データが示す福岡市の不都合な真実」、第2部「福岡市民の所得を増やすための政策提案」の2部構成となっている。いわゆる福岡市の現実の偏差値、通知表だ。折々、コラムが挟み込んであるので、250ページ弱の一冊は気軽に読み進むことができる。

従前から、福岡市は九州全域を視野に入れて考えなければ経済成長はありえないと言われていた。そのことは第1部の第3章「福岡市の経済は全九州を相手に卸売、小売業で稼ぐ内需型」がデータで示している。現在の福岡市は、地域外の自治体に対し、関心が低すぎるのではとの批判があるが、経済成長を視野に入れるのであれば福岡市は九州各地との連携を考えるべきだ。このことは、出生率もさることながら、賃金の伸び悩みを解消することにもつながる。示された数値による解説に、唖然とするしかなかった。

福岡市に対する域外の方々の印象は、「自然に恵まれている」「食べ物が美味しい」「お祭りがたくさんあって楽しそう」という好印象で語られる。しかし、マスメディア情報に安堵はできない。ある方は、「世界一、幸せな都市」と福岡市を揶揄する。その背景には、熾烈な競争をせずとも、そこそこの努力で飯が食える都市だからとの事。穿った見方をすれば、誰が首長に座っても、さしたる不満が起きないということだ。

ところが、近年、不満が少しずつ表面化している。まず、公共交通機関での地下鉄の在り方。延伸工事は出たとこ勝負で陥没事故を幾度も起こした。開業が遅れる事で税金との費用対効果が見えない。循環線が無い。JR九州との相互乗り入れはあるものの、西鉄電車との相互乗り入れがない。これは、第2部の第3章「福岡市の国際的地位と都市としての魅力を高める対策とは」にも関連する。この問題は、九州全域を視野に入れるという発想が欠如しているからだ。

更に、大型のクルーズ船が停泊できる港湾施設はあっても、観光による税収という純利益を生み出す体制にはなっていない。港湾、道路などの公共設備の保全に税金は投入するが、回収するという発想がない。このことは、福岡市内の観光において、大型バスを駐車できる場所が少ないことにも表れている。まったく無いところもある。これでは、海外はもとより、国内からの観光客を呼び込むことは不可能。せっかく、見学希望者が多い福岡市西区生の松原の「元寇防塁」だが、近隣には駐車スペースがないのだ。(ようやく、地元の要望で実現した)

また、本書で幾度か取り上げられた志賀島(福岡市東区)だが、博多駅や天神からのアクセスが不便。そうであれば、能古島(福岡市西区)フェリーのように車両を乗せるフェリーの方が利便性は高まり、志賀島を訪れる方も増えるのではないか。

少子高齢化という人口問題も含め、読み進みながら、幾つも、幾つも、不満が浮かび上がる。この不満、将来への不安はどこにぶつければ良いのだろうか・・・。誰が、この潜在リスクを解消してくれるのだろうか。(終)
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現在、福岡市、及び周辺自治体が不安を抱いているのが、水問題。かつて昭和53年(1978)5月20日~翌年の3月まで、福岡市は287日間の給水制限だった。この時、私は大学4年だったが、大学病院への給水を優先するということで全学休校。とはいえ、当初の予定通り、この時、私はドイツ・オーストリアを放浪していた。搭乗前、福岡空港内のレストランで食事をしたが、紙皿、紙コップ、プラスチックのナイフにフォークという情けない状態だった。飛び立った機内からは、赤茶けた霞に覆われた福岡市を眼下にしたのを覚えている。

次に、平成6年(1994)8月4日から翌年の5月31日まで、295日間、福岡市は渇水に見舞われた。この時は、前回の大渇水の経験から九州一の大河筑後川からの導水によって、かろうじて乗り切った。

そして、今年、三度目の大渇水かという危機的状態を迎えている。一時は福岡県全体のダム貯水率が10%という刹那、雨に恵まれた。しかし、再び、徐々に貯水率が下がっている。「天神ビッグバン」と称して、福岡市中心部の再開発が進み、容積率を高めたビルが屹立し始めたが、水が無ければ、いかんともしがたい。次の市長に就任する方は、この水問題を常に念頭に置かなければ市政は円滑に運ばないだろう。

更に、公共交通機関である地下鉄の敷設、延伸、相互乗り入れにおいても、混雑緩和策が手つかずのままになっている。基本的町づくりは公共交通機関である鉄道、道路を敷設して市街化を進める。ところが、住宅地、市街を開発して、公共交通機関を後から整備し始めるので大混雑、大渋滞を招いている。今回、市長選挙に立候補し当選しても、どちらかといえば、新市長は後始末に翻弄されるのではないだろうか。大規模公共施設の建て替えも複数が目前に迫っている。更に、観光客の受け入れにおいても、インバウンドの異常な来日でホテル予約が取れない。郊外の宿泊施設を探す方も多いが、皆さん、考えることは同じ。どこも満杯が続いている。

ここでふと、長渕剛の「乾杯」の曲を思い出した。

 満杯! 今、君は宿求め
 大きな大きな荷物抱き
 遥か長い道のりを歩き始めた
 君に幸あれ!

 お後が宜しいようで。

「タイパの時代?タイパって、何?」

今では日常風景に溶け込んでいるスマホだが、なじみ過ぎて、「おいおい、それでよいのか?」という場面に遭遇する。ある時、会合で久しぶりに某氏と会った。挨拶が済むと早々に、某氏は卓上にスマホを置いて、しきりにLINEでのメール交換をしている。普段、頻繁に会える距離の関係ではない。それだけに、生の意見交換をと思っても、声をかける隙も無いほどメールに熱心だった。「いったい、あなたは、ここに、何をしに来たの?」と疑念しか湧かなかった。(ある意味、人間性を疑いたくなる)

これに限らず、電車内でもスマホに夢中の人々で埋め尽くされている。動画鑑賞、ゲーム、メールの送受信。たまに、読書中の人を見かけると妙に新鮮に感じる。いったい、いつから、こんなにも日本人はスマホに夢中になってしまったのだろうか。

フランスではこの9月から高校生の学校内スマホ禁止となり、オランダ、イタリア、ベルギーなどでは小中学校でのスマホ持ち込み禁止である。子供とデジタル空間の隔離、いわゆるSNS利用制限について議論が進んだ結果だが、日本では、制限や禁止という議論が曖昧な状態である。

このスマホ利用について、早くから弊害を訴求する研究者がいた。その研究者について、書評で紹介したい。

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『スマホ脳』アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳、新潮新書

・健全な社会にしたいのならば、今すぐスマホの利用制限を


現役の大学生、OBを集めた団体の講演会に招かれた。その講演者は、某新聞のネット配信担当部署の編集者だった。講演の冒頭、新聞を読んでいる人、いない人について挙手を求められた。学生で新聞を読んでいる者は皆無。そこで、この講演者は、新聞購読が減少するなか、ニュース配信という社会的使命としてスマホによる配信を促進しているという。我田引水ではなかろうかとの疑問を抱きながら話を聞いた。新聞がインターネットでニュースを配信するようになったのは、平成8年(1996)からという。さらに平成19年(2007)にスマホが登場し、これでライフスタイルが変わったと断言する。新聞社側からすれば、スマホの普及により社会の末端の情報収集力が増し、配信しやすくなったという。しかし、この解説を聞きながら、スマホでの広告収入が新聞社の収益を増している現実からして、詭弁に思えてならなかった。

そんな講演を聴いた後、別の講演会でスマホの普及に警鐘を鳴らす話を聴いた。そこで、早速に手にしたのが本書である。著者はスウェーデンの精神科医だが、早くから『一流の頭脳』という世界的ベストセラーを著したことで著名な人だ。論理的に、人間の進化と脳の発達について、全10章、250ページ余、簡明な言葉で説明がなされている。人間が不安を抱くのは、危険な状態をいかに回避し、生き抜いて来たかの結果である。人間の脳は悪い噂が好きというのも、その情報収集の癖からのものという。そんな脳には、経験したことのないダメージがスマホなどの機器によって加えられている。

すでに、インターネットの登場により、SNSでの弊害がニュースになるほどだが、つい、目先の利便性に誘われスマホに手を出す。表現は悪いが、習慣性薬物の変形がスマホであり、脳の退化に繋がっている。脳は文章を書くだけではなく、生き延びるために発達したが、このままではインターネット環境から抜け出せない人間は死滅する可能性すらある。

本書を読みながら思い起こしたのは、パチスロである。昼間、大人たちは大挙して「ラッキーのドーパミン」を求めてパチンコ店に押し寄せる。新型コロナ感染に怯え、外出自粛を求める時期でも、パチンコ店は平常に営業していた。あのパチンコ店は、年齢制限、時間制限が設けられている。さすれば、スマホも、年齢制限、時間制限を設けるべきだ。特に、学校でのスマホ利用を制限したら成績がアップしたという箇所は、幼い子供を抱える親たちに伝えるべきだ。本書に合わせて、柳田国男著『壊れる日本人』を読了することを薦めたい。平成19年(2007)当時から、日本人の脳を破壊するものとして過剰なインターネットの利用に警告を発していたものだ。

本書を読了し、早速、SNS関連の接続時間の制限を試みている。      (終)
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たぶん、欧州での青少年のスマホ使用についての制限は、このアンデシュ・ハンセン氏の影響が強いからと考える。

それにしても、日本は困ったものだなぁと思っていたら、面白い手法を紹介してくれる講演会に遭遇した。講演者は中島美鈴さんという臨床心理士の方。「夢を叶える時間管理」と題しての話だった。

日本で偏差値の高い大学の学生といえども、自身の時間管理は人任せであることに中島氏は驚いたという。幼稚園から高校まで、予備校や塾も含め、時間管理を学校や教師、親が決めているのだ。本人は指示通りに行動すれば、何も問題が無い。そして、念願の大学に入学すると、何をどうして良いのかがわからなくなる。「あれをやりたい」「これもやりたい」という、心の奥底に眠っている願望や欲望すら、まったく、見えていないという。

こんな現実を目の当たりにして中島氏は一念発起で臨床心理士としてのキャリアを重ねていく。現代日本での深刻な問題は、高校生らがスマホ中毒になって、時間管理ができていないことと警鐘を鳴らす。わずか5分、スマホ画面を開かないという約束事が守れない。これでは、受験勉強どころか、日常生活における学校や家庭でも浮ついてしまう。この問題解決のための時間管理について、中島氏は解説をしてくれた。願望や目標達成の図を資料として配布されたが、思わず「これは、大谷翔平選手のマンダラ・チャートじゃないか!」と口にした。周辺でも、「確かに!確かに!」と頷く方は多かった。人間の脳はフル回転で働いている。何か小さなことでも達成したら「ご褒美」をあげると脳は喜びを感じるそうだ。

タイム・パフォーマンス(時間的効果)を、タイパと呼ぶ。しかし、現今日本、時間管理が効果的に運用されている風ではない。タイパとは、「怠慢でパーになる」に読み替えて良いかもしれない。

「たかがラーメン、されどラーメン」

今や国民食となったラーメンだが、これは実に不思議な食べ物だ。その不思議なラーメンから人間模様を描くのが「九州ラーメン研究会」会長の原達郎さんだ。原達郎さんと私は、実に30年以上の交流があり、私の転勤先であった大阪、東京でも福岡在住の原達郎さんとラーメン情報を交換していた。

私は東京で勤務している頃、「九州ラーメン研究会 関東支部」を立ち上げ、独り悦に入って活動していた。自宅を連絡先にした名刺までも持っていた。このプライベートで用いる名刺だが、意外な効用を生み出す。取材で初対面の方に会うと、「何者?」といった感じで怪訝そうな表情をされる。そこでこのラーメン研究会の名刺を出す。何がおかしいのか、「ブッ」と吹き出す方もいれば、歓喜の表情で「おいしいですよね、九州の豚骨!」と初対面とは思えないほど人間関係の溝が埋まる。冗談半分で持っていたラーメン研究会の名刺だったが、実にありがたい取材ツールだった。

冒頭、不思議な食べ物がラーメンと述べたのも、共通項、思い出の幅、深みが大きいからだ。そこで、このラーメンについて、原達郎さんの著作書評から歴史も含めて知っていただきたい。

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『ラーメンひと図鑑』原達郎著、弦書房

・人それぞれ、ラーメンに思い出の湯気が立ち上る

本書は、九州ラーメン研究会代表の原達郎氏が書き溜めた、ラーメンと人にまつわるドラマである。読売新聞西部版夕刊に連載されたものをまとめた一冊だ。近年、ラーメンといえばエリアごとにガイドブックが出版され、外食における市民権を確立したのは喜ばしい。反して、「うまい、イマイチ」などの評価にさらされるという弊害が生じたのも確か。しかし、この本はそういった評価のためではなく、醤油、味噌、豚骨の区別無く、日本人ならば誰もがすすったことのあるラーメンのドラマだ。

筆者は福岡市在住。そのため九州地区のラーメンの話題が多くなるのは致し方ない。しかし、全国に博多ラーメン、豚骨ラーメンの店が進出した割には九州地区のラーメン情報、特にラーメン店の主人の個性が伝えられるということはない。地道な取材から滲み出た人間味あふれる九州エリアのラーメン情報は別の意味で美味。作家・漫画家、芸能人・スポーツマン、政治家・経済人、文化人・宇宙飛行士、やんごとなき方々がラーメンをすする。店主も様々。その店主を訪ねて原氏の人間観察力が生きる。巷では、どうしても有名人ご贔屓のラーメン店が主力になりがち。けれども、庶民の楽しみであったラーメンを庶民に供してきた店主の話はコクがあってクセになる。

やんごとなき方々に登場する朱舜水(水戸光圀にラーメンを食べさせた)、聖一国師の件などはラーメンの歴史、年越しそばの起源にも触れ、トリビアものだと思う。

著者は他に『九州ラーメン物語』『久留米ラーメン物語』という著作がある。併読されると日本人にとってのラーメンとはなんぞや、と考えさせられる。        (終)

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この原達郎さんの『ラーメンひと図鑑』だが、なんと、168頁には私の名前が出ている。というのも、昭和33年(1958)に発売が始まった我が家のチキンラーメンの思い出を原達郎さんがまとめてくれたのだ。当然、書評にも記したように、読売新聞西部版夕刊に掲載された。

発売当初のチキンラーメンは一袋が35円。子供の駄菓子屋でのおやつは5円から10円が相場の時代である。それこそ、近所の駄菓子屋ではキャラメルどころか、芋飴(サツマイモの澱粉が原料)が売られていた時代だった。ゆえに、チキンラーメンは高額な食べ物だった。さらに、チキンラーメンは簡単に手に入らない。人気大爆発で、まず、九州の田舎には回ってこないのだ。そんな貴重なチキンラーメンを、なんと、貧乏公務員であった父が手に入れてきた。得意満面の父は、まるで手品でも見せるようにチキンラーメンを作ってみせた。ところが・・・。

「これは、ラーメンやなか!」
 吐き捨てるように私が言ったので、ついには父が激怒。苦労して、高い金を出して買ってきて、子供を喜ばせようと思ったのに・・・。親不孝な私は偽物のラーメンとして拒絶したのだ。たぶんに、事の顛末は拳骨の一発を食らって泣きながら食べたのではと思う。(記憶はすでに、どこかに飛んでいる)

もうひとつ、このチキンラーメンでのとんでもない思い出がある。日清食品は「麺ロードを行く」として新聞に企画広告を出していた。それに意見なり、感想なりを送ってくださいという。そこで、私は日清食品の広報部に感想を郵送した。しばらくして、自宅に宅配便が届いた。日清食品からのお礼としてのチキンラーメン30食分(1箱)だった。だが、それを見た愚妻が、「なんで、チキンラーメンを買ったの!」と怒る。発売当初のチキンラーメンは高額だったが、発売から四半世紀も経つとスーパーで安く買える。それなのに、なぜ、わざわざ注文するのかと問い詰めるのである。懸命に事情説明をして無罪放免となったが、「そげなこと、早う、言わにゃ・・・」とケロリとしている。
なぜか、チキンラーメンには「怒られる」という思い出がついて回る。

件の読売新聞に掲載されたチキンラーメンの思い出はコピーを日清食品広報部に郵送しておいた。すると、チキンラーメン30食分(1箱)が送られてきた。今度は、愚妻も怒りを爆発させることなく、「まぁ、ありがたい。うちには食い盛りがおるけんねぇ」だった。

「うどんは病人の食べ物。ソバは貧乏人の食べ物。ラーメンは金持ちの食べ物」とは、某氏が言った言葉だが、やはり、ラーメンは特別な食べ物なのかもしれない。

今回、原達郎さんのラーメンの話を紹介しているが、当初は「柳川と中村天風」と題しての講演をお願いしていたのだった。だが、松田聖子、オノ・ヨーコ、フーテンの寅さんと、様々な幅広い原達郎氏の人生譚が聞けた。

九州ラーメン研究会は、夏と冬、総会と称しての親睦会を開いている。先日の会では、名島亭の城戸さんが歌手のミーシャの来店予約を断ったという話が爆笑ものだった。
「ミーシャて言われても、誰か、わからんし、知らんもん」。これでイイのだ!

「心に自由の種を蒔け!オッぺケペー!」

今夏、昨年に続く酷暑である。一時期はダムの貯水率が10%を切る寸前だった福岡県だったが、雨に恵まれた。ところが、この水不足が解消されてホッとする間もなく、今度は7月に入って福岡県議会の議長、副議長選出に伴う金銭疑惑が浮上した。議長、副議長就任にあたり、慣例の「申し渡し」として金銭の授受、ゴルフ、宴席の接待を行うというものだった。それも、一年交代での議長、副議長の持ち回りなので、議会が特殊な集団(村社会)として機能していたのだ。

ここから福岡県議会の体質、議員の資質を問題視するマスコミ報道が続いた。しかし、なぜ、これほどの自浄作用の働かない集団になってしまったのかを私は考えていた。

まず、福岡県という自治体だが、少々、その構成が他県と異なる点がある。それは福岡県には福岡市、北九州市という政令指定都市がある。この政令指定都市だが、地方自治法に基づき、人口50万以上の自治体が、都道府県から権限、財源を譲渡されている都市のことをいう。簡単にいえば、福岡県、北九州市、福岡市という3つの自治体を統合して福岡県を構成している。さらに、人口比率でみると、福岡県全体で約507万4千人だが、福岡市は約167万2千人、北九州市は約89万8千人となり、2つの政令指定都市で福岡県の人口の半分を占めている。これを見ると、政令指定都市選出の県議会議員は県政に必要なのかという疑問すら湧き起こる。国政においても参議院は衆議院議員に落選した議員の救済組織になっている。ある意味、福岡県議会も参議院も特権階級組織になっているのではないか。日々、国家国民のためにと尽力されている議員がいるのも確かだが、議会組織が特殊な集団になっているのは否定できない。

そこで、思い出したのが集団という構成員の心理を述べた本だ。集団という範囲、規定が多岐にわたるため、曖昧な書評かもしれないが、集団にはこういう心理が働くということを読み取っていただきたい。

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『集団はなぜ残虐にまた慈悲深くなるのか』釘原直樹著、中公新書「月刊日本」2025年7月号掲載

序章、終章を加え、全9章で構成される本書だが、その内容からは様々なことを考えさせられた。関東大震災での一般市民による朝鮮人虐殺、ナチスの強制収容所でのユダヤ人大量虐殺、大東亜戦争(太平洋戦争)での自決の脅迫など、極限状態とはいえ、冷静に考えればなぜ?という事件は多い。反して、同じ人として、朝鮮人を保護した日本人もいる。ユダヤ人に食を分けたナチスもいる。上官の目を盗んで、住民を庇護した兵隊もいる。これらの行動は集団心理なのか、個人の資質なのか判断に苦慮する。

著者は、様々な集団心理の実験を行うことで、集団に服従する人間心理の分析を試みた。その過程と結果が述べられているが、恐ろしいと思ったのは、大義名分によって人が責任回避をすることだ。更には、自身を善人と思っている人は他者を攻撃するという心理だ。とりわけ、集団心理では自分に自信の無い人は他者に服従しやすく、「おかしい」「悪い」と思っていても、周囲に同調して「悪事」を働くことだった。このことは、ユダヤ人強制収容所の責任者であったアイヒマンが、虐殺行為を「自分には責任がない」と断言していることからも窺える。

評者が関心をもったのは、1996年に福岡空港で起きたガルーダ・インドネシア航空機の事故だ。エンジントラブルから滑走路をオーバー。炎上する機体から乗客達が避難した調査結果である。緊急事態という状況判断ができずに座り込んだままの人、自身の手荷物、靴に執着する乗客の姿は意外だった。反して、2024年1月の羽田空港での日本航空、海上保安庁機の接触から起きた火災事故は乗客乗員379人が奇跡の脱出を果たした。的確な判断、対応、指示が見事に連携した事実だ。この二つの航空機事故の差異は何なのか。危機に際し集団を安全に導くリーダーの存在が欠如なのか、人間関係の希薄なのか。考える事々は実に多かったが、最高権力者も集団に服従するという点は不気味だった。               (終)
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この集団心理だが、本来、人間の本質からすれば無関係にある。それは家庭という最小の集団でも同じ。しかし、異なる個人と個人とが生存本能を発揮するとき、ひとつの集団(社会)を構成する。当初は窮屈で仕方がない。ところが、いったん、その集団になじむとフィットする靴のように心地よくなる。すると、人間の脳は怠慢なので「考える」という行為から回避してしまう。これがナアナアの村社会、集団が完成する基本になる。

幕末、およそ250年続いた江戸幕府が脆くも崩壊してしまった。これは集団というナアナア組織になってしまい、誰も「考える」こともなく、慣例というズル賢い脳の機能が作用したからに他ならない。これは、明治政府ができても同じだった。議会を設けて相互のチェック機能を働かせようと自由民権運動が活発になると、政府が運動を弾圧した。そんな過程を経ての福岡県議会だが、県議会議員選挙というチェック機能がありながら、福岡県民も「どうせ」という言葉を大義名分に変えてナアナアにしてしまった。福岡県議会と県民、相互に責任放棄をしていたということになる。

こういう硬い話をしながら、思い出すのは自由民権運動を鼓舞した川上音二郎の「オッぺケペー節」だ。

貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の心理がわからない
心に自由の種を蒔け
オッぺケペー オッぺケペー
オッぺケペッポ ペッポッポー

私は、長年、この「心に自由の種を蒔け」という言葉の解釈に苦慮していた。しかし、リップマン(アメリカのジャーナリスト)の『世論』を読んでいるとき、音二郎が言っているのは「固定観念」を取り除き、各自が「考えろ」と言っていると理解した。新聞、テレビの報道も、鵜呑みにせず、各自が咀嚼しろいうことだ。

機会(議会)を設けて県議会を傍聴するのも心の自由(事由)の種になるのでは。

「捕鯨は『ほげる』」

「なんで、わからんとですか!」
「古文書は勢いで読むとです。勢いで!」

宮崎克則先生のドスの効いた声を思い出す。
8月5日(水)の夕方、(公財)福岡アジア都市研究所主催の講演会に参加した。「秀吉がつくり、黒田藩が育てた都市のかたち」としての公開講座だが、講師は宮崎克則先生(西南学院大学教授)である。

かつて私は、西南学院大学・社会人講座で宮崎先生の古文書講座を受講した。社会人相手の講座とはいえ、お手柔らかに、とはいかなかった。しかし、そこは社会経験豊富な受講生だけに、宮崎先生の「なんで、わからんとですか!」には、「わからんけん勉強に来ようとたい」と、受講生の爺様がつぶやく。くすくす笑いが起きる。これが学部の現役生であれば、恐れをなして無言で下を向くしかないそうだ。

古文書講座といっても、江戸時代の長崎平戸や松浦の鯨取絵巻の解説もあった。古文書の基礎を習い、そこから鯨取絵巻から当時の状況を読み取る。とはいえ、古文書には書き手のクセ、専門用語、方言なども混じる。ゆえに、基本を習っても、応用には至らない。そこで、「勢いで読むとです。勢いで!」になる。勢いとは、想像力を働かせるという意味も含んでいる。

史料である彩色された鯨取絵巻は、微細な箇所にまで注意を向けると実に面白い。当時の人々の息遣いまで伝わってくる絵筆に感心しきりだった。この鯨取絵巻については私が西日本新聞に寄稿した書評から現場の臨場感を味わっていただきたい。

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『鯨取りの社会史』森弘子、宮崎克則著、花乱社 平成28年(2016)6月26日付 西日本新聞掲載

表題脇の「シーボルトや江戸の学者たちが見た日本捕鯨」の文字に惹かれた。古今東西の学者たちは、捕鯨を<どのように>見ていたのだろうか。

本書の特徴は、『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』などの絵巻をもとに捕鯨が解説されているところにある。口絵絵図からは、地域が一体となって捕鯨を支えていたことが窺える。皮を剥ぎ、肉を切り分け、油を搾り、骨を砕く。住民総出の鯨の解体作業は圧巻で「鯨一頭七浦潤す」の言葉通り、捕鯨は日本人にとっての一大産業だった。

特に、口絵図「納屋場」は、江戸時代の西海捕鯨を具体的に知る上での重要な1枚。これは『小児の弄鯨一件の巻(しょうじのもてあそびくじらいっけんのまき)』に納められているが、捕鯨を見物した剣術指南・木崎攸軒(きさきゆうけん)の情熱から誕生した。後世に捕鯨の事実を伝えたいという思いからだった。

第四章には文人としても著名な平戸藩主の松浦静山、煕(ひろむ)父子が、<なぜ>当代一流の捕鯨絵巻を遺しえたかについて述べられる。藩の潤沢な収益源は捕鯨だが、藩主の出版意欲と捕鯨業者との権益が結びついた結果だった。絵巻から説かれる裏事情に感嘆の声をあげた。

第五章からは儒学者大槻清準が著した『鯨史稿』成立について。この絵巻は日本・中国の文書、蘭書を引用し、自身の見聞を加えたもので、鯨の名称、種類、骨格、内臓など、歴史的、解剖学的知見も加えて構成された近世捕鯨の集大成となっている。

大槻清準が捕鯨の調査に取り組んだのは、親族で蘭学者の大槻玄沢の意向を受けてだった。薬効成分の高い一角鯨の秘密を玄沢が知りたかったからだが、結果、清準が遺した絵巻は現代に伝わる貴重な記録となった。

本書は文字の無い捕鯨絵巻を「読んだ」研究書である。背景を理解するため、著者がどれほどの関連資料を読み込んだか計り知れない。疑問や不明点は次から次にわき起こったことだろう。それを丹念に丁寧に解き明かした内容で、捕鯨絵巻を遺した先人たちも、わが意を得たりと、きっと、絶賛するに違いない。       (終)
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この西海捕鯨の一書を読むと、日本人の捕鯨に対する思いが並大抵のものではないことが伝わってくる。骨の一片、髭の一本に至るまで、余すところなく使い切る日本の捕鯨である。翻って、英米の捕鯨船の乱雑なことには呆れてしまう。捕まえた鯨から油を抜きとる。後は、惜しげもなく海に捨てる。乱獲の末、鯨を求めて英米の捕鯨船が太平洋に乗り出してくる。この捕鯨船が、幕末に日本近海に現れる。この捕鯨船に日本の沿岸漁民たちは水、野菜、米をタバコなどと物々交換する。古い文献を読むと、九州北岸にも油を抜き取った鯨が海を漂流し、それを引き揚げたという記録も残っている。これにはお宝が流れ着いたと人々は大喜びだったろう。

鯨ではないが、海獣のラッコもその毛皮を求めてロシア船が日本近海に現れた。ラッコの毛皮は手触りが絹のように滑らかで密度が詰まっているので最高級の毛皮だった。ヨーロッパのみならず、清国(満洲族政権の中国)の皇帝たちへの献上品としても価値があった。おかげで、ラッコは絶滅危惧種になったのだが、人間の欲望のすさまじさの前に、自然界は何も抵抗はできなかった。

さて、宮崎先生の話だが、今回は筑前黒田家の居城である福岡城を中心にした地図の解説だった。地図は四畳半ほどもあり、広げて俯瞰するものだった。東の方向には太陽が2つ描かれている。冬至と夏至の方角を示している。作業として、福岡城の堀や河川、海岸線を色鉛筆で塗ることで、街区の大枠を知るというものだった。

福岡市といえば、2016年に博多駅前の地下鉄工事で大穴を開けるという大失敗を世界に広めた。長さ30メートル、幅27メートル、深さ15メートルという大穴だった。古地図で確認すると、脆弱な地盤にトンネルを掘っていたことがわかる。

古き博多弁では、穴が開くことを「ほげる」という。宮崎先生の古地図の話を聞きながら、社会人講座での捕鯨絵巻を思い出した。捕鯨は「ほげ(い)る」か「ホエール」か。話を聞きながら、語呂合わせを考える、かつての愚かな受講生でした。

「報復より抱腹へ」

「暑い!」
なんという暑さ。8月2日(日)、午前中から福岡市の気温はグングンと上昇。軽く35度は超えていた。この日、経済アナリスト・藤原直哉先生と一緒に紅葉八幡宮(福岡市早良区高取)を参拝するため、全国から42名が地下鉄藤崎駅に集合した。

何故に、紅葉八幡宮を参拝するのかといえば、この神社が玄洋社の頭山満と関係が深い神社だからだ。紅葉八幡宮の参道には2本、頭山満が寄進をしたことを示す石柱がある。経年劣化もあり、なんとか「頭山満」と彫られた名前を確認できるが、これだけでも頭山満と神社との関係性が確認できる。ここは明治10年(1877)の西南戦争の際、西郷先生に殉ずるとして旧福岡藩士族が結集した神社でもある。いわゆる「福岡の変」の現場の一つである。

明治時代の初め、武士の反乱が各地で起きた。「佐賀の変」「萩の変」「秋月の変」「神風連の変」である。頭山満も大久保利通暗殺嫌疑で獄に投じられた。そのほか、政府にとって都合の悪い反乱事件は歴史から抹殺されている。「明治四年 久留米藩難事件」然り、西南戦争後の近衛兵の反乱である「竹橋事件」もである。

*「明治四年 久留米藩難事件」については拙著を参照いただけましたら、大変ありがたく思います。

そんな明治新政府(薩長藩閥)に対抗するために立ち上がったのが自由民権運動団体の玄洋社だが、政府の監視役が頭山満だった。しかし、昭和20年(1945)8月15日、日本は連合国軍に敗北。この敗戦で、GHQ(連合国軍総司令部)によって玄洋社、黒龍会は超国家主義団体として解散させられた。以後、GHQの統制下に置かれた言論界によって玄洋社、黒龍会は「右翼」のレッテルを貼られ、言論弾圧を受けてきた。GHQに紛れ込んだコミンテルン・スパイのハーバート・ノーマン(カナダの外交官)、日本共産党の徳田球一による策謀だった。そんな玄洋社、黒龍会について、真実を伝えなければと思いステレオタイプ(固定観念)の世論に抵抗を試みているが、巧妙な洗脳工作によって容易に覆らない。私以外にも抵抗を試みているのが石瀧豊美氏である。その現実を次の書評で知っていただきたい。

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『頭山満・未完の昭和史』石瀧豊美著、花乱社「月刊日本」令和6年(2024)1月号掲載

本書は、玄洋社研究の先駆者である石瀧豊美氏の頭山満を主とした一書。序章、終章を含め全7章、370頁余で構成される。中でも、第一章「頭山満のパラドックス」は重要。従前、アジア主義研究は竹内好の論を基本とするが、これが中国との窮屈で卑屈な外交になっている淵源であることを知る。竹内の論に従順な研究者を著者は俎上に載せて具体的史実を基に料理していく。何の疑いもなく研究者の影響を受けた小説家、評論家も然り。巻末の人名録で該当者の氏名を確かめると良い。

著者は頭山満に対する印象が、大東亜戦争以前の論調から引用されていると主張する。頭山が語ってもいない事が事実のように述べられる事に著者は詳細な事実を羅列し、反撃を試みる。新聞記事、評論が描く頭山満は、大本営発表の戦果にも似ている。このことは、頭山満の代名詞ともいうべき『玄洋社社史』にも及ぶ。著者は、この社史に疑問を呈するが、大正6年(1917)の刊行以来、誤植、誤記の訂正、補記も加えられていない。これでは、世間の関心は及ばず、特に、著者が指摘する玄洋社設立年月日は、いまだ野放し状態だ。

本書73頁において、著者は日中戦争を早期に停戦させたいとした頭山満の意思が陸軍省、外務省の「省益」に握りつぶされた事実を曝露する。74頁には萱野長知が貴族院勅撰議員、いわゆる昭和天皇の意向で議員に選ばれたことを挙げる。萱野は頭山の意を受け、日中和平のため手足となって行動した人だ。当然、萱野も玄洋社員。106頁には、頭山が亡くなった際、昭和天皇から祭祀料が下賜され、勅使までもが派遣された点を述べる。さすれば、頭山満、玄洋社を批判することは、昭和天皇を批判することにつながるが、果して世間はこの事実をどう受け止めるのか。世の言説に惑わされることなく、著者が開示するところの史実に従って頭山満、玄洋社を評価してみてはどうだろうか。近現代史研究者には必携の一書と考える。    (終)
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酷暑とはいえ、ありがたいことに、紅葉八幡宮の拝殿はエアコン完備だった。神官による「明治150年 国家目標達成記念」の祝詞、藤原直哉先生、森田雅博氏、そして私の三者が代表で玉串奉奠。神官から紅葉八幡宮と頭山満との関係について話があった。実に興味深い内容だった。

この神事の後、近くの「福寿飯店」に場を移し、藤原直哉先生による30分の講話があった。トランプ革命により、アメリカはイギリスの植民地支配から完全に脱却。この流れを受けて日本も間接的イギリス支配から脱却できたというものだった。幕末史を詳細に見ていけば、イギリスが日本の植民地支配を画策していたことは随所にみられる。そのイギリスによる支配が終わったことのお祝いの集りが今回である。

この「明治150年 国家目標達成記念」だが、要は欧米列強によるアジア支配からの解放が達成できたということ。これは、玄洋社、黒龍会が目指したことでもある。このアジアの解放運動を推進したからこそ、玄洋社、屈龍会は戦後、弾圧を受け続けたのだ。韓国の金玉均、朴泳孝、李容九。中国の孫文、黄興。インドのビハリ・ボース、チャンドラ・ボース。インドネシアのスカルノ、ハッタ。フィリピンのアギナルド、リカルテ。ビルマのアウンサン。などなど、アジア解放の事績は枚挙に暇がない。つまり、欧米は植民地利権を奪った玄洋社、黒龍会に報復したのだ。

報復から幸福は生まれない。「福寿飯店」での会食に腹を抱えた(抱腹)満足感は、美味しいものを食べたという口福(幸福)へと転じるのだ。

*当日の様子はユーチューブの「玄洋社チャンネル」で視聴できます。

「やっかいな隣人アメリカとは」

毎月一回、二日市東コミュニティセンター(福岡県筑紫野市)での歴史講座を受け持っている。中学校同窓会の先輩から依頼があり、縦社会を生きてきた身とすれば先輩の申し出は断れない。講座は、もう一年以上になる。当初は地域の歴史を教えて欲しいだった。ところが、福岡市のベッドタウンとして発達した町だけに、他府県からの居住者も多い。そうなると、地元の歴史よりも日本史、世界史を要望される。特に、近年はウクライナ情勢、中東情勢、そして、そこに必ず関わるアメリカについての情報を求められる。

今回、7月の歴史講座でも「アメリカ建国史」を求められた。さほど、世界は狭いというよりも、かつてアメリカが身近にあった自治体だけに、海の向こうの国ではないのが正直な感想だろう。昭和25年(1950)の朝鮮戦争では、米軍板付基地(現在の福岡空港)からひっきりなしに爆弾を抱えた戦闘機が飛び立った。今も、この地域には「ハウス」と呼称された米軍住宅が残骸のように残っている。この米軍ハウスに住むアメリカ人の餓鬼どもから意地悪をされた過去を持つ私は、いまだアメリカが好きになれない。卒業した中学校の旧職員室は米軍将兵のダンスホールを転用したものであり、職員室にステンドグラスがあるという艶っぽいものだった。米兵のオンリーと呼ばれる日本人女性もいた。米兵との間に誕生したハーフの子供など、珍しくもなかった。

そんな身近なアメリカでありながら、この国がどうやって成立し、存在しているのか、詳細に学校で習った覚えもない。しかし、そんなことは言っておれない。現実に、やっかいな隣人として、これからも、アメリカは日本に大きな影響を与え続けるだろう。そこで、概略なりとも知っていただきたく、書評を紹介したい。

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『アメリカ革命』上村剛著、中公新書 令和6年(2024)「月刊日本」10月号掲載

アメリカ海軍の戦略家マハン(1840~1914)は帝国主義者を自認していた。その歴史的背景を知りたいと思い、本書を手にした。マハンといえば、日本では日露戦争日本海海戦での参謀・秋山真之の師として知られる。

「アメリカ革命」とは平たく言えば建国史だが、アメリカ東部13州がイギリスの植民地支配の圧政から逃れるために戦ったのが独立戦争。更に、白人開拓民が先住民との戦いを制し、黒人の奴隷解放を大義名分にした南北戦争を経ての現在のアメリカという知識程度。しかし、序章、終章を含む全8章は、従来、世界史で習ったアメリカの歴史が通用しないことを自覚させる。日々、マスコミはアメリカ大統領選挙の経過を報道するが、上っ面をなでただけのアメリカ建国の知識では不完全燃焼に陥るのも致し方ない。

そんな現代アメリカに対する理解不能の現状に迷い込む大きな問題は、アメリカが「帝国主義国家」であるという事を意識していなかった事にある。本書189頁に「アメリカ合衆国は『帝国(empire)』としての道を歩んでいく。」という文言を目にした時、マハンの帝国主義者としての源泉を発見した思いだった。続く195頁からの第6章「帝国化と民主化の拡大」は、まさにアメリカは帝国主義国家であると明言した章である。

振り返れば、1941年(昭和16)から始まった日米戦争は「無謀な戦い」として片付けられる。しかし、ペリーが小笠原諸島を不法占領し、ハワイ王国がアメリカに併合させたように、アメリカは帝国主義国家として積極的に打って出る国だったのだ。そのアメリカの本質を本書は存分に証明している。2025年、日本は敗戦から80年を迎える。対米自立を叫ぶ割には進展しない日本の立ち位置だが、アメリカが「帝国」である事を認識していなかった戦略ミスではないかと考える。

蛇足ながら、中国が軍拡に励むのも、マハンの論(帝国主義)をモデルにしているからに他ならない。          (終)
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今回のアメリカ建国史講座では、先住民族であるインディアンについても語った。コロンブスは新大陸を発見したが、それが今のアメリカに該当する。しかし、インドを目指していたコロンブスは新発見の大陸をインドと思い込み、先住民族をインドの人としてインディアンと呼んだ。そのインディアンはトウモロコシを主食にし、バッファローを食べていた。すべて、神様が生きていくために与えてくださったものとして大事にしていた。

ところが、白人たちはトウモロコシからアルコール度数の強いバーボンを作り、インディアンを泥酔させて土地の譲渡契約書にサインをさせた。インディアンにとって土地は神様のものであり、売り買いの対象ではない。こうして白人はトウモロコシ畑を拡大してバーボンを売りまくる。

次に、インディアンの食糧であるバッファローをハンティングの玩具として殺戮してまわった。ついに、一頭もバッファローはいなくなり、食に窮したインディアンは保護区で白人の支配下におかれた。

西部開拓と聞けばテレビ番組でおなじみの「ローハイド」を想起するが、あれは白人の北米大陸の侵略劇だった。そういった歴史を知らず、日本人は「かっこいい!」と興奮していたのだった。

ハンティングでバッファローを絶滅させた白人たちは、欧州からハンティングの標的用としてユーラシアイノシシを北米の野に放った。結果、持ち込んでいた豚と交配し、今では農作物を食い荒らす害獣となっている。なにしろ、イノシシは一年弱で成長し、一年に8頭から10頭の子供を出産するのである。ネズミ算どころかイノシシ算として莫大な頭数になっている。そのイノシシが害獣となったのも、因果応報か。

こんなアメリカから農産物を輸入しているのが日本である。さらに、日本の畑で育つ野菜の種子もアメリカに握られている。つまり、かつてのインディアンと同じく、日本人は生殺与奪件をアメリカに握られているのだ。もはや、ミサイルもドローンも不要で簡単に日本人を殺す術をアメリカは手中に収めていることを日本人は知るべきだろう。

現今の日本人は座して死を待つか。北米大陸のイノシシのごとく、シシ(猪)奮迅すべきか。よく、考えなければならない。

「二百年前のラブレター」

7月18日(土)の午後、立石ガクブチ店(福岡市博多区大博町)店主の立石武泰氏の講演を拝聴した。「博多の町は立体博物館」というタイトルだが、博多の町が博物館?とは、いったい何だろう?と思われるかもしれない。

そこで、少々、解説をすると博多の町には名所旧跡が多々ある。しかし、関心が無いのか、予算が無いのか、看板や石碑などの史跡案内が極度に少ない。行政に申請をするにも手間がかかる。予算が付いたとしても制約が多い。博多には「博多にわか」という言葉遊びの伝統芸能があるにも関わらず、行政が設置するものには「遊び心」は許されない。そこで、立石武泰氏は民の力で看板設置を考えた。もともと、博多は大阪の堺と並ぶ商人の町である。民の力として町中に立っている電信柱に看板を取り付けるというアイディアを実行に移した。

そんな博多の町に取り付けられた電柱看板の画像を皆さんに見てもらいながら立石氏の笑いを取りながらの歴史解説だった。
私が個人的に面白いと笑ったのは、亀井少琹(かめいしょうきん)という女性のラブレターの解説だった。

そこで、亀井少琹とは誰?何者?と思われるので、亀井少琹の墓参をした時のことを一文にまとめているので、それを参照していただきたい。

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亀井少琹の墓を訪ねて

九州は男尊女卑と言われる。しかし、そう見るのは間違いだ。とりわけ、筑前福岡藩(現在の福岡県)には、書画詩文に優れた亀井少琹、男装の漢詩人原采蘋(はらさいひん)、勤皇志士の母・野村望東尼(のむらぼうとうに)、そして、玄洋社生みの親ともいわれる男装の女医・高場乱(たかばおさむ)がいる。いずれも才女だが、今回、これらのなかから、亀井少琹をご紹介したい。

亀井少琹(幼名は友)は寛政10年(1798)2月19日、福岡の唐人町(現在の福岡市中央区)に生まれた。父は亀井昭陽、祖父は亀井南冥という著名な儒医(儒者であり医者)の家に生まれた。特に祖父の亀井南冥は福岡藩校甘棠館(かんとうかん)の館主であり、自由闊達な学問の師として福岡藩内外から評判が高かった。更に、亀井昭陽も学者としての名声が高く、そんな家庭環境もあってか、少琹は幼少から聡明であり、書画詩文に優れた才女として知られた。

「亀井友(少琹)空石(昭陽)の女(むすめ)にして雷首(三苫源吾)の妻たり、今宿(福岡市西区)に住す、扶桑第一(日本一)梅の詩を以て世に知られる、詩文書画に巧みなり、好んで四君子(蘭、菊、梅、竹のこと、気品があるので君子にたとえる)を書く、頗る奇韻(独特の風流)あり、采蘋(原采蘋)と並び称せられる」(『筑前人物志』より)

亀井少琹は文化13年(1816)12月3日、父・昭陽の弟子であった三苫源吾と結婚し、別家を建て、今宿で医業と家塾を開く夫の亀井雷首(養子となった三苫源吾のこと)を補佐する。亀井南冥、昭陽父子の弟子である廣瀬淡窓(豊後日田の咸宜園を開いた)、『日本外史』を著し漢詩人として著名な頼山陽も称賛する女性が亀井少琹だった。

安政4年(1857)7月6日、60歳にして没したが、求められて描いた書画は今も人気が高い。

豊後日田の咸宜園には日本全国から秀才が集ったが、その原点ともいうべき学問所が亀井南冥、昭陽の亀井塾だった。その塾を陰で支えていたのが亀井少琹である。今、少琹は浄満寺(福岡市中央区地行2―3―3)の亀井一族の墓所(福岡県文化財指定)に眠っている。              (終)
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亀井少琹はあの国宝金印(漢委奴国王)の解説書を著した亀井南冥の孫娘だが、今に伝わる艶詩が遺されている。夫となる亀井雷首(三苫源吾)との間で交わされたラブレターがそれになるが、「博多にわか」も顔負けの捧腹絶倒の逸話である。

まず、三笘源吾から亀井少琹に贈った恋文からして笑える。
「君に王上の点なくんば、われ出頭の天とならん」である。

「王上の点」だが、「王」の漢字の上に「点」がつけば「主」となる。「出頭の天」とは、「天」の上に頭が出れば「夫」という文字になる。つまり、主上(婚約者)がいないのならば、われ(私)は(あなたの)夫になりたい。そういう言葉(文字)遊びにかけたラブレターだったのだ。

これに対し、
「九州第一の梅 今夜君が為に開く花の真意を知らんと欲せば 三更の月を踏んで来たれ」
と、亀井少琹は返書した。「三更の月」とは、深夜の意味だが、三笘源吾の求愛に対し「オッケー!」とストレートの書を返したのである。「少琹艶詩」とも呼ばれるが、これが二百年前の文人の恋文なのである。

しかし、まさか、このラブレターが電柱看板となって町ゆく人の視線にさらされるとは、ご両人も想像もできなかったに違いない。
こんなご両人の結果はいかに。そこで私は両人の住居があった福岡市西区今宿を訪ねた。(ストーカーか?)

目標は旧唐津街道に面した二宮神社だ。この二宮神社は、福岡県糸島市にある櫻井神社とともに、ボーカル・グループ嵐にちなんで嵐ファンが訪れる神社ともいう。小さな村の鎮守程度だが、全てを知りたいというファン心理が後押しするのだろう。神社は旧街道に面して鳥居があり、10メートルほどの距離の細い参道を進むと、拝殿が鎮座している。その参道左手に亀井少琹の旧居跡を示す看板があった。神社境内を抜けると今津湾に面した浜辺。視界には能古島、志賀島、糸島半島である。船を使えば、島々との往来は容易。江戸時代の人々にとって船は日常の交通機関だった。

尚、二宮神社の参道脇に「亀井」という表札の家があった。家名は亀井か・・・などとバカなことを思いながらピンポンと鳴らして確認したかった。けれども、不審者と間違われそうなのでやめた。後日、そこは亀井少琹の子孫の住む家と知人が教えてくれた。やはり、鳴らすべきだったか。

それにしても、この三笘源吾の問いかけに亀井少琹の返書は「会いに来い」とストレート。ここにも、愛(会い)に恋(来い)とかけているのだろうか。

「闇を解くべきか」

昨夏も暑かったが、今夏はさらに暑い。とはいえ、時間は待ってくれないので、7月11日(土)、インターネット・ユーチューブ「九州プリンシプルテレビ・玄洋社チャンネル」の収録に出かける。今回は佐賀県を回ることになった。

その最初の収録地は佐賀県小城市の曹洞宗福田寺(ふくでんじ)である。ここは本「週報」の令和8年(2026)5月21日付、第21号で紹介した寺である。血盟団事件の井上日召は日蓮宗僧侶ではなく、禅宗の居士号を持つ人であると述べた。そのことを覚えておられる方もいると思う。

今回もアポイント無しの突然の訪問だったにも関わらず、住職が長時間、話をしてくださり、その話を収録した。放送についても許可をいただいた。後日、前出の「九州プリンシプルテレビ・玄洋社チャンネル」で視聴いただければと思う。

この住職の話の中で、五・一五事件での黒岩勇について話が出た。犬養毅首相に一弾を加えた人物である。黒岩勇は佐賀県小城郡東多久村(現在の小城市東多久町)の出身で、旧制小城中学(現在の小城高校)を経て海軍兵学校に入る。まさに、この福田寺の近くである。黒岩は五・一五事件で入獄。出所後、インドネシア独立運動に工作員として従事。インドネシア独立戦争に従軍したが、1955年国外追放。その後の経緯は不明ながら、1963年のガネフォに選手団顧問で参加。インドネシアに親族がいるとも、別に黒岩通の名前で戸籍を持っているともいわれるが、謎が多い。

そこで、インドネシアで1963年に開催されたガネフォについて、次の書評で理解していただきたい。

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『GANEFO その周辺』宮澤正幸著、拓殖大学創立百年史編纂室

・スポーツの歴史に意外な史実が

本書は、1963年(昭和38)11月にインドネシアのジャカルタで開催されたガネフォこと新興国スポーツ大会の記録。47カ国、2564名が参加した大会だけに「幻のオリンピック」とも呼ばれる。1964年(昭和39)の東京オリンピック開催にも大きな波紋を広げた。近代のスポーツ史を考える上で、記者、監督として参加した著者の記録は貴重。47カ国、2564名が参加した大会記録だが、スポーツ正史としては扱われない。内容として「第四回アジア競技大会」「第一回新興国スポーツ大会」「第一回アジアGANEFO」の三部、約90頁で構成されている。

まず、このガネフォだが、第四回アジア大会での欧米の介入が発端となる。アジア大会にインドネシアが中華民国台湾、イスラエルに招請状を出さなかった。このことから、スポーツは公平でなければならないとするIOC(国際オリンピック委員会)が公式記録として認めないと牽制。これにインドネシアのスカルノ大統領が反発し、IOC、国連までをも脱退した。

そして、独自にソ連(現在のロシア)、中国(北京)の後ろ盾を得て、独自のスポーツ大会ガネフォを開催した。ここでIOCがガネフォに出場した選手には東京オリンピック出場資格は無いと宣告。東京オリンピック開催を控えた日本の体育協会、JOC(日本オリンピック委員会)は、ガネフォに選手団を送らなかった。しかし、アジアとの連帯を考える日本の有志は選手団を編成しジャカルタへと乗り込んだ。インドネシア国民は、その日本の信義に大興奮したのだった。この選手団長を頭山満(玄洋社)の直孫である頭山立國氏、最高顧問に柳川宗城(元陸軍大尉、中野学校、インドネシア独立義勇軍教官)が就任して大会に臨んだ。

翌年、東京ではアジア初のオリンピックが開催され。IOCを脱退し復帰したインドネシア、ガネフォで問題となっていた北朝鮮も来日した。しかし、両国ともオリンピックには参加せず帰国した。その後、インドネシアでは政変によりスカルノ大統領が失脚。

評者は『アジア独立と東京五輪』において、このガネフォについて書き下ろした経緯があるので、本書に述べられる事々は手に取るように理解できた。しかしながら、ガネフォを初めて知る人には難しい。欧米のアジア侵略史、インドネシア独立戦争、インドネシア独立に至る歴史に関心が無い方には、皆目、理解が及ばない。ただ、本書の45頁には「五・一五事件秘史」という一文があり、これが実に驚きの内容だ。連合赤軍の重信房子、その娘の周辺との関係性は、この昭和7年(1932)の事件にまで遡らなければ理解は進まない。

インドネシアのスカルノ大統領は「スポーツは政治」と言い切ったが、まさに、スポーツの陰に政治が顔を覗かせている。その意味でも、スポーツ史は近現代史の一部として読み通さねばならない。それを強く意識させる一書だった。     (終)
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この書評では詳細に黒岩勇について記さなかったが、黒岩勇には紀地三明など複数の変名があると出ている。しかし、真相はわからず、謎のままだ。

そして、令和7年(2025)1月23日、NHK・BS放送で「祖父への旅80年後の傷痕 インドネシア残留日本兵と子孫」という番組が放送された。これはインドネシア残留日本兵である黒岩「通」の子孫が祖父の痕跡を求めて来日するというものだった。そこに登場したのが、ガネフォ選手団長であった頭山立國氏だった。黒岩通と親しい関係の人としての番組出演だった。番組の中では頭山立國氏と黒岩通が一緒に映った写真、集合写真も紹介された。放送内容についてはNHKオンデマンドで視聴が可能となっている。

この収録ではディレクターの小西晴子氏から私にも取材申し込みがあった。『アジア独立と東京五輪』の著者であること、頭山立國氏と親交があることからだった。小西ディレクター自身、番組に登場している。

もともと、玉利斉氏(三島由紀夫にボディビルをレッスンした方)から「君はガネホ(フォ)を知っているかい?」という話から始まったガネフォの執筆だったが、真実はいまだ闇を孕んだままだ。
この史実解明の指令は、「闇解け」なのか「止めとけ」なのか、判断に苦慮する。

「浪曲と玄洋社のつながり」

7月4日(土)の午後、福岡市美術館ミュージアムホール(福岡市中央区)での浪曲独演会に行った。浪曲師は玉川奈々福さん、曲師は広沢美舟さんである。

この浪曲だが、関わりをもつようになったのは数年前、浪曲を知ってほしいとの誘いから浪曲会場に足を運んだのが始まりだった。当初、浪曲など、渋い声の腹の底から絞り出す語り芸と思っていた。ところが、今回の玉川奈々福さん、広沢美舟さんコンビは海外公演もこなし、今や浪曲はインターナショナルの語り芸となった。

そこで、私が浪曲を面白いと思うきっかけとなった浪曲会についての一文から、現代の浪曲事情を知っていただきたい。

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「浪曲中興の地・博多」:令和5年(2023)7月2日

福岡・博多は「浪曲中興の地」といわれる。それは稀代の浪曲師・桃中軒雲右衛門(1873~1916)が自由民権運動団体玄洋社、その機関紙「九州日報」の支援を受け大成功を納めたことによる。この成功を受け、桃中軒雲右衛門が東京公演で大成功を収めたことで、浪曲の格式が大きく向上した。

そこで、浪曲中興の地で浪曲を再びという試みが始まった。令和5年(2023)7月1日(土)、博多祇園山笠で賑わう櫛田神社(福岡市博多区)近くの龍宮寺に出かけた。ちなみに、龍宮寺という寺の名前の由来は、人魚伝説にちなんだ寺名で、仏さまと並んで本堂の左右に妖艶な人魚の額が嵌まっている。

「浪曲の夏」と題した公演だが、浪曲師は国本はる乃、曲師(三味線)は広沢美舟である。午後2時開演だったが、熱心な浪曲ファンが本堂を埋めた。ご老人が多いのではと思ったが、案に反して年齢層は相当に低い。第一、浪曲師の「国本はる乃」じたいが27歳であり、女性の浪曲師である。曲師の広沢美舟も若い。浪曲イコール、渋い。というのは、古いのだ。

演目は3席あったが、最初は水戸黄門漫遊記。会場の笑いをとりながらの語りは、聞く者を飽きさせない。言葉遊びが実に巧妙にして面白い。

「山より大きなシシはいない」「海より大きなクジラはいない」「富士につまづく人はいない」など、テンポの良い言葉に曲師(三味線)の合いの手が演者を盛り上げ、気づけば30分。ハッピーエンドで終わった。

浪曲といえば、清水の次郎長、国定忠治などの任侠話が定番。そこで、国定忠治の語りも演じるが、「弱きを助け強きをくじく」任侠モノは時代が異なるのか、言葉、ストーリーの展開に残念ながら聴衆の反応は今ひとつ鈍かった。

休憩後の3席目は「子別れ峠」という、互いに親子であると名乗れない「お涙ちょうだい」の話。主催者は、この人情噺が押しという。芸歴18年の「国本はる乃」の声量、声の調子は、情感を際立たせる。

浪曲は、明治時代、娯楽でありながら、読み書きのできない庶民に対し、道徳教育、倫理教育を行うものだった。勧善懲悪、義理人情、親子の情愛などを聞かせるのが浪曲だ。「(子供を)育てたが親」など、言葉の力がセリフに織り込んである。庶民にとっての耳学問が浪曲だが、これを自由民権運動に使ったのが革命浪人の異名をとる宮崎滔天だった。桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)と名乗って高座を務めたのは滔天の『三十三年の夢』に詳しい。

桃中軒雲右衛門が玄洋社の支援を受けて大成功を収めることができたのは、革命浪人・宮崎滔天が玄洋社の末永節(すえながみさお)らと親しかったからだが、その縁で雲右衛門も名を遺せた。そう考えると、やはり、福岡・博多の地は「浪曲中興の地」と呼べるのだ。       (終)
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浪曲中興の地でありながら、福岡・博多での浪曲人気は低迷している。浪曲に関しては素人の集りと思ってよい。そこで、玉川奈々福さんは浪曲とは何か、曲師がアドリブで三味線を奏でるなどの説明を面白おかしく語ってくれる。日本には三大語り芸と呼ばれる落語、講談、浪曲がある。唯一、浪曲だけが立って語る。これには理由があるのだが、自由民権運動の演説会で官憲の取り締まりを逃れる術として浪曲会にしていた。警官の姿が目に入れば、すぐさま演台にテーブルかけをかぶせて一節うなると取り締まりを逃れることができる。ここから浪曲が立って語るもととなった。極めつけは玉川奈々福さんが「玄洋社」が浪曲を三大語り芸にしてくれたと聴衆に語りかけたくれたことだった。これは、実に、ありがたい一言。ただ、「玄洋社って何?」という客の反応。(代わりにこの私めが語って聞かしょうか・・・

玉川奈々福さんの第一席目の演目は、なんと、「浪曲シンデレラ」。フランスのシャルル・ペローが1697年に著した『灰かぶり姫』が原作といわれる。ほかにもグリム童話にも似た作品があるというが、なんといってもディズニー映画の「シンデレラ」で日本人は脳裏に刻み込まれている。これを浪曲で演じるのだから、古いとか渋いを通り越し、斬新と思うしかない。意外な演目と語りに引き込まれる。ストーリーが分かっているだけに、表現の面白さが際立つ。

休憩を挟んでの第二席目は「仙台の鬼夫婦」というものだった。この話は初めてだったが、仙台藩の武家夫婦の話だ。海外で江戸時代の武士の話が海外の方々に理解されるのだろうかと思ったら、意外にウケる。不思議に思って海外の方々に聞いてみると、なんと、クロサワ映画で時代背景を知っているとのこと。これには、玉川奈々福さんも驚くやら先人に感謝するやら。ストーリーは薙刀の使い手である妻が、心を鬼にしてダメ男で博打好きの夫を一流の剣術使いに仕立て上げるハッピーエンドの話。

玉川奈々福さんは面白い経歴の持ち主で、元は筑摩書房の編集者だった。曲師を経て浪曲師になったそうだが、浪曲の未来、自身の姿を予見していたのかも。なにしろ、先を見通すことができる竹輪(筑摩)書房の編集者だったのだから。