今夏、昨年に続く酷暑である。一時期はダムの貯水率が10%を切る寸前だった福岡県だったが、雨に恵まれた。ところが、この水不足が解消されてホッとする間もなく、今度は7月に入って福岡県議会の議長、副議長選出に伴う金銭疑惑が浮上した。議長、副議長就任にあたり、慣例の「申し渡し」として金銭の授受、ゴルフ、宴席の接待を行うというものだった。それも、一年交代での議長、副議長の持ち回りなので、議会が特殊な集団(村社会)として機能していたのだ。
ここから福岡県議会の体質、議員の資質を問題視するマスコミ報道が続いた。しかし、なぜ、これほどの自浄作用の働かない集団になってしまったのかを私は考えていた。
まず、福岡県という自治体だが、少々、その構成が他県と異なる点がある。それは福岡県には福岡市、北九州市という政令指定都市がある。この政令指定都市だが、地方自治法に基づき、人口50万以上の自治体が、都道府県から権限、財源を譲渡されている都市のことをいう。簡単にいえば、福岡県、北九州市、福岡市という3つの自治体を統合して福岡県を構成している。さらに、人口比率でみると、福岡県全体で約507万4千人だが、福岡市は約167万2千人、北九州市は約89万8千人となり、2つの政令指定都市で福岡県の人口の半分を占めている。これを見ると、政令指定都市選出の県議会議員は県政に必要なのかという疑問すら湧き起こる。国政においても参議院は衆議院議員に落選した議員の救済組織になっている。ある意味、福岡県議会も参議院も特権階級組織になっているのではないか。日々、国家国民のためにと尽力されている議員がいるのも確かだが、議会組織が特殊な集団になっているのは否定できない。
そこで、思い出したのが集団という構成員の心理を述べた本だ。集団という範囲、規定が多岐にわたるため、曖昧な書評かもしれないが、集団にはこういう心理が働くということを読み取っていただきたい。
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『集団はなぜ残虐にまた慈悲深くなるのか』釘原直樹著、中公新書「月刊日本」2025年7月号掲載
序章、終章を加え、全9章で構成される本書だが、その内容からは様々なことを考えさせられた。関東大震災での一般市民による朝鮮人虐殺、ナチスの強制収容所でのユダヤ人大量虐殺、大東亜戦争(太平洋戦争)での自決の脅迫など、極限状態とはいえ、冷静に考えればなぜ?という事件は多い。反して、同じ人として、朝鮮人を保護した日本人もいる。ユダヤ人に食を分けたナチスもいる。上官の目を盗んで、住民を庇護した兵隊もいる。これらの行動は集団心理なのか、個人の資質なのか判断に苦慮する。
著者は、様々な集団心理の実験を行うことで、集団に服従する人間心理の分析を試みた。その過程と結果が述べられているが、恐ろしいと思ったのは、大義名分によって人が責任回避をすることだ。更には、自身を善人と思っている人は他者を攻撃するという心理だ。とりわけ、集団心理では自分に自信の無い人は他者に服従しやすく、「おかしい」「悪い」と思っていても、周囲に同調して「悪事」を働くことだった。このことは、ユダヤ人強制収容所の責任者であったアイヒマンが、虐殺行為を「自分には責任がない」と断言していることからも窺える。
評者が関心をもったのは、1996年に福岡空港で起きたガルーダ・インドネシア航空機の事故だ。エンジントラブルから滑走路をオーバー。炎上する機体から乗客達が避難した調査結果である。緊急事態という状況判断ができずに座り込んだままの人、自身の手荷物、靴に執着する乗客の姿は意外だった。反して、2024年1月の羽田空港での日本航空、海上保安庁機の接触から起きた火災事故は乗客乗員379人が奇跡の脱出を果たした。的確な判断、対応、指示が見事に連携した事実だ。この二つの航空機事故の差異は何なのか。危機に際し集団を安全に導くリーダーの存在が欠如なのか、人間関係の希薄なのか。考える事々は実に多かったが、最高権力者も集団に服従するという点は不気味だった。 (終)
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この集団心理だが、本来、人間の本質からすれば無関係にある。それは家庭という最小の集団でも同じ。しかし、異なる個人と個人とが生存本能を発揮するとき、ひとつの集団(社会)を構成する。当初は窮屈で仕方がない。ところが、いったん、その集団になじむとフィットする靴のように心地よくなる。すると、人間の脳は怠慢なので「考える」という行為から回避してしまう。これがナアナアの村社会、集団が完成する基本になる。
幕末、およそ250年続いた江戸幕府が脆くも崩壊してしまった。これは集団というナアナア組織になってしまい、誰も「考える」こともなく、慣例というズル賢い脳の機能が作用したからに他ならない。これは、明治政府ができても同じだった。議会を設けて相互のチェック機能を働かせようと自由民権運動が活発になると、政府が運動を弾圧した。そんな過程を経ての福岡県議会だが、県議会議員選挙というチェック機能がありながら、福岡県民も「どうせ」という言葉を大義名分に変えてナアナアにしてしまった。福岡県議会と県民、相互に責任放棄をしていたということになる。
こういう硬い話をしながら、思い出すのは自由民権運動を鼓舞した川上音二郎の「オッぺケペー節」だ。
貴女や紳士の扮装(いでたち)で
表面(うわべ)の飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の心理がわからない
心に自由の種を蒔け
オッぺケペー オッぺケペー
オッぺケペッポ ペッポッポー
私は、長年、この「心に自由の種を蒔け」という言葉の解釈に苦慮していた。しかし、リップマン(アメリカのジャーナリスト)の『世論』を読んでいるとき、音二郎が言っているのは「固定観念」を取り除き、各自が「考えろ」と言っていると理解した。新聞、テレビの報道も、鵜呑みにせず、各自が咀嚼しろいうことだ。
機会(議会)を設けて県議会を傍聴するのも心の自由(事由)の種になるのでは。
浦辺登のコラム2(2026年8月~)
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「心に自由の種を蒔け!オッぺケペー!」
「捕鯨は『ほげる』」
「なんで、わからんとですか!」
「古文書は勢いで読むとです。勢いで!」
宮崎克則先生のドスの効いた声を思い出す。
8月5日(水)の夕方、(公財)福岡アジア都市研究所主催の講演会に参加した。「秀吉がつくり、黒田藩が育てた都市のかたち」としての公開講座だが、講師は宮崎克則先生(西南学院大学教授)である。
かつて私は、西南学院大学・社会人講座で宮崎先生の古文書講座を受講した。社会人相手の講座とはいえ、お手柔らかに、とはいかなかった。しかし、そこは社会経験豊富な受講生だけに、宮崎先生の「なんで、わからんとですか!」には、「わからんけん勉強に来ようとたい」と、受講生の爺様がつぶやく。くすくす笑いが起きる。これが学部の現役生であれば、恐れをなして無言で下を向くしかないそうだ。
古文書講座といっても、江戸時代の長崎平戸や松浦の鯨取絵巻の解説もあった。古文書の基礎を習い、そこから鯨取絵巻から当時の状況を読み取る。とはいえ、古文書には書き手のクセ、専門用語、方言なども混じる。ゆえに、基本を習っても、応用には至らない。そこで、「勢いで読むとです。勢いで!」になる。勢いとは、想像力を働かせるという意味も含んでいる。
史料である彩色された鯨取絵巻は、微細な箇所にまで注意を向けると実に面白い。当時の人々の息遣いまで伝わってくる絵筆に感心しきりだった。この鯨取絵巻については私が西日本新聞に寄稿した書評から現場の臨場感を味わっていただきたい。
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『鯨取りの社会史』森弘子、宮崎克則著、花乱社 平成28年(2016)6月26日付 西日本新聞掲載
表題脇の「シーボルトや江戸の学者たちが見た日本捕鯨」の文字に惹かれた。古今東西の学者たちは、捕鯨を<どのように>見ていたのだろうか。
本書の特徴は、『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』などの絵巻をもとに捕鯨が解説されているところにある。口絵絵図からは、地域が一体となって捕鯨を支えていたことが窺える。皮を剥ぎ、肉を切り分け、油を搾り、骨を砕く。住民総出の鯨の解体作業は圧巻で「鯨一頭七浦潤す」の言葉通り、捕鯨は日本人にとっての一大産業だった。
特に、口絵図「納屋場」は、江戸時代の西海捕鯨を具体的に知る上での重要な1枚。これは『小児の弄鯨一件の巻(しょうじのもてあそびくじらいっけんのまき)』に納められているが、捕鯨を見物した剣術指南・木崎攸軒(きさきゆうけん)の情熱から誕生した。後世に捕鯨の事実を伝えたいという思いからだった。
第四章には文人としても著名な平戸藩主の松浦静山、煕(ひろむ)父子が、<なぜ>当代一流の捕鯨絵巻を遺しえたかについて述べられる。藩の潤沢な収益源は捕鯨だが、藩主の出版意欲と捕鯨業者との権益が結びついた結果だった。絵巻から説かれる裏事情に感嘆の声をあげた。
第五章からは儒学者大槻清準が著した『鯨史稿』成立について。この絵巻は日本・中国の文書、蘭書を引用し、自身の見聞を加えたもので、鯨の名称、種類、骨格、内臓など、歴史的、解剖学的知見も加えて構成された近世捕鯨の集大成となっている。
大槻清準が捕鯨の調査に取り組んだのは、親族で蘭学者の大槻玄沢の意向を受けてだった。薬効成分の高い一角鯨の秘密を玄沢が知りたかったからだが、結果、清準が遺した絵巻は現代に伝わる貴重な記録となった。
本書は文字の無い捕鯨絵巻を「読んだ」研究書である。背景を理解するため、著者がどれほどの関連資料を読み込んだか計り知れない。疑問や不明点は次から次にわき起こったことだろう。それを丹念に丁寧に解き明かした内容で、捕鯨絵巻を遺した先人たちも、わが意を得たりと、きっと、絶賛するに違いない。 (終)
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この西海捕鯨の一書を読むと、日本人の捕鯨に対する思いが並大抵のものではないことが伝わってくる。骨の一片、髭の一本に至るまで、余すところなく使い切る日本の捕鯨である。翻って、英米の捕鯨船の乱雑なことには呆れてしまう。捕まえた鯨から油を抜きとる。後は、惜しげもなく海に捨てる。乱獲の末、鯨を求めて英米の捕鯨船が太平洋に乗り出してくる。この捕鯨船が、幕末に日本近海に現れる。この捕鯨船に日本の沿岸漁民たちは水、野菜、米をタバコなどと物々交換する。古い文献を読むと、九州北岸にも油を抜き取った鯨が海を漂流し、それを引き揚げたという記録も残っている。これにはお宝が流れ着いたと人々は大喜びだったろう。
鯨ではないが、海獣のラッコもその毛皮を求めてロシア船が日本近海に現れた。ラッコの毛皮は手触りが絹のように滑らかで密度が詰まっているので最高級の毛皮だった。ヨーロッパのみならず、清国(満洲族政権の中国)の皇帝たちへの献上品としても価値があった。おかげで、ラッコは絶滅危惧種になったのだが、人間の欲望のすさまじさの前に、自然界は何も抵抗はできなかった。
さて、宮崎先生の話だが、今回は筑前黒田家の居城である福岡城を中心にした地図の解説だった。地図は四畳半ほどもあり、広げて俯瞰するものだった。東の方向には太陽が2つ描かれている。冬至と夏至の方角を示している。作業として、福岡城の堀や河川、海岸線を色鉛筆で塗ることで、街区の大枠を知るというものだった。
福岡市といえば、2016年に博多駅前の地下鉄工事で大穴を開けるという大失敗を世界に広めた。長さ30メートル、幅27メートル、深さ15メートルという大穴だった。古地図で確認すると、脆弱な地盤にトンネルを掘っていたことがわかる。
古き博多弁では、穴が開くことを「ほげる」という。宮崎先生の古地図の話を聞きながら、社会人講座での捕鯨絵巻を思い出した。捕鯨は「ほげ(い)る」か「ホエール」か。話を聞きながら、語呂合わせを考える、かつての愚かな受講生でした。
「報復より抱腹へ」
なんという暑さ。8月2日(日)、午前中から福岡市の気温はグングンと上昇。軽く35度は超えていた。この日、経済アナリスト・藤原直哉先生と一緒に紅葉八幡宮(福岡市早良区高取)を参拝するため、全国から42名が地下鉄藤崎駅に集合した。
何故に、紅葉八幡宮を参拝するのかといえば、この神社が玄洋社の頭山満と関係が深い神社だからだ。紅葉八幡宮の参道には2本、頭山満が寄進をしたことを示す石柱がある。経年劣化もあり、なんとか「頭山満」と彫られた名前を確認できるが、これだけでも頭山満と神社との関係性が確認できる。ここは明治10年(1877)の西南戦争の際、西郷先生に殉ずるとして旧福岡藩士族が結集した神社でもある。いわゆる「福岡の変」の現場の一つである。
明治時代の初め、武士の反乱が各地で起きた。「佐賀の変」「萩の変」「秋月の変」「神風連の変」である。頭山満も大久保利通暗殺嫌疑で獄に投じられた。そのほか、政府にとって都合の悪い反乱事件は歴史から抹殺されている。「明治四年 久留米藩難事件」然り、西南戦争後の近衛兵の反乱である「竹橋事件」もである。
*「明治四年 久留米藩難事件」については拙著を参照いただけましたら、大変ありがたく思います。
そんな明治新政府(薩長藩閥)に対抗するために立ち上がったのが自由民権運動団体の玄洋社だが、政府の監視役が頭山満だった。しかし、昭和20年(1945)8月15日、日本は連合国軍に敗北。この敗戦で、GHQ(連合国軍総司令部)によって玄洋社、黒龍会は超国家主義団体として解散させられた。以後、GHQの統制下に置かれた言論界によって玄洋社、黒龍会は「右翼」のレッテルを貼られ、言論弾圧を受けてきた。GHQに紛れ込んだコミンテルン・スパイのハーバート・ノーマン(カナダの外交官)、日本共産党の徳田球一による策謀だった。そんな玄洋社、黒龍会について、真実を伝えなければと思いステレオタイプ(固定観念)の世論に抵抗を試みているが、巧妙な洗脳工作によって容易に覆らない。私以外にも抵抗を試みているのが石瀧豊美氏である。その現実を次の書評で知っていただきたい。
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『頭山満・未完の昭和史』石瀧豊美著、花乱社「月刊日本」令和6年(2024)1月号掲載
本書は、玄洋社研究の先駆者である石瀧豊美氏の頭山満を主とした一書。序章、終章を含め全7章、370頁余で構成される。中でも、第一章「頭山満のパラドックス」は重要。従前、アジア主義研究は竹内好の論を基本とするが、これが中国との窮屈で卑屈な外交になっている淵源であることを知る。竹内の論に従順な研究者を著者は俎上に載せて具体的史実を基に料理していく。何の疑いもなく研究者の影響を受けた小説家、評論家も然り。巻末の人名録で該当者の氏名を確かめると良い。
著者は頭山満に対する印象が、大東亜戦争以前の論調から引用されていると主張する。頭山が語ってもいない事が事実のように述べられる事に著者は詳細な事実を羅列し、反撃を試みる。新聞記事、評論が描く頭山満は、大本営発表の戦果にも似ている。このことは、頭山満の代名詞ともいうべき『玄洋社社史』にも及ぶ。著者は、この社史に疑問を呈するが、大正6年(1917)の刊行以来、誤植、誤記の訂正、補記も加えられていない。これでは、世間の関心は及ばず、特に、著者が指摘する玄洋社設立年月日は、いまだ野放し状態だ。
本書73頁において、著者は日中戦争を早期に停戦させたいとした頭山満の意思が陸軍省、外務省の「省益」に握りつぶされた事実を曝露する。74頁には萱野長知が貴族院勅撰議員、いわゆる昭和天皇の意向で議員に選ばれたことを挙げる。萱野は頭山の意を受け、日中和平のため手足となって行動した人だ。当然、萱野も玄洋社員。106頁には、頭山が亡くなった際、昭和天皇から祭祀料が下賜され、勅使までもが派遣された点を述べる。さすれば、頭山満、玄洋社を批判することは、昭和天皇を批判することにつながるが、果して世間はこの事実をどう受け止めるのか。世の言説に惑わされることなく、著者が開示するところの史実に従って頭山満、玄洋社を評価してみてはどうだろうか。近現代史研究者には必携の一書と考える。 (終)
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酷暑とはいえ、ありがたいことに、紅葉八幡宮の拝殿はエアコン完備だった。神官による「明治150年 国家目標達成記念」の祝詞、藤原直哉先生、森田雅博氏、そして私の三者が代表で玉串奉奠。神官から紅葉八幡宮と頭山満との関係について話があった。実に興味深い内容だった。
この神事の後、近くの「福寿飯店」に場を移し、藤原直哉先生による30分の講話があった。トランプ革命により、アメリカはイギリスの植民地支配から完全に脱却。この流れを受けて日本も間接的イギリス支配から脱却できたというものだった。幕末史を詳細に見ていけば、イギリスが日本の植民地支配を画策していたことは随所にみられる。そのイギリスによる支配が終わったことのお祝いの集りが今回である。
この「明治150年 国家目標達成記念」だが、要は欧米列強によるアジア支配からの解放が達成できたということ。これは、玄洋社、黒龍会が目指したことでもある。このアジアの解放運動を推進したからこそ、玄洋社、屈龍会は戦後、弾圧を受け続けたのだ。韓国の金玉均、朴泳孝、李容九。中国の孫文、黄興。インドのビハリ・ボース、チャンドラ・ボース。インドネシアのスカルノ、ハッタ。フィリピンのアギナルド、リカルテ。ビルマのアウンサン。などなど、アジア解放の事績は枚挙に暇がない。つまり、欧米は植民地利権を奪った玄洋社、黒龍会に報復したのだ。
報復から幸福は生まれない。「福寿飯店」での会食に腹を抱えた(抱腹)満足感は、美味しいものを食べたという口福(幸福)へと転じるのだ。
*当日の様子はユーチューブの「玄洋社チャンネル」で視聴できます。
「やっかいな隣人アメリカとは」
今回、7月の歴史講座でも「アメリカ建国史」を求められた。さほど、世界は狭いというよりも、かつてアメリカが身近にあった自治体だけに、海の向こうの国ではないのが正直な感想だろう。昭和25年(1950)の朝鮮戦争では、米軍板付基地(現在の福岡空港)からひっきりなしに爆弾を抱えた戦闘機が飛び立った。今も、この地域には「ハウス」と呼称された米軍住宅が残骸のように残っている。この米軍ハウスに住むアメリカ人の餓鬼どもから意地悪をされた過去を持つ私は、いまだアメリカが好きになれない。卒業した中学校の旧職員室は米軍将兵のダンスホールを転用したものであり、職員室にステンドグラスがあるという艶っぽいものだった。米兵のオンリーと呼ばれる日本人女性もいた。米兵との間に誕生したハーフの子供など、珍しくもなかった。
そんな身近なアメリカでありながら、この国がどうやって成立し、存在しているのか、詳細に学校で習った覚えもない。しかし、そんなことは言っておれない。現実に、やっかいな隣人として、これからも、アメリカは日本に大きな影響を与え続けるだろう。そこで、概略なりとも知っていただきたく、書評を紹介したい。
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『アメリカ革命』上村剛著、中公新書 令和6年(2024)「月刊日本」10月号掲載
アメリカ海軍の戦略家マハン(1840~1914)は帝国主義者を自認していた。その歴史的背景を知りたいと思い、本書を手にした。マハンといえば、日本では日露戦争日本海海戦での参謀・秋山真之の師として知られる。
「アメリカ革命」とは平たく言えば建国史だが、アメリカ東部13州がイギリスの植民地支配の圧政から逃れるために戦ったのが独立戦争。更に、白人開拓民が先住民との戦いを制し、黒人の奴隷解放を大義名分にした南北戦争を経ての現在のアメリカという知識程度。しかし、序章、終章を含む全8章は、従来、世界史で習ったアメリカの歴史が通用しないことを自覚させる。日々、マスコミはアメリカ大統領選挙の経過を報道するが、上っ面をなでただけのアメリカ建国の知識では不完全燃焼に陥るのも致し方ない。
そんな現代アメリカに対する理解不能の現状に迷い込む大きな問題は、アメリカが「帝国主義国家」であるという事を意識していなかった事にある。本書189頁に「アメリカ合衆国は『帝国(empire)』としての道を歩んでいく。」という文言を目にした時、マハンの帝国主義者としての源泉を発見した思いだった。続く195頁からの第6章「帝国化と民主化の拡大」は、まさにアメリカは帝国主義国家であると明言した章である。
振り返れば、1941年(昭和16)から始まった日米戦争は「無謀な戦い」として片付けられる。しかし、ペリーが小笠原諸島を不法占領し、ハワイ王国がアメリカに併合させたように、アメリカは帝国主義国家として積極的に打って出る国だったのだ。そのアメリカの本質を本書は存分に証明している。2025年、日本は敗戦から80年を迎える。対米自立を叫ぶ割には進展しない日本の立ち位置だが、アメリカが「帝国」である事を認識していなかった戦略ミスではないかと考える。
蛇足ながら、中国が軍拡に励むのも、マハンの論(帝国主義)をモデルにしているからに他ならない。 (終)
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今回のアメリカ建国史講座では、先住民族であるインディアンについても語った。コロンブスは新大陸を発見したが、それが今のアメリカに該当する。しかし、インドを目指していたコロンブスは新発見の大陸をインドと思い込み、先住民族をインドの人としてインディアンと呼んだ。そのインディアンはトウモロコシを主食にし、バッファローを食べていた。すべて、神様が生きていくために与えてくださったものとして大事にしていた。
ところが、白人たちはトウモロコシからアルコール度数の強いバーボンを作り、インディアンを泥酔させて土地の譲渡契約書にサインをさせた。インディアンにとって土地は神様のものであり、売り買いの対象ではない。こうして白人はトウモロコシ畑を拡大してバーボンを売りまくる。
次に、インディアンの食糧であるバッファローをハンティングの玩具として殺戮してまわった。ついに、一頭もバッファローはいなくなり、食に窮したインディアンは保護区で白人の支配下におかれた。
西部開拓と聞けばテレビ番組でおなじみの「ローハイド」を想起するが、あれは白人の北米大陸の侵略劇だった。そういった歴史を知らず、日本人は「かっこいい!」と興奮していたのだった。
ハンティングでバッファローを絶滅させた白人たちは、欧州からハンティングの標的用としてユーラシアイノシシを北米の野に放った。結果、持ち込んでいた豚と交配し、今では農作物を食い荒らす害獣となっている。なにしろ、イノシシは一年弱で成長し、一年に8頭から10頭の子供を出産するのである。ネズミ算どころかイノシシ算として莫大な頭数になっている。そのイノシシが害獣となったのも、因果応報か。
こんなアメリカから農産物を輸入しているのが日本である。さらに、日本の畑で育つ野菜の種子もアメリカに握られている。つまり、かつてのインディアンと同じく、日本人は生殺与奪件をアメリカに握られているのだ。もはや、ミサイルもドローンも不要で簡単に日本人を殺す術をアメリカは手中に収めていることを日本人は知るべきだろう。
現今の日本人は座して死を待つか。北米大陸のイノシシのごとく、シシ(猪)奮迅すべきか。よく、考えなければならない。
「二百年前のラブレター」
そこで、少々、解説をすると博多の町には名所旧跡が多々ある。しかし、関心が無いのか、予算が無いのか、看板や石碑などの史跡案内が極度に少ない。行政に申請をするにも手間がかかる。予算が付いたとしても制約が多い。博多には「博多にわか」という言葉遊びの伝統芸能があるにも関わらず、行政が設置するものには「遊び心」は許されない。そこで、立石武泰氏は民の力で看板設置を考えた。もともと、博多は大阪の堺と並ぶ商人の町である。民の力として町中に立っている電信柱に看板を取り付けるというアイディアを実行に移した。
そんな博多の町に取り付けられた電柱看板の画像を皆さんに見てもらいながら立石氏の笑いを取りながらの歴史解説だった。
私が個人的に面白いと笑ったのは、亀井少琹(かめいしょうきん)という女性のラブレターの解説だった。
そこで、亀井少琹とは誰?何者?と思われるので、亀井少琹の墓参をした時のことを一文にまとめているので、それを参照していただきたい。
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亀井少琹の墓を訪ねて
九州は男尊女卑と言われる。しかし、そう見るのは間違いだ。とりわけ、筑前福岡藩(現在の福岡県)には、書画詩文に優れた亀井少琹、男装の漢詩人原采蘋(はらさいひん)、勤皇志士の母・野村望東尼(のむらぼうとうに)、そして、玄洋社生みの親ともいわれる男装の女医・高場乱(たかばおさむ)がいる。いずれも才女だが、今回、これらのなかから、亀井少琹をご紹介したい。
亀井少琹(幼名は友)は寛政10年(1798)2月19日、福岡の唐人町(現在の福岡市中央区)に生まれた。父は亀井昭陽、祖父は亀井南冥という著名な儒医(儒者であり医者)の家に生まれた。特に祖父の亀井南冥は福岡藩校甘棠館(かんとうかん)の館主であり、自由闊達な学問の師として福岡藩内外から評判が高かった。更に、亀井昭陽も学者としての名声が高く、そんな家庭環境もあってか、少琹は幼少から聡明であり、書画詩文に優れた才女として知られた。
「亀井友(少琹)空石(昭陽)の女(むすめ)にして雷首(三苫源吾)の妻たり、今宿(福岡市西区)に住す、扶桑第一(日本一)梅の詩を以て世に知られる、詩文書画に巧みなり、好んで四君子(蘭、菊、梅、竹のこと、気品があるので君子にたとえる)を書く、頗る奇韻(独特の風流)あり、采蘋(原采蘋)と並び称せられる」(『筑前人物志』より)
亀井少琹は文化13年(1816)12月3日、父・昭陽の弟子であった三苫源吾と結婚し、別家を建て、今宿で医業と家塾を開く夫の亀井雷首(養子となった三苫源吾のこと)を補佐する。亀井南冥、昭陽父子の弟子である廣瀬淡窓(豊後日田の咸宜園を開いた)、『日本外史』を著し漢詩人として著名な頼山陽も称賛する女性が亀井少琹だった。
安政4年(1857)7月6日、60歳にして没したが、求められて描いた書画は今も人気が高い。
豊後日田の咸宜園には日本全国から秀才が集ったが、その原点ともいうべき学問所が亀井南冥、昭陽の亀井塾だった。その塾を陰で支えていたのが亀井少琹である。今、少琹は浄満寺(福岡市中央区地行2―3―3)の亀井一族の墓所(福岡県文化財指定)に眠っている。 (終)
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亀井少琹はあの国宝金印(漢委奴国王)の解説書を著した亀井南冥の孫娘だが、今に伝わる艶詩が遺されている。夫となる亀井雷首(三苫源吾)との間で交わされたラブレターがそれになるが、「博多にわか」も顔負けの捧腹絶倒の逸話である。
まず、三笘源吾から亀井少琹に贈った恋文からして笑える。
「君に王上の点なくんば、われ出頭の天とならん」である。
「王上の点」だが、「王」の漢字の上に「点」がつけば「主」となる。「出頭の天」とは、「天」の上に頭が出れば「夫」という文字になる。つまり、主上(婚約者)がいないのならば、われ(私)は(あなたの)夫になりたい。そういう言葉(文字)遊びにかけたラブレターだったのだ。
これに対し、
「九州第一の梅 今夜君が為に開く花の真意を知らんと欲せば 三更の月を踏んで来たれ」
と、亀井少琹は返書した。「三更の月」とは、深夜の意味だが、三笘源吾の求愛に対し「オッケー!」とストレートの書を返したのである。「少琹艶詩」とも呼ばれるが、これが二百年前の文人の恋文なのである。
しかし、まさか、このラブレターが電柱看板となって町ゆく人の視線にさらされるとは、ご両人も想像もできなかったに違いない。
こんなご両人の結果はいかに。そこで私は両人の住居があった福岡市西区今宿を訪ねた。(ストーカーか?)
目標は旧唐津街道に面した二宮神社だ。この二宮神社は、福岡県糸島市にある櫻井神社とともに、ボーカル・グループ嵐にちなんで嵐ファンが訪れる神社ともいう。小さな村の鎮守程度だが、全てを知りたいというファン心理が後押しするのだろう。神社は旧街道に面して鳥居があり、10メートルほどの距離の細い参道を進むと、拝殿が鎮座している。その参道左手に亀井少琹の旧居跡を示す看板があった。神社境内を抜けると今津湾に面した浜辺。視界には能古島、志賀島、糸島半島である。船を使えば、島々との往来は容易。江戸時代の人々にとって船は日常の交通機関だった。
尚、二宮神社の参道脇に「亀井」という表札の家があった。家名は亀井か・・・などとバカなことを思いながらピンポンと鳴らして確認したかった。けれども、不審者と間違われそうなのでやめた。後日、そこは亀井少琹の子孫の住む家と知人が教えてくれた。やはり、鳴らすべきだったか。
それにしても、この三笘源吾の問いかけに亀井少琹の返書は「会いに来い」とストレート。ここにも、愛(会い)に恋(来い)とかけているのだろうか。
「闇を解くべきか」
昨夏も暑かったが、今夏はさらに暑い。とはいえ、時間は待ってくれないので、7月11日(土)、インターネット・ユーチューブ「九州プリンシプルテレビ・玄洋社チャンネル」の収録に出かける。今回は佐賀県を回ることになった。
その最初の収録地は佐賀県小城市の曹洞宗福田寺(ふくでんじ)である。ここは本「週報」の令和8年(2026)5月21日付、第21号で紹介した寺である。血盟団事件の井上日召は日蓮宗僧侶ではなく、禅宗の居士号を持つ人であると述べた。そのことを覚えておられる方もいると思う。
今回もアポイント無しの突然の訪問だったにも関わらず、住職が長時間、話をしてくださり、その話を収録した。放送についても許可をいただいた。後日、前出の「九州プリンシプルテレビ・玄洋社チャンネル」で視聴いただければと思う。
この住職の話の中で、五・一五事件での黒岩勇について話が出た。犬養毅首相に一弾を加えた人物である。黒岩勇は佐賀県小城郡東多久村(現在の小城市東多久町)の出身で、旧制小城中学(現在の小城高校)を経て海軍兵学校に入る。まさに、この福田寺の近くである。黒岩は五・一五事件で入獄。出所後、インドネシア独立運動に工作員として従事。インドネシア独立戦争に従軍したが、1955年国外追放。その後の経緯は不明ながら、1963年のガネフォに選手団顧問で参加。インドネシアに親族がいるとも、別に黒岩通の名前で戸籍を持っているともいわれるが、謎が多い。
そこで、インドネシアで1963年に開催されたガネフォについて、次の書評で理解していただきたい。
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『GANEFO その周辺』宮澤正幸著、拓殖大学創立百年史編纂室
・スポーツの歴史に意外な史実が
本書は、1963年(昭和38)11月にインドネシアのジャカルタで開催されたガネフォこと新興国スポーツ大会の記録。47カ国、2564名が参加した大会だけに「幻のオリンピック」とも呼ばれる。1964年(昭和39)の東京オリンピック開催にも大きな波紋を広げた。近代のスポーツ史を考える上で、記者、監督として参加した著者の記録は貴重。47カ国、2564名が参加した大会記録だが、スポーツ正史としては扱われない。内容として「第四回アジア競技大会」「第一回新興国スポーツ大会」「第一回アジアGANEFO」の三部、約90頁で構成されている。
まず、このガネフォだが、第四回アジア大会での欧米の介入が発端となる。アジア大会にインドネシアが中華民国台湾、イスラエルに招請状を出さなかった。このことから、スポーツは公平でなければならないとするIOC(国際オリンピック委員会)が公式記録として認めないと牽制。これにインドネシアのスカルノ大統領が反発し、IOC、国連までをも脱退した。
そして、独自にソ連(現在のロシア)、中国(北京)の後ろ盾を得て、独自のスポーツ大会ガネフォを開催した。ここでIOCがガネフォに出場した選手には東京オリンピック出場資格は無いと宣告。東京オリンピック開催を控えた日本の体育協会、JOC(日本オリンピック委員会)は、ガネフォに選手団を送らなかった。しかし、アジアとの連帯を考える日本の有志は選手団を編成しジャカルタへと乗り込んだ。インドネシア国民は、その日本の信義に大興奮したのだった。この選手団長を頭山満(玄洋社)の直孫である頭山立國氏、最高顧問に柳川宗城(元陸軍大尉、中野学校、インドネシア独立義勇軍教官)が就任して大会に臨んだ。
翌年、東京ではアジア初のオリンピックが開催され。IOCを脱退し復帰したインドネシア、ガネフォで問題となっていた北朝鮮も来日した。しかし、両国ともオリンピックには参加せず帰国した。その後、インドネシアでは政変によりスカルノ大統領が失脚。
評者は『アジア独立と東京五輪』において、このガネフォについて書き下ろした経緯があるので、本書に述べられる事々は手に取るように理解できた。しかしながら、ガネフォを初めて知る人には難しい。欧米のアジア侵略史、インドネシア独立戦争、インドネシア独立に至る歴史に関心が無い方には、皆目、理解が及ばない。ただ、本書の45頁には「五・一五事件秘史」という一文があり、これが実に驚きの内容だ。連合赤軍の重信房子、その娘の周辺との関係性は、この昭和7年(1932)の事件にまで遡らなければ理解は進まない。
インドネシアのスカルノ大統領は「スポーツは政治」と言い切ったが、まさに、スポーツの陰に政治が顔を覗かせている。その意味でも、スポーツ史は近現代史の一部として読み通さねばならない。それを強く意識させる一書だった。 (終)
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この書評では詳細に黒岩勇について記さなかったが、黒岩勇には紀地三明など複数の変名があると出ている。しかし、真相はわからず、謎のままだ。
そして、令和7年(2025)1月23日、NHK・BS放送で「祖父への旅80年後の傷痕 インドネシア残留日本兵と子孫」という番組が放送された。これはインドネシア残留日本兵である黒岩「通」の子孫が祖父の痕跡を求めて来日するというものだった。そこに登場したのが、ガネフォ選手団長であった頭山立國氏だった。黒岩通と親しい関係の人としての番組出演だった。番組の中では頭山立國氏と黒岩通が一緒に映った写真、集合写真も紹介された。放送内容についてはNHKオンデマンドで視聴が可能となっている。
この収録ではディレクターの小西晴子氏から私にも取材申し込みがあった。『アジア独立と東京五輪』の著者であること、頭山立國氏と親交があることからだった。小西ディレクター自身、番組に登場している。
もともと、玉利斉氏(三島由紀夫にボディビルをレッスンした方)から「君はガネホ(フォ)を知っているかい?」という話から始まったガネフォの執筆だったが、真実はいまだ闇を孕んだままだ。
この史実解明の指令は、「闇解け」なのか「止めとけ」なのか、判断に苦慮する。
「浪曲と玄洋社のつながり」
7月4日(土)の午後、福岡市美術館ミュージアムホール(福岡市中央区)での浪曲独演会に行った。浪曲師は玉川奈々福さん、曲師は広沢美舟さんである。
この浪曲だが、関わりをもつようになったのは数年前、浪曲を知ってほしいとの誘いから浪曲会場に足を運んだのが始まりだった。当初、浪曲など、渋い声の腹の底から絞り出す語り芸と思っていた。ところが、今回の玉川奈々福さん、広沢美舟さんコンビは海外公演もこなし、今や浪曲はインターナショナルの語り芸となった。
そこで、私が浪曲を面白いと思うきっかけとなった浪曲会についての一文から、現代の浪曲事情を知っていただきたい。
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「浪曲中興の地・博多」:令和5年(2023)7月2日
福岡・博多は「浪曲中興の地」といわれる。それは稀代の浪曲師・桃中軒雲右衛門(1873~1916)が自由民権運動団体玄洋社、その機関紙「九州日報」の支援を受け大成功を納めたことによる。この成功を受け、桃中軒雲右衛門が東京公演で大成功を収めたことで、浪曲の格式が大きく向上した。
そこで、浪曲中興の地で浪曲を再びという試みが始まった。令和5年(2023)7月1日(土)、博多祇園山笠で賑わう櫛田神社(福岡市博多区)近くの龍宮寺に出かけた。ちなみに、龍宮寺という寺の名前の由来は、人魚伝説にちなんだ寺名で、仏さまと並んで本堂の左右に妖艶な人魚の額が嵌まっている。
「浪曲の夏」と題した公演だが、浪曲師は国本はる乃、曲師(三味線)は広沢美舟である。午後2時開演だったが、熱心な浪曲ファンが本堂を埋めた。ご老人が多いのではと思ったが、案に反して年齢層は相当に低い。第一、浪曲師の「国本はる乃」じたいが27歳であり、女性の浪曲師である。曲師の広沢美舟も若い。浪曲イコール、渋い。というのは、古いのだ。
演目は3席あったが、最初は水戸黄門漫遊記。会場の笑いをとりながらの語りは、聞く者を飽きさせない。言葉遊びが実に巧妙にして面白い。
「山より大きなシシはいない」「海より大きなクジラはいない」「富士につまづく人はいない」など、テンポの良い言葉に曲師(三味線)の合いの手が演者を盛り上げ、気づけば30分。ハッピーエンドで終わった。
浪曲といえば、清水の次郎長、国定忠治などの任侠話が定番。そこで、国定忠治の語りも演じるが、「弱きを助け強きをくじく」任侠モノは時代が異なるのか、言葉、ストーリーの展開に残念ながら聴衆の反応は今ひとつ鈍かった。
休憩後の3席目は「子別れ峠」という、互いに親子であると名乗れない「お涙ちょうだい」の話。主催者は、この人情噺が押しという。芸歴18年の「国本はる乃」の声量、声の調子は、情感を際立たせる。
浪曲は、明治時代、娯楽でありながら、読み書きのできない庶民に対し、道徳教育、倫理教育を行うものだった。勧善懲悪、義理人情、親子の情愛などを聞かせるのが浪曲だ。「(子供を)育てたが親」など、言葉の力がセリフに織り込んである。庶民にとっての耳学問が浪曲だが、これを自由民権運動に使ったのが革命浪人の異名をとる宮崎滔天だった。桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)と名乗って高座を務めたのは滔天の『三十三年の夢』に詳しい。
桃中軒雲右衛門が玄洋社の支援を受けて大成功を収めることができたのは、革命浪人・宮崎滔天が玄洋社の末永節(すえながみさお)らと親しかったからだが、その縁で雲右衛門も名を遺せた。そう考えると、やはり、福岡・博多の地は「浪曲中興の地」と呼べるのだ。 (終)
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浪曲中興の地でありながら、福岡・博多での浪曲人気は低迷している。浪曲に関しては素人の集りと思ってよい。そこで、玉川奈々福さんは浪曲とは何か、曲師がアドリブで三味線を奏でるなどの説明を面白おかしく語ってくれる。日本には三大語り芸と呼ばれる落語、講談、浪曲がある。唯一、浪曲だけが立って語る。これには理由があるのだが、自由民権運動の演説会で官憲の取り締まりを逃れる術として浪曲会にしていた。警官の姿が目に入れば、すぐさま演台にテーブルかけをかぶせて一節うなると取り締まりを逃れることができる。ここから浪曲が立って語るもととなった。極めつけは玉川奈々福さんが「玄洋社」が浪曲を三大語り芸にしてくれたと聴衆に語りかけたくれたことだった。これは、実に、ありがたい一言。ただ、「玄洋社って何?」という客の反応。(代わりにこの私めが語って聞かしょうか・・・
玉川奈々福さんの第一席目の演目は、なんと、「浪曲シンデレラ」。フランスのシャルル・ペローが1697年に著した『灰かぶり姫』が原作といわれる。ほかにもグリム童話にも似た作品があるというが、なんといってもディズニー映画の「シンデレラ」で日本人は脳裏に刻み込まれている。これを浪曲で演じるのだから、古いとか渋いを通り越し、斬新と思うしかない。意外な演目と語りに引き込まれる。ストーリーが分かっているだけに、表現の面白さが際立つ。
休憩を挟んでの第二席目は「仙台の鬼夫婦」というものだった。この話は初めてだったが、仙台藩の武家夫婦の話だ。海外で江戸時代の武士の話が海外の方々に理解されるのだろうかと思ったら、意外にウケる。不思議に思って海外の方々に聞いてみると、なんと、クロサワ映画で時代背景を知っているとのこと。これには、玉川奈々福さんも驚くやら先人に感謝するやら。ストーリーは薙刀の使い手である妻が、心を鬼にしてダメ男で博打好きの夫を一流の剣術使いに仕立て上げるハッピーエンドの話。
玉川奈々福さんは面白い経歴の持ち主で、元は筑摩書房の編集者だった。曲師を経て浪曲師になったそうだが、浪曲の未来、自身の姿を予見していたのかも。なにしろ、先を見通すことができる竹輪(筑摩)書房の編集者だったのだから。